密 教



■ 日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ、空海
 空海はちょっと桁外れの人間である。彼を「天才」と呼ぶことすら、妙に空々しい。まるでスケールが違った人間である。
 空海は唐に渡って、密教を持ち帰って来た。歴史の教科書には、そのように書かれてあるが、本当はそうではない。空海が持ち帰ったのは密教の経典類であって、密教そのものは空海が創ったものである。幼稚で未熟な密教を、精緻で深遠な教理体系に完成させたのは空海である。空海は単なる運搬人ではなかった。仏典の言葉であるサンスクリット語(梵語)を、日本人で最初に学んだのも空海である。

 空海は満濃池の修築という、土木技術の才を発揮している。日本で最初の庶民の学校を造ったのも、空海であった。
 漢文を書かせれば、空海は唐の人々が舌を巻くような名文・美文をものした。書道においては、彼は平安の「三筆」の一人に数えられている。
 のちに成立した弘法大師伝説は抜きにして、確実に空海のやったことをざっと拾っても、これくらいはある。百科事典でもひろげれば、空海の業績がずらりと並んでいる。よくもまあ、一人の人間がこれだけのことをやれたものだと、思わず溜息がもれるほどの仕事をやってのけている。空海は日本のレオナルド・ダ・ヴィンチであろう。
(出典=ひろさちや「空海入門」中公文庫)

■ 空海への道
 2015年は高野山開創1200年で、さまざまなイベントが開催されました。私は和歌山県出身ですが、約30年間県外に住んでいまして、和歌山県といってもどこにあるか知らない人も多かった。岡山県と勘違いされることもあり、柿やミカンの産地で、空海で有名な高野山があると説明していました。中には「空海の真言宗ってどんな宗教なのか」と質問する人がいましたが、恥ずかしいことに何も答えられませんでした。

  〈密教は後退した仏教〉
 確か高校の倫理社会で、密教(真言宗もその一つ)というのはインドの呪術を取り入れた後退した仏教だと教えられた記憶があり、どうも興味がもてませんでした。鎌倉仏教の親鸞・道元・日蓮の教えの方が分かりやすい気がしました。
 特に道元の教えはとても哲学的・合理的で、究極の仏教だと思いました。また、「禅」はブッダの教えに最も近いと思いました。自分としては、これで仏教に自分なりの結論をつけたつもりでした。

  〈アナログからデジタルへ〉
 ところがある時、いくら悟りを開いてもそれを表現し、人に伝えられなければ意味がないと思ったのです。時代はアナログからデジタルに変わる頃でした。昔は活字だけであったものが、パソコンを使い、イラストや図表を入れてカラフルに表現できるようになりました。その時ふと「これは空海が考えたことと同じじゃないか」と思ったのです。

  〈「悟り」は表現できるか〉
 「悟り」をどう考えるか、という場合に、二つの立場があります。一つは、例えば禅宗のように「不立文字」(ふりゅうもんじ)と言う言葉がありますが、「悟り」は文字で表現できないという立場です。それに反し、空海は「表現できる」という立場をとりました。「果分可説」(かぶんかせつ)といいます。空海は並はずれた言語能力・文章表現力をもっていたのですが、言葉だけでなく、絵や梵字を使って「悟り」の内容をビジュアルにわかりやすく表現しようとしました。その集大成が「曼荼羅」となります。
 こう考えると、現代の画家、デザイナー、アーチストとしての側面をもっており、やっと空海との接点を見つけた気がしました。

 空海は次のような言葉を残しています。
  法はもとより言(ごん)なけれども、言にあらざれば顕はれず、
  真如(しんにょ)は色(しき)を絶つれども、色を待ってすなわち悟る。(請来目録)
(仏法の真理は、もともと言葉を離れたものではあるけれども、言葉によらなければ表現することができない。また絶対の真理は色や形を絶ったものではあるが、色や形で表すことによって、それを知ることができる。)

