「仏教が好き!」河合隼雄×中沢新一

朝日新聞社 2003.8


 仏教は今後どうなっていくのだろうか。現在は仏教ブームであると言われるが、本当なんだろうか。歴史や文化の遺産として遺っているだけで、現実には確実に衰退の一途を辿っているのではないか。
 そこで、なんとか仏教に新しい光をあて、現代に甦ってほしいという期待をこめて手にしたのが、本書である。

 心理療法家の河合隼雄と民俗学者の中沢新一との対談集で、中沢が河合に仏教思想をレクチャーするという構成になっている。ご存知の通り、「中沢新一」は、過去にオウム真理教との関連でいろいろ批判された。(詳しい経緯は知らないが、オウム真理教に沈滞した仏教界の改革を期待したのだろう)

 中沢は、民俗学的手法(構造主義的手法?)を駆使し、世界のの宗教・思想の深層構造をさぐり、仏教の現代的意味を浮かび上がらせている。読んでいて、壮大な宇宙旅行をしている気分になる。
 中沢の本を読むのは始めてで、ちょっと難しいかなと思ったが、率直に言ってなかなかスリリングで面白かった。仏教についてこういう見方があったのかと、驚かされた。しかし、思想的な事柄が連続するので、一般的な仏教入門書として手にすると、面食らうかもしれない。

 20代の頃は仏教関係の本をいろいろ読んだが、当時は「究極の仏教」をがむしゃらに求めていたように思う。それから20年、当時の熱意は冷めたが、現在は宗派にとらわれず、ひろく仏教を考え直したいといった気持ちでいる。
 その意味で、本書はボクの「仏教再発見」にふさわしい一冊となった。


(抜粋)

■仏教への帰還
○レヴィ=ストロースが「自分が最も共感を持てる宗教は仏教だけだ」というようなことを書いています。僕はここに「野生の思考」と言われているものと仏教との、内面的な共通性を直感するのですね。(中沢)

○(動物とのあいだに)発生してしまった非対称を、何とか思考によって正そうとして、神話というものはつくられてきたんだというのが、レヴィ=ストロースの考えです。(中沢)

○帝国の内側に生きながら、そして帝国もそれを庇護するわけですが、帝国の原理を内部から解体させていく、いまふうに言うと、脱構築の原理がセットされた「宗教ではない宗教」「知恵としての非宗教」がつくられた。そういう宗教ならざる宗教をブッダはつくろうとしていたんではないでしょうか。(中沢)

○イスラム教とプロテスタントは、まったく違う思考のルートを通してですが、視覚による感覚の喜びというものを否定してしまおうとする。(中沢)

■ブッダと長生き
○梅原猛先生などよく「イエスの教えは青年の思想だ。あれは30代の思想家だ」とおっしゃいます。30代の初めに残念ながら殺されてしまった。ところがブッダは80才まで生きて、ムハンマドは60まで生きた。……ブッダにしてもムハンマドにしてもその意味では大変に老獪(ろうかい)な老人です。(中沢)

○チベットの先生が僕によく言ったのは、いろいろな瞑想法があって、それで光とか、いろいろなものが見える。ただそれは、要するにものの考え方の組み換えとか思想と合体していかないと、映画を見ているのと同じだというのです。(中沢)

○ほかのキリスト教、イスラムには心理学なんて要らんわけです。そんな人間の心の学問なんてまったく要らない。神さんがぱっと言われて、その言われたことを自分がどう守るか守れないか。つまり、一神教の宗教は倫理がものすごく大事だと言うんですよ。ところが、仏教のほうは心理が大事だと言うんです。……深層心理学は、20世紀になってからヨーロッパでできているわけでしょう。ところが、ある意味でいうと、仏教はもう初めから深層心理学を知っていたということがあります。(河合)

○だから近代になってブルジョア社会ができあがぅて、ブルジョア社会の教育とか、そういうものが浸透していった世界のなかで、では、次は何かと言ったら、やはり心理学と精神分析学が登場する。(中沢)

■仏教と性の悩み
○ブッダの頃もそのあとも、仏教の教団にとって最も重大な問題とは、実は戒律の問題であり、性の問題でした。(中沢)

○仏教の修業は、この「認識のお母さん」という巨大な女性的なるものへ、自分の存在をまるごと抱えて入っていくことを意味することになります。まったくこれは、森へ熊を追って入っていく狩人と同じじゃないか。だから、同じ女性空間に踏み込んだものの取るべき行動規律を定めたものが、仏教と狩猟民とで、同じ感触を持つことになったのではないか、と思うのです。(中沢)

○ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でも、いわゆる一神教と呼ばれている宗教では、真理が女性形ではありません。神は男性形で理解されています。……真理そのものに、女性は参画していないのです。(中沢)

