その他



■ 日本の宗教戦争
 中世ヨーロッパにおけるキリスト教諸国による、イスラム教諸国との宗教戦争は「十字軍」として、ほとんどの方が知っていることだと思う。また、ヨーロッパではカトリック国とプロテスタント国の戦争が起こったり、魔女狩りや異端審問といった名目で、キリスト教諸国がユダヤ人などの異教徒虐殺を続けていたことも、日本人の多くは知っているはずだ。ところがわが国日本にも、古来より数多くの宗教戦争があったことを意識する人は少ないようだ。

 古くは物部氏と蘇我氏の争いは、神道(物部)と仏教(蘇我)の争いといわれていて、仏教側が勝利。やがて一向宗(浄土真宗)、日蓮宗、天台宗が抗争するようになる。天台宗も延暦寺派と紀三井寺派に分かれて武力抗争をする。真言宗も高野山と根来寺に分かれ、戦うようになる。これら当時の宗教団体はそれぞれの領土を持ち、年貢や通行税を徴収する「宗教王国」と化していたのである。

 天文5年(1539)には、比叡山の僧兵と武将の六角近江衆20万人以上の僧兵や兵士が、京都の法華宗寺院21本山を襲っている。対する法華宗の兵力はその時2〜3万しかおらず、京都法華21本山はすべて焼き落とされ、女子どもも含めて数万人が殺されたという。
 日本でもこういった数千、数万人単位の宗教戦争がたびたび起こっていたようだ。

 宗教戦争の理由は、いつの時代、どこの世界でも変わらない。自宗派が正しさの証明であり、その神仏による「慈悲」や「愛」により悩める人々を「救う」ことが大義名分。ところが実際は、信者の獲得や自宗派の勢力拡大と利権の争奪である。
 これら日本宗教戦争に「待った」をかけたのが織田信長である。信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、石山本願寺を約10年かけて追い出している。天下統一を目指す合理主義者信長にとって、彼ら巨大武装宗教団体は「庶民に救いを与える宗教団体」というよりも、「神仏の名を借りた武装集団」としか映らなかったのであろう。

 その信長も、本能寺という法華宗の寺で殺されるのであるが、一説によると最初に襲撃したのは明智光秀ではなく、本能寺のすぐ近くにあった南蛮寺(キリスト教会)が大砲を撃ちこんだためという説もある。
 当初信長は、キリスト教に好意的であったが、やがてキリスト教徒たちが他の神社仏閣を焼き討ちしたり、日本人を海外に奴隷として売り飛ばしていることが信長に知れたため、キリスト教が信長に迫害されるようになる前に信長を殺してしまった、という説である。

 この説の真偽はともあれ、信長の死後、豊臣秀吉はキリスト教を弾圧し、家康はキリシタンを徹底的に排除。さらに家康は檀家制度を宗教界に強制させることで、宗教団体による勝手な布教を徹底的に制限した。そしてキリスト教徒たちの反乱でもある「島原の乱」を最後に、表立った日本の宗教による殺し合いは終わる。
 ただ、明治維新後の「廃仏毀釈」と、国家神道の台頭による第二次世界大戦への突入は、ある種の宗教戦争といえるかもしれない。日本の国家神道政策も、太平洋戦争敗戦と同時に終わることになる。

 宗教とは、人に救いをもたらすこともあれば、ときに戦争原因になることもあるということを、我々は忘れてはならない。
(出典=エキサイト・ニュース)

■ キリスト教の禁教令
 幕府が禁教令を出した理由は、基本的には「キリスト教が日本を植民地にしようとする動きが分かったから」と「キリスト教信者、キリシタン大名が集まって反乱を起こされたら困ると思ったから」の二点です。
 秀吉により「当時のキリスト教の、他国植民地化に対する先兵的特色」が確認され、キリスト教は部分的弾圧を受けます。次に徳川の世。三代将軍家光の代に天草・島原の乱が勃発し、「キリシタン反乱」が強く問題視されキリシタン厳禁の徹底が為されます。