  〈大宇宙を取り込む密教〉
 空海の青年時代、奈良仏教や最澄の天台宗が隆盛を誇っていました。ところが空海は、知識とか理論を重視する宗教よりも、五感に響くような芸術性や創造性に富んだ宗教を求めました。学業優秀でエリートコースを歩んでいたにもかかわらず、大学を中退し、山野を駆け巡り修行しました。そしてついに、大自然や大宇宙を取り込む密教の教えにたどりつきました。その後、中国に留学しますが、既に密教のエッセンスを体得していたと言われます。中国の恵果和尚(中国での密教の先生)は、一目見て空海の才能を見抜いたのでした。

  〈日本的感性の源泉〉
 真言密教の言葉に「入我我入」(にゅうががにゅう)という教えがあります。そのものに自分が入り、自分の中にそのものが入るという意味です。日本人は桜が咲くのを心待ちにし、雨や風で桜が散ってしまわないか、我がことのように心配しています。それはまさに、自分が桜になり、桜が自分になっているからだと思います。空海が全国的に人気が高いのも、その教えが日本人の感性(自然をいつくしみ、自然の至る所に神様が宿っているという感覚)にピッタリ合っているからではないでしょうか。
 今日、日本の仏教は葬式仏教と批判されておりますが、本来は人の生き方、社会や世界のあり方を説いたものです。高野山開創1200年を機に空海の生き方に触れてみてはいかがでしょうか。               
(2015)

■ 弘法大師空海の生涯
   「幼名を真魚(まお)と名付けられる」
 空海は、宝亀5年(774)、讃岐国多度郡屏風ヶ浦すなわち今の香川県善通寺のあるあたりで生まれた。
 父はこの地の国造である佐伯直田公善通(さいきのあたい・たぎみ・よしみち)、母は同じくこの地の氏族阿刀家の出の阿古屋(あこや)といった。不思議にも、父善通の実弟であり後に朝廷の官学者として空海の指南役になる阿刀大足(あとのおおたり)は阿古屋の妹と結婚して阿刀家を継ぎ、両家は兄弟姉妹が重縁の関係にあった。
 空海は「真魚(まお)」と名づけられ、父母や親族に「貴物(とふともの)」といわれて可愛がられた。

 真魚は都に出て大学に入学。学問に励みますが、官吏養成のための儒教中心の教育に疑問を抱きます。そしてついに、
「だれも風をつなぎとめることはできないように、だれがわたしの出家をつなぎとめることができようか」と、僧の道を歩みはじめます。

   「私費の留学僧として遣唐使船にて唐へ」
 24歳になった弘法大師空海は、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を書き上げました。のちに改定し『三教指帰(さんごうしいき)』といわれるものです。そのなかで、儒教、道教、仏教を比較して、仏教がどのように優れているかを解き明かし、真の仏教を求めて僧として歩みだすことを宣言します。
 それから7年間、四国や和歌山で山岳修行を行い、奈良などの寺院で仏教を学びました。その修行中、久米寺の東塔に納められていた密教の経典、『大日経』と出会いました。この密教の教えを深く理解するには、文字や言葉では伝えられないものを、師より学ばなければなりませんでした。そこで、弘法大師空海は、師を求め唐に行くことを決意します。

 延暦23年、804年、私費の留学僧として遣唐使船に乗り込みました。26年ぶりに出航された遣唐使船には、偶然にも、桓武天皇により派遣された伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)が乗船していました。 地位も待遇もまったく異なる弘法大師空海と伝教大師最澄。後に、平安の二大仏教、真言宗と天台宗の開祖となる二人の出会いでした。弘法大師空海が31歳のときのことです。

   「師、恵果(けいか)との出会い、そして別れ」
 延暦23年、804年、12月、弘法大師空海は唐の都、長安に入りました。この都で弘法大師空海は、密教の理解に必要なサンスクリット語などを学びながら、最新の知識や技術を吸収していきました。
 およそ半年たった初夏のこと。弘法大師空海は、唐の国師であり、正統な密教を受け継いだ僧、恵果(けいか)がいる青龍寺(せいりゅうじ)を訪ねました。恵果は会うなり、「われ先より汝の来れるのを知り、相待つこと久し」と告げたといいます。