○日本ではこの戒律の学問というのが平安時代に一時廃れてしまいましたが、鎌倉時代になって、新仏教への反動でまた復興してくるんです。そのとき中心になったのが、意外なことに真言宗でした。
……真言律宗というのが生まれますが、……ところがさらに驚くべきことは、その真言律宗のなかから、例の有名な性の仏教である真言立川流が生まれ出ます。(中沢)

○大乗仏教のなかではこの戒律の問題がだんだん曖昧になってきた。……それが「空」の大海原を渡るための海図だったってことの意味まで忘れられて、何か臆病な倫理の規則のような受け止められ方までされるようになってきた。悟り悟りってうるさくて、かえって仏教の持つ具体性や実践性が失われてきたんじゃないか、という気もします。(中沢)

○日本でどうして真言宗のなかから律を復興しようという人たちが出たか、よくわかる気がします。真言宗は仏教のなかでも、ある意味でいちばん「野生の思考」的な宗教に近いやり方をします。ヨガをやったり、曼陀羅を観相したりして、意識の「空」の状態のなかへ実践的に踏み込んでいこうとしています。ですから、彼らは猟師と同じような非常に危険な領域に入っていこうとしていた人びとです。
 そういう真言宗が、浄土宗系の大乗仏教が言っているみたいに戒律の問題をどんどんないがしろにしていったら、もう実践的に危険になってくるでしょう。(中沢)

○異端とされた人たちは、キリスト教の正統は、農耕社会の多神教の原理を組み込んでいる、と言って批判しつづけるんです。三位一体論が最初に問題になってきて、これは聖霊をを神と子の同列におくことで、エジプトふうの農耕増殖の原理を、一神教の内部に組み込んでしまっているというんですね。つぎにマリア問題がおこって、異端の人たちは、これはエジプトの女神イシスの原理をキリスト教にセットしちゃうじゃないか、と言って批判する。(中沢)

○資本主義というのは、一神教に農耕豊穣の原理を組み込まないと発生しません。貨幣はああらゆる質的差異をならし、世界を均質化する、という意味で一神教につながりますが、商品は農耕の増殖原理に結びついていますから。ですから、キリスト教の正統は、いいこと言ってる人たちを異端にしてまでも、この資本主義のラインを突っ走りたかったわけですから、いまのグローバリズムはその願望の達成なんんだと思いますよ。(中沢)

○お釈迦様は、自分のお母さんというよりは、どっか生の女性というのは否定して、しかし強い母性とか原理としての女性に憧れた人というふうに言えんことないですね。(河合)

○学生時代に沖縄の仮面の研究をして、八重山で豊作祈願の祭りの2日目におこなわれる「赤マタ黒マタ」の仮面の儀礼を見ました。
……いろんな神話がそれについて語られていますが、僕がいちばん感動した神話は、赤マタ黒マタの神様は実は子どもなんだ、という神話でした。子どもが行方不明になり、お葬式をしたけれど、母親だけが「あの子は絶対に死んでいない」と言い張った。……
これを見ていると、つまり、男性秘密結社のなかに出てくる神様というのは、母親と子どもがいわばドッキングした母子一体の存在で、男はそれを仮面に変えちゃって、自分たちのものにしちゃったわけでしょう。(中沢)

○僕は「赤マタ黒マタ」のお祭りのなかに、仏教の原型を見たんだと思います。現実の女性を否定して、結社のなかでは厳しい戒律を守っていながら、結局、何をもとめているかといったら、これが女性なんです。(中沢)

■仏教と「違うんです!」
○ブッダは真理に辿り着くためにどういうことを言うかというと、先ほどのクライアント(患者)と同じやり方です。何かが言葉で言明されると、必ず「それはそうではない」というふうに返してくる。
……これを哲学では中観派の開祖とされるナーガールジュナ(龍樹)のような人が方法的に確立する。「般若経」なんて膨大なお経ですが、初めから最後まで全部「ない」なんです。「ないない尽くし」で大哲学をやる。(中沢)

○インドのブラフマン(バラモン)階級の学者というのは、いけ好かない人が多い。とっても威張っていて、すぐに断定する。……仏教の哲学者が直面したのも、あのいけ好かないブラフマン学者たちでした。……だんだん彼らも「否定」のテクニックを磨いていったんだとは思うんだけれども……(中沢)

○仏教は「否定」していきますでしょう。どんな命題が出てもそれを「否定」していく身構えがある。ブッダの教えの最たるものは現世を全部「否定」してしまうわけですね。これは大変なことです。(中沢)

○結局、心のケアというのは「否定」の技術の問題に尽きるような気もしますね。(中沢)

○そうなんだけど、それを忘れる人が多いんだと思いますね。どうしても「肯定」の技術のほうをみんなやりますから。……また、来る人も頼るほうが多い。訪ねていって、答えを言うてもらって治るのがいちばん気楽ですから。(河合)