 「日本人を奴隷として海外に売った」のは、注目されたとしても後付的要素が強く、当時は殆ど問題視されてはいません。そもそも、当時の人身売買は日常茶飯事の出来事で、江戸期はおろか、形を変え昭和代まで続きます。「目に余る行為」と写る事は有っても、直接禁教の主題とはならなかったと云えます。

 これ以外に考えられるのは「キリスト教自体の思想の危険視」が挙げられます。キリスト教の皆平等の意識は、江戸期の士農工商理論を覆します。現代においても、現政治理念を覆す少数派の宗教思想が存在したらどうなるか、想像にかたく有りませんね。また、キリスト教徒の「乱で死んでも天国に行ける」との考えも脅威でした。天草・島原の乱勃発で、幕府は真のキリスト教恐怖に直面する訳です。
 類似のものとして仏教の「一向宗」もキリスト教同様に禁教の対象となっています。 
(出典=知恵袋)

   「島原の乱」
 島原の乱は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる。 1637年12月11日勃発、1638年4月12日終結とされている。乱のきっかけは圧政・重税であったが、乱勃発後にはキリスト教が一揆のよりどころとされた。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。

 『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着した。

 しかし実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「鍬と竹槍、筵(むしろ)旗」でさえ正確ではないことが分かる。
 ちなみに、上述のように宗教弾圧以外の側面が存在することから、反乱軍に参戦したキリシタンは現在に至るまで殉教者としては認められていない。                             (出典=ウィキぺディア)

   「一向一揆」
 領主が農民の徴兵や年貢の取立てが激しく、反乱を起こすのが一揆。 さらに付け加えて、宗教が絡んでるのが一向一揆。宗派は浄土真宗の流れを組む石山本願寺。この石山本願寺に属する信者を一向衆と呼びます。

 時代は戦乱真っ直中、武士は領土拡大を建前に侵略された国々は田畑を荒らされ村を襲い、放火したうえ、女子供は強姦蹂躙のうえ殺されるか、人身売買され、家財の略奪もおとがめなしといった無法地帯が当たり前だった。 そういうなかで、14世紀末期に加賀で百姓たちが蜂起。この一揆で、領主の冨樫氏は自害に追い込まれ滅亡。以後、織田信長に倒されるまで100年間、百姓の持ちたる国と称された。

 勿論、百姓を支えていたのは浄土真宗の教え。 念仏を唱えれば、死後、極楽にいける。だから、反抗する奴は皆殺しにする。 今なら、ちょっとしたカルト宗教の洗脳に感じますが、いつの時代も苦しいときは誰かにすがりたくなるのは同じかもしれません。
 織田信長が一向一揆を惨殺しましたが、背景にはカルト臭のする一向衆を畏れていたのは事実です。 だって、念仏唱えながら槍もって、突進してきたら誰もがひくでしょ? 信長は神をも畏れぬではなく、実態のない偶像を崇めるのが不可思議だったのでしょう。                                      (出典=知恵袋)

   「隠れ念仏」
 権力から禁止された浄土真宗(一向宗)の信仰を、権力の目から逃れて信仰すること、或いはそれを行う者や集団を指す。南九州の旧薩摩藩や旧人吉藩では、300年にわたり浄土真宗が弾圧されたため、これらの信仰形態の名残が見られる。
 浄土真宗禁制に乗り出したのは人吉藩(相良氏)の方が早く、弘治元年(1555年)に遡る。この年、相良晴広は分国法「相良氏法度」に、一向宗(浄土真宗)の禁止を追加した。

 その要因はいまだ明確ではないものの「人吉市史」によると、大永6年(1526年)7月に真幸院(現・宮崎県えびの市及び小林市)を治めていた北原氏の人吉城攻めに原因があるのではないかとしている。北原氏が一向宗と関係していたとする史料として、『飯野郷土史』の記述であるが、北原庶流にして飯野郷の領主であった北原兼孝は「一向宗とならねば打ち殺す」として領民に入信を強要したとしている。

