禅 宗



■ 道元との出会い
 私が「道元」に関心を持ち始めたのは、今から30年以上前になります。アパートを借り一人暮らしを始めると、さまざまな宗教団体(仏教系・キリスト教系)が勧誘にきて、次第に宗教や仏教に興味をもつようになりました。
 しかし、仏教関係の本を読んでも、ブッダ(原始仏教)と現実の仏教とのギャップが大きく、宗派によって教えが極端
に異なっており、どれがが正しい仏教なのか全くわかりません。また仏教史において私の実家の宗派は「堕落した祈祷仏教」だと批判されており、非常に落胆したことを覚えています。

 そこで自分なりに仏教の教えを求めてたどりついたのが「道元」でした。座禅を中心とする道元の教えはシンプルで合理的で、原始仏教の教えに最も近いと思いました。
 道元が抱いた仏性と修業の問題、中国へ渡っての修業、日本に帰っての布教。道元は本当の仏教を学ぶために、当時としては最大限の努力をしたし、終生ブッダに連なる純粋な仏教を求めてやまなかったと思う。

 ある仏教学者は「仏教の考え方について『お前の考え方は違っているぞ』と教えてくれたのは道元であった」としみじみ述懐していました。道元の教えには、力強い原点回帰の力があります。形骸化した教義や理論を排し、心と身体の単純な関係を私たちに目覚めさせてくれるのです。
 テレビで、究極の味を守り続けている割烹やレストンを紹介する番組がたびたびありますが、店の主人は、たいていガンコで変り者である。しかし、お客様に自分の納得のいく料理を食べてもらいたいという熱意には頭が下がる。金儲け主義の世の中で、その純一な生き方は見ていてすがすがしい。まさに道元の生き方に通じるものがあります。

 道元に「眼横鼻直」(がんのうびちょく)という言葉があります。中国から帰ってきて、修業僧を前にして語った言葉ですが、その意味は「中国からの特別なみやげは何もない。ただ人のまどわしを受けず、眼は横に並んでついていて、鼻はまっすぐに伸びているということを学んだだけだ」ということらしい。いかにも道元らしくて、私の大好きな言葉です。    
(2009)

■ ドイツ人の禅僧・ネルケ無方
 新聞の書評でネルケ無方氏の著書『迷える者の禅修行…ドイツ人住職が見た日本仏教』が紹介され、興味をもっていたが、NHKの「こころの時代」で彼のことが紹介されていた。その番組も面白かったので、さっそく著書を読んでみた。
 彼はドイツ人で、ドイツの高校時代(16歳)に「禅」に出会ったのがきっかけだった。彼の母親は7歳のときに病死し、愛情不足からか生きる気力をなくしていた。元カトリックの先生から勧誘を受け、渋々始めた「座禅」だったが、座禅が生きることへの疑問に答えてくれそうな気がして、次第に「禅」にはまっていった。

 大学時代には日本でホームステイをした。クリスチャンの家庭だったようだが、ご主人がベートーベンの音楽をかけ「これが本当の音楽だ」と胸を張ったが、本人は尺八の音色を聞きたかったという。
 日本の大学に留学し、その後各地で修行し、大阪城公園でホームレスをしながら禅の普及に精進していたが、かつての修行先の「安泰寺」(兵庫県北部の曹洞宗の寺)の住職が事故死したため、現在は「安泰寺」の住職となり禅の指導にあたっている。

 彼の生涯を顧みて思うのは、生い立ちが「ブッダ」と似ている点である。ブッダの母親は産後7日目に亡くなり、その影響からか、ブッダ自身物事を深く考えるようになったというが、彼も同様であった。ブッダの場合、母親が亡くなったとはいえ、王子として何不自由のない贅沢三昧の生活をしていたはずで、出家の動機がなかなか理解できなかったが、彼の生きざまを見て、ブッダの心理もようやく理解できたように思う。ブッダ本人にとっては、「生きるか、死ぬか」の切実な問題だったのだろう。