○仏教のなかでも「否定」に「否定」を重ねていって「これだ」というものを肯定的につかむことができるという主張が、大乗仏教のなかから出ています。それは最終的に密教になるわけです。(中沢)

○大衆化していったときにナーガールジュナみたいなこと言っても、普通の人は「そんなむずかしいことどうでもいいから、ブッダの言ってる『空』というのは何ですか?」って問いかけるわけです。これに答えていかなければいけなくなったときに、大肯定が登場してくることになった。(中沢)

○密教だけではなくて、「般若経」でも「言説不能、言葉で言うことは不能、だけどこれは確実に、肯定的に、ある」と言われます。すると「般若経」というのは微妙なんですね。文言では全部「否定」しているにもかかわらず、最後に「ギャーティーギャーティーハーラギャーティー」というマントラがついてしまう。これはいったい何ですか。
あれは結局マントラ一発で、お経の意味全部を包摂していることになるわけですから、「否定」「否定」と重ねてきた上で、これを「肯定」に転じてみせたことになります。
……ここにはすでに密教の思考法が侵入しています。(中沢)

○あらゆるものを「否定」していく精神の運動と、それから親鸞のような大肯定の精神は背中合わせです。何しろ「大日経」では、大日如来ご自身がしゃべり出すわけですから。(中沢)

■幸福の黄色い袈裟
○仏典をいろいろ見てみると、「幸福」にあたる言葉はなくて、いちばん近いのが「楽」という言葉のような気がします。(中沢)

○チベット人のお坊さんから、僕が最初に学んだことは、「仏教とは楽になるための正しい教えである」ということでした。(中沢)

○鎌倉時代あたりになって、(仏教が)ようやく日本人のものの考え方と溶け合うようになる。
……何千年来あまり変わっていない日本人の根本的な世界観に、仏教の思想が寄り添っていったときに、初めて日本人が納得する仏教になったと言えます。(中沢)

○いちばんの典型は、浄土真宗じゃないでしょうか。御仏に対して御恩をいつも感じている、報恩の感覚ですね。
……仏様が自分を包み込んで見つめて、生きている。自分はこの大きい力に生かされていることに感謝しなければいけないという考え方を、浄土真宗は強力に発達させています。(中沢)

○日本仏教というのは何かと言ったら、何千年、何万年来のアニミズム的な考え方と仏教の哲理が合体したときに、ようやく日本人が納得するものができた、それなんですね。そしてそういう仏教の考え方を取ると、安心が得られるんですね。(中沢)

○その創造力が江戸時代には止まってしまいます。
……むしろそういう意味で日本人の創造的な宗教を担ったのは、弾圧された金光教とか天理教とか大本教とかで、それのベースになっているのはアニミズムです。(中沢)

○世界に貨幣というものができて、実に安易なかたちで無限の繰り込みがおこってしまった。お金はどんどん増やしていくことができる。それは幸福量の増大を意味する、という考えが生まれてきます。(中沢)

■大日如来の吐息−科学について
○日本の科学のなかにも、ヨーロッパ科学の前提となる神話を、根もとのところで揺さぶろうとした試みがいっぱいあったと思います。今西錦司の生物学も非常に重要ですが、湯川秀樹の素粒子論なんかが典型で、老子の考えなどから着想しているところがいっぱいあります。(中沢)

○総体として変化していくものを「マトリックス」として理解したことで、量子論は生まれましたが、仏教は同じことを曼茶羅というかたちで表現しています。(中沢)

○両界曼茶羅の考え方というのは、空海の独創と考えていいと思います。空海はその考えを土着的な山岳仏教の伝統と、もう一つ、若いときから深く親しんできた華厳の思想との影響から着想しています。華厳のある部分を発達させたのが、真言密教ということになります。(中沢)

○いろいろな宗教のことを勉強してきて言えるのは、たいがいの宗教は順調に発達すると、最後に神秘主義という段階に辿りつきます。そうすると、キリスト教だろうがイスラム教だろうが仏教だろうが、みんな同じことを言い出します。その内容をよく見てみると、オーストラリア・アポリジニの老賢人などが言っていることと同じなんです。(中沢)

○それは井筒俊彦先生が言っておられるような「存在」ということが根本になってきて、それは名づけることができないのです。したがって「無」とか「空」とでも呼ぶより仕方がない。しかしそれは何もないのではなく、逆に存在そのものと言っていいのです。(河合)

○これが宇宙の根源にあって、そのいちばんいいモデルが「華厳経」の毘廬遮那仏や曼茶羅の大日如来というモデルなんだ、というところに井筒先生は接近されていった。(中沢)

○21世紀の日本にもう一度仏教の花が開くためには、歴史の現実がつくり出してきた仏教からいったん離れて、この「原仏教」の苗木を入手して、それを大地に植え付ける必要があるのではないか、と私は思う。(中沢)


(2005)

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