 薩摩藩は慶長2年(1597年)である。加賀一向一揆や石山合戦の実情が伝えられ、一向宗が大名によって恐れられたのが原因と考えられる。 また、島津家による公式の禁止令は慶長2年の4年後にあたる慶長6年(1601年)に出されている。これは慶長4年(1599年)日向国において庄内の乱が勃発、この首謀者である伊集院忠真の父・忠棟が熱心な一向宗徒という説があり、乱後に改めて正式に一向宗が禁止されたのはこのことが大いに影響しているものという説がある。
 以後、両藩に於いては約300年にわたり禁制が続けられた。               
(出典=ウィキぺディア)

■ 宮沢賢治と法華経
 宮沢賢治は浄土真宗から改宗して法華経を信仰し、同時に「国柱会」に入会して信仰布教に努めた。私はこの事実を知った時、正直いって驚いた。「雨ニモマケズ」を書いた賢治が、法華経の信者であったとは思いもよらなかった。しかし、賢治の詩集や童話がいかなる文学的価値を有するものであろうと、私にとっては、賢治が法華経の信者であったことに言及しない訳にはいかない。そして残念ながら「銀河鉄道の夜」の中には決定的な文章が見える。

 「みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれぱ、もう信仰も化学と同じようになる」

 この文章を読むと、日蓮主義者の熱狂ぶりが目に浮かんでくる。彼等は、法華経が唯一絶対の仏法であり、それがいかに科学的で合理的な宗教であるかを、それぞれ勝手な理屈を付けて証明しようとしている。だが、このような科学(化学)と信仰との短絡的結合は、いかにも日蓮主義者らしい独善的発想であると言わざるを得ない。
 賢治は、仏教の基本的知識を全く持ち合わせていなかったのだろうか。賢治における童話の純粋性と排他的・独善的な日蓮思想との共存は、我々に信仰のもつ不可解さを一層つのらせる。                  
(1980)

   「宮沢賢治」
 宮澤賢治は岩手県花巻に生まれた。家業は古着質商で、浄土真宗の信仰あつい家庭であった。賢治は盛岡中学を卒業した18歳の秋、『妙法蓮華経』を読んで身ぶるいするほどの感動をしたという。

 大正9年、賢治が国柱会に入会する。大正10年、父母の改宗を熱望していれられず、突如上京して国柱会館を訪れ、高知尾智耀講師から「法華文学ノ創作」をすすめられ、筆耕校正の仕事で自活しながら文芸による『法華経』の仏意を伝えるべく創作に熱中する。賢治は『法華経』の信仰と科学の一如を求めたが、そのことは数多くの作品にも反映している。

 賢治は昭和8年、『国訳妙法蓮華経』の頒布を遺言して永眠したが、法名「真金院三不日賢善男子」は国柱会からの授与である。賢治は、帰郷してから国柱会とは遠ざかったという説をなすものがいるが、最後まで国柱会の唱導する日蓮主義の信仰に生きたことは、森山一著『宮澤賢治の詩と宗教』や小倉豊文著『雨ニモマケズ手帳新考』などに明らかにされている。  
(出典=国柱会ホームページ)

   「国柱会」
 創始者の田中智学は「純正日蓮主義」を掲げ、法華経を国教とした日本が世界を征服し、世界を法華宗化するという遠大な目標をもっていました。その一環として田中智学は「八紘一宇」という造語を創作し、これはのちに軍部のスローガンとして利用されました。
 八紘一宇とは、全世界を天皇を頂点とした一つの国家に統一するという意味です。田中智学の唱えた国家主義的思想は、今では危険思想と考えられがちですが、当時はこのような思想がトレンドであり、特に右寄りな思想というわけではなかったようです。   
(出典=新興宗教を考察するページ)