 彼の母方の祖父がキリスト教の牧師であったらしいが、キリスト教には向かわなかった。彼によれば、キリスト教は「隣人への愛」を説くが、究極の「存在」そのものを説いてはいないという。彼にとっては、その答えが「禅」の中にあった。
 日本仏教への批判も厳しい。期待して日本に来たが、多くの日本人が仏教に関心がないのに愕然としたらしい。欧米では仏教や禅に関心をもつ人が増えているが、それに反して日本では仏教の教え自体が忘れ去られ、葬儀ビジネスと化しているという。その現状を打開するため、彼は日本での布教を続けているという。
 ブッダの原点、仏教の原点がここにあるように思う。                        
(2011)

■ 道元の生涯
   一、誕 生
 道元禅師は、鎌倉時代の1200年(正治2年)に京都でお生まれになりました。諸説ありますが、父は内大臣久我通親(こがみちちか)、母は摂政関白藤原元房の女(むすめ)伊子(いし)であるといわれています。幼少より聡明さを発揮され九歳で『倶舎論』を読まれたとの逸話が残っています。
 道元禅師は三歳の時に父を亡くし、八歳で母の死にあうという悲しい体験をとおして世の無常を強く感じられ、その心を仏の道へと傾けられたのでした。

   二、出家修行
 14歳の禅師は、比叡山の座主公円僧正について剃髪し、出家得度されます。比叡山では天台教学を中心に学ばれましたが、経文にある「本来本法性・天然自性身」という文言に大きな疑問をいだかれます。「人は生まれながら仏である。それならば何故に悟りを求めて修行するのか?」その解決のために園城寺(三井寺)の公胤僧正を訪ね、そのすすめにより建仁寺へ参じられた道元禅師は、栄西禅師の高弟である明全和尚に師事されます。

   三、入宋と正師との出会い
 24歳のとき、求道の志をさらに強くした道元禅師は明全和尚とともに海をわたり、宋(中国)の地を踏まれます。正師を求め諸山をたずね、ついに天童山にて如浄(にょじょう)禅師とめぐりあわれます。道元禅師は如浄禅師を生涯の師として仰ぎ、坐禅修行に励まれます。そして、ついには悟りの境地を認められ印可証明をうけ、お釈迦さまより脈々とつづく正伝の仏法を受け継がれたのでした。

 28歳の道元禅師は5年におよぶ修行を終え、日本に帰国されます。後年、中国で体得されたことを『眼横鼻直』『空手還郷』という言葉であらわされ、「ありのままの姿がそのまま仏法であり、日々の修行がそのまま悟りである」と教示された。

   四、日本へ帰国
 帰国後直ちに、坐禅の心がまえや作法などについて書かれた『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著され、その後『正法眼蔵(しょぼうげんぞう)』の最初の巻である『弁道話』を著されます。
 34歳のときに、京都の深草に興聖寺を開き、本格的な僧堂(坐禅堂)を建立し坐禅修行をつづけられるとともに、たくさんの人に坐禅をすすめられました。

 次第に名声も高まり、弟子の数も増えたのですが、僧団が大きくなるなるにつれて興聖寺への外圧が加わるようになります。また如浄禅師の「国王大臣に近づかず、深山幽谷にて仏の道を行じ、仏の弟子を育てなさい」との教えもあり、波多野義重のすすめで越前(福井県)の山中に移り、傘松峰大仏寺を建立されます。この寺はのちに、吉祥山永平寺と改称されました。
 1247年(宝治元年)、執権北条時頼の特請をうけ、波多野義重の頼みもあり、鎌倉に赴き、半年という短期間ではありましたが武士をはじめとする多くの人々を教化されました。

   五、入 寂
 1252年(建長4年)、夏頃から体調を崩され、翌年には永平寺を懐奘(えじょう)禅師にゆずられます。8月には療養のため京都の俗弟子、覚念の邸宅へ行かれましたが、治療の甲斐なく翌年、54歳でその生涯をとじられました。
(出典=曹洞宗近畿管区教化センター)



目次   


inserted by FC2 system