 まもなく、弘法大師空海は、胎蔵界(たいぞうかい)、金剛界(こんごうかい)、そして正統な密教の師となる伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂(かんじょう)を受けて、真言密教の第八祖となりました。灌頂名は、遍照金剛(へんじょうこんごう)。
 それとともに、恵果は、宮廷画家の李真(りしん)などに曼荼羅を描かせ、五鈷杵(ごこしょ)、五鈷鈴(ごこれい)、金剛盤(こんごうばん)という密教法具、経典、_陀穀糸袈裟(けんだこくしのけさ)、仏舎利八十粒などを弘法大師空海に授けました。
 そして、出会って6ヶ月後、真言第七祖、恵果は静かにご入滅になりました。

   「請来目録(しょうらいもくろく)を朝廷に提出」
 正統な密教の師となった弘法大師空海は、入唐から2年後、膨大な経典や仏画を持って帰国しました。さきに唐より戻っていた伝教大師最澄は、弘法大師空海が朝廷に出した『請来目録』を見て、密教のほぼすべてが日本へ伝授されたことを知りました。経典類だけでも216部461巻、両界曼荼羅(りょうかいまんだら)などの図像を十軸、密教法具などが記されていました。
 異国の香りを含んだ密教という新しい教えは、朝廷内の人々の間に広まり、最大の関心事となりました。

 弘法大師空海は、桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇の信任を得て親交を深めていきます。伝教大師最澄とも、交友を深めていきますが、考え方の違いにより次第に疎遠になっていきます。
 その後、東大寺の別当、乙訓寺の別当などを経て、弘仁7年、816年、修禅の道場を高野山に建立したいという旨を朝廷に願い出ました。唐より帰国して10年が経ったときのことです。

   「東寺をながく空海に給預(きゅうよ)する」
 弘法大師空海は、決壊を繰り返し人々を苦しめていた満濃池の修築工事を完成させ、翌年には、東大寺に灌頂道場真言院を建立しました。
 そして、弘仁14年、823年。嵯峨天皇は、官寺だった東寺を弘法大師空海に託しました。弘法大師空海50歳のできごとです。『御遺告(ごゆいごう)』のなかには、このときの心情が、「歓喜にたえず、秘密道場となす」と記されています。

 弘法大師空海は、東寺を真言密教の根本道場と位置づけました。講堂、五重塔の工事に着手する一方、東寺から東に歩いて数分の場所に、一般の人々を対象とした私設の学校、綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)を設立します。
 この開校にあたり弘法大師空海は、「物の興廃は必ず人による。人の昇沈は定めて道にあり」と述べています。「物が興隆するか荒廃するかは、人々が力を合わせ、志を同じくするかしないかにかかっている。善心によって栄達に昇る、悪心によって罪悪の淵に沈むかは、道を学ぶか学ばざるかにかかっている」と、教育の必要性を語っています。

   「身は高野(たかの)、心は東寺に納めおく」
 東寺の御詠歌(ごえいか)に、「身は高野、心は東寺に納めおく、大師の誓いあらたなりけり」というものがあります。
 この御詠歌のとおり、弘法大師空海は、東寺に住房を構え、ここで、東寺の造営という大事業と並行して、高野山に壮大な伽藍の建立を進めていました。都にある東寺を密教の根本道場に、高野山を修禅道場とする計画でした。

 弘法大師空海は修行者を「これ国の宝、民のかけ橋なり」といっています。密教にとって修行者を育てる場は必要不可欠なものでした。弟子たちは東寺の造営と高野山での道場の建築を進めていました。
 天長9年、832年、ついに、高野山に金堂が完成、8月には、万灯会(まんどうえ)が行われました。
 承和元年、834年、弘法大師空海は朝廷に「宮中真言院の正月の御修法(みしほ)の奏状(そうじょう)」を提出しました。

 そして承和2年、835年を迎えます。弘法大師空海は、宮中真言院において、鎮護国家、五穀豊穰、国土豊穰を祈る後七日御修法(ごしちにちみしほ)を行います。その後、およそ十数年過ごし住み慣れた東寺をあとにします。
 高野山にようやく春が訪れようとしている旧暦の3月21日、弘法大師空海は、弟子たちの読経のなか、ご入定(にゅうじょう)になりました。
(出典=教王護国寺・東寺)



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