   「法華経は最高の教え?」
 日蓮は、天台の「五時八教説」を根拠に『法華経』が最高の教えとした。「五時八教説」とは、中国の天台宗の祖といわれる智_(ちぎ、天台大師)の経典分類方法である。中国ではさまざまな「お経」が創作され、どれが釈迦の「真説」か分からなくなっていた。そこでこういう分類方法が考案された。
 最初に『華厳経』を説き、その教えが難しいため人々が理解できなかったとして、次に平易な『阿含経』を説いたとする。人々の理解の割合に応じて、『方等経』、『般若経』を説き、最後の8年間で『法華経』と『涅槃経』を説いたとする。そして最後に説いた『法華経』が釈迦のもっとも重要な教えであるとしている。

 しかしそれは、科学的な文献学に基づくものではなく、天台の勝手な護教論にすぎない。そもそも中国では天台以後に新しい学派・宗派が生まれているのである。当時も、各々の宗派はそれぞれ根拠となる経典をもっており、どの経典が重要かは宗派によって異なる。
 今日、歴史上の釈迦の教えに最も近い宗派といえば、東南アジアの「上座部仏教」になるだろう。日蓮が釈迦の「真説」を本当に知りたいなら、道元のように中国に行くべきだった。                     
(2017)

   「法華経以外は邪教?」
 天台宗では、根本の教えとして法華経を位置づけていたので、そこで学んだ日蓮さんが、これが本当の教えだと信じたためにおこった出来事です。しかし、法華経も浄土教と同じく、西域で生まれた、釈迦の教えとは関係ない教えであることは、明白であって、他の教典を「邪教」というのは日蓮さんがまちがっているとしかいいようがないですね。日蓮も法然も親鸞もみな、釈迦の教えに帰るべきですね。  
(出典=知恵袋)

■ よくわかる構造主義
 戦後、主にフランスで展開された20世紀を代表する思想の一つ。文化人類学者のレヴィ=ストロースを創始者とする。社会と文化の根底にあり、それを営む当人たちにも明確に自覚されていない構造を取り出す分析方法を構造主義という。
 例えば、歴史というのはどの国も発展していくのに共通の発展法則がある、という考え方がある。

 まず原始人の「未開」の社会があって、それが農耕をおぼえて、次に工業をおぼえて文明を発展させる、という発展の流れだ。ここには、どこの国でも社会の発展は共通した構造をもっている、という考えがある。
 だから「南の島のある村は、いまでも狩りや漁で暮らす、後れて停滞した社会だ」という考えになる。彼等を「未開人」と呼んでしまう。

 そこで、西洋人からみて「未開」の社会だと思われた社会を調べて、特に形になっていない無意識のものとか、お互いの関係などを調べて、その固有で独自な構造を明らかにしようとしたのがレヴィ=ストロースという文化人類学者だ。
 この考えは、人間の自覚的な意識や主体性に、いわば、無意識の秩序が先行していることを示している。当時、「人間は自分自身の意思で、主体的かつ合理的な人生をつくれる」と主張したサルトルの思想(実存主義)に打撃をあたえた。

 また同時に、ヨーロッパ文化の絶対性(ヨーロッパ中心主義)を批判することともなった。     
(出典=知恵袋)

■ インドネシア、多様性の中の統一
   「国 是」
 インドネシアは多民族国家であり、種族、言語、宗教は多様性に満ちている。そのことを端的に示すのは「多様性の中の統一 Bhinneka Tunggal Ika」というスローガンである。この多民族国家に国家的統一をもたらすためのイデオロギーは、20世紀初頭からはじまった民族主義運動の歴史の中で、さまざまな民族主義者たちによって鍛え上げられてきた。

 そうしたものの一つが、日本軍政末期にスカルノが発表したパンチャシラである。1945年6月1日の演説でスカルノが発表したパンチャシラ(サンスクリット語で「5つの徳の実践」を意味する)は今日のそれと順序と語句が異なっているが、スハルト体制期以降も重要な国是となり、学校教育や職場研修などでの主要教科とされてきた。また、スハルト退陣後の国内主要政党の多くが、今もなお、このパンチャシラを是として掲げている。
 現在のパンチャシラは以下の順序で数えられる。

  1、唯一神への信仰(イスラーム以外でもよいが無宗教は認容されない)
  2、人道主義          3、インドネシアの統一
  4、民主主義          5、インドネシア全国民への社会正義

   「宗 教」
 憲法29条で信教の自由を保障している。パンチャシラでは唯一神への信仰を第一原則としているものの、これはイスラム教を国教としているという意味ではない。多民族国家であるため、言語と同様、宗教にも地理的な分布が存在する。

 バリ島ではヒンドゥー教が、スラウェシ島北部ではキリスト教(カトリック)が、東部諸島およびニューギニア島西部ではキリスト教(プロテスタント、その他)が優位にある。イスラム教徒の人口は、1億7000万人(約87%)を超え、世界最大のイスラム教徒人口を抱える国となっている。世俗主義を標榜しており、シャリーアによる統治を受け入れるイスラム国家ではない。
 なお、信仰の自由はあるといっても完全なものではなく、特に無神論は違法であり、公言をすると逮捕される可能性もある。                                        (出典=ウィキぺディア)

■ 政教分離 
 政治と宗教は分離されるべきであるという考え方。アメリカ合衆国では、憲法上の原則となっている。教会と国家の分離原則 Separation of Church and Stateともいう。この原則は、信教の自由あるいは宗教の自由を保障することを目的とするものである。独立前のアメリカにおいては、ヨーロッパ大陸における宗教的迫害を逃れて来た人々が多かったために、とりわけ宗教の自由の保障が要請された。

 アメリカ合衆国の独立後は 1789年に憲法修正条項として制定された権利章典 Bill of Rightsの修正第一条によって、イギリスのように国家が特定の宗教を国教とすることが禁止され、また国家による宗教活動の規制も禁止された。この修正第一条は、単純に信教の自由を保障するというものではなく、国家の宗教への介入、国家事項への宗教=教会の介入をともに禁止する、いわゆる政教分離の考え方をとるものとされている。

 日本国憲法においては,その第20条一項後段に記述されている。これはかつての国家神道を想定したものであるが、その具体的内容としては、国が特定の宗教団体に政治的または経済的特恵を与えないこと、および国や国の機関が宗教教育その他の宗教活動をしないことなどがあげられる。第二次世界大戦後の日本の政治史においては宗教政党における政教分離が問題となった。                             
(出典=ブリタニカ国際大百科事典)

■ 現代の主要文明
 現在の諸国家を7つまたは8つの主要文明によって区分することが、アメリカ合衆国の政治学者サミュエル・P・ハンティントンにより提案された(文明の衝突 1996)。

 中華文明=紀元前15世紀頃に発生し、儒教に基づいた文明圏であり儒教文明とも呼ぶ。その中核を中国として、台湾、朝鮮、韓国、ベトナム、シンガポールから成る。経済成長と軍備の拡大で、その勢力を拡大しつつある。
 ヒンドゥー文明=紀元前20世紀以降にインド亜大陸において発生したヒンドゥー教を基盤とする文明圏である。
 イスラム文明=7世紀から現れたイスラム教を基礎とする文明圏であり、その戦略的位置や人口増加の傾向、石油資源で影響力を拡大している。(トルコは文化や歴史的に西に近い)

 日本文明=2世紀から5世紀において中華文明から独立して成立した文明圏であり、日本一国のみで成立する孤立文明。
 東方正教会文明=16世紀にビザンティン文明を母体として発生し、正教に立脚した文明圏である。
 西欧文明=8世紀に発生し、西方教会に依拠した文明圏である。19世紀から20世紀は世界の中心だったが、今後、中華、イスラム圏に対して守勢に立たされるため団結する必要がある。

 ラテンアメリカ文明=西欧文明と土着の文化が融合した文明、主にカトリックに根ざしている文明圏である。
 アフリカ文明=アフリカ世界における多様な文化状況に配慮すれば、文明の存在は疑わしいものであるため、主要文明に分類できないかもしれない。
 エチオピアやハイチとイスラエルはどの主要文明にも属さない孤立国である。モンゴル、チベット、タイ、ミャンマーなどは仏教文化として括られているが積極的な行為主体とは考えていない。         
(出典=ウィキぺディア)



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