「空海の風景」 司馬遼太郎



 空海・・・弘法大師、高野山金剛峰寺、三教指帰、三筆の一人・・・
 私の誕生日は21日で、弘法大師様の日というので、何となく親しみは持っていたけれど、この本を手にするまで特に空海という人物に興味を抱いていたわけではなかった。

 しかし「空海の風景」の世界に足を踏み込むと、司馬氏の空海の心に迫った細やかでかつ大胆な想像力に引き込まれ、共に遣唐使船に乗り込み、波にあおられ、長安の町を歩き回り、吉野の山を闊歩し、最澄と語り合う夕べを目撃し、真言の灌頂会を眺めているような気分になった。空海が1200年も前に生きた人物だとはとても思えず、生身の空海に出会ったような気がするのだ。
 毎夜、家族が寝静まった後、バッハのプレリュードをBGに、中国大陸の地図を広げて空海の足跡を辿りながらわくわくした気持ちで読み続けた。

A、空海の人物像
 まずここには空海という人物の魅力があますところなく描かれている。空海は一言で表現できるような人物ではなかったらしい。とらえどころがない多面性を持った天才・・・。

 私が司馬氏の本から受け取った空海は

1、宇宙原理の深い認識、世界観の持ち主
〇 大日如来という古代的想像力を駆使した大きな宇宙的思想を体で理解し得る能力を持ち、国とか民族を超えて、人間とか人類に共通する原理を会得していた。
〇 インドで何百年もかけて熟成してきた純粋密教を空海は青春の謎の7年間で自己のものとし さらに後年中国にもインドにもなかった独自の論理体系に位置づけ、真言密教を完成させた。
〇 長安では、密教の正系を継承している恵果が空海をひと目みただけで多くの門人がいたにもかかわらず、この東の小さな島国からやってきた若者にすべてを譲ろうと決心した。

2、現実社会でもパワフルに活躍、一人の人生とは想像もつかない数々の功績を残した。
  司馬氏は「解脱を目的とした仏教を選ばず、肉体と生命を肯定する密教に直進していった空海」と書 かれているが、空海はその後の仏教人のように世捨て人的ではなくむしろ現実を肯定する明るい体質を持っていた人だったらしい。
第3章では性の問題を扱った理趣経が解説されているが、空海の思想には後年立川流(性を賛美する宗教らしい)とする密教に発展しかねないものを秘めていたとも書かれている。

〇 遣唐使船が漂着した福州で早速、その文章力を駆使して一行を危機から救った。
〇 長安ではしっかり自己PRをしてサロンでも有名になった。後に空海の死が長安に報じられた時には青竜寺の面々は喪に服したと書かれている。空海はたった2年しか長安にいなかったのにである。
〇 帰国してからは奈良仏教の長老達とおりあいながら、最澄の天台理論と対抗し、密教の地位をあげていった。東大寺、高雄山寺、東寺、高野山金剛峰寺と自分の密教勢力を確立するために精力的に活動した。
〇 満濃池の整備、綜芸種智院の開設等精力的に活躍する超パワフルな人物だった。

3、きわだった芸術的才能に恵まれていた
 残念ながら私は写真でしか空海の書を見たことがないのだが、高野山で直接その書を見た友人は興奮して私にそのすばらしさを語ってくれた。司馬氏は空海の書は変幻自在、いったい空海はどこにいるのか・・・というのが見えないというようなことを書かれていたが、まさにその書も宇宙に溶け込む密教的なものであるらしい。橘逸勢は空海を心底尊敬し、嵯峨天皇も空海には一目おいた。これは書だけの所為ではないと思うが。

〇 長安のサロンで空海がもてはやされたのは、その教養の広さ、深さゆえであったらしい。語学にも長けていたばかりでなく、中国の詩文を自分自身のものにしていた。
〇 空海は博学で漢籍や仏書だけでなく、小説のたぐいも読んでいた。長安での橘逸勢との想像の行状記はとてもおもしろく、私は司馬氏が好きになった。
 これは私の勝手な想像だけれど、空海はこのような芸術的能力を備えていただけでなく、その優れた感性の持ち主であったからこそ、学問としての奈良仏教でもなく、体系づけられた天台仏教でもなく、宇宙と一体となるという密教の奥義を体質的に選んだのではなかったのだろうか。

 このように、空海は人並みはずれた知力、感性、そして才能に恵まれていたまさに傑出の人であったが、ここにはきわめて人間くさい空海も描かれている。
 司馬氏は「えげつなさ」という言葉で表現されているが、これは現実に残された最澄との手紙のやりとりの中に見られる空海の一面である。

 最澄が跡継ぎにと決めていた泰範が空海のところに居ついてしまい最澄が戻るように催促した手紙に泰範に代わって空海が代筆し、「最澄よ、あなたは仏法のすべてを知ったうえで、顕教と密教の区別をいうのか・・・最澄よ、あなたに優劣を区別するだけの能力があるか・・・」と受け取れる断交状を送り、この一文で泰範と最澄のつながり、空海と最澄のつながりはきれたという。
 しかし、信仰の対象としては完全無欠であるべき空海が9世紀に生きた生身の人間として、そのすばらしさも、欠点もそのままに描かれていることで、空海は私に生き生きと迫ってきたような気がする。

B、空海と長安の都
 私にとってこの本は空海が唐に渡ったあたりからにわかにおもしろくなってきた。
 空海の人生にとって唐の都、長安での2年間はきわめて重要な意味を持つ。空海の前半生で空白の10年間とされる20歳から30歳あたりに空海は山野を駆け巡り、様々な体験を通して密教の基礎となるものを身につけたとされている。それを明らかにするために、確かめるために空海は唐に渡った。
 
 留学生として唐に渡った空海が見たダイナミックな長安の都、その魅力は現在の世界のどの都市とも比べようがないくらい大きなものであったろう。情報はわずかに船や馬などの交通手段と人の移動によった。しかし長安には、インド、イスラム、ロシア、ヨーロッパ他あらゆる国からの文化が流れ込んでいた。まさに世界を一つに凝縮したような場所、そして唐朝はそのすべてを大きく飲み込んで呼吸していた。

 司馬氏はこの都市美が最高潮をたもっている長安に入れたことを空海の幸運と書かれている。そして空海は長い歴史の中で国家や民族という瑣々たる特殊性から抜け出して、人間もしくは人類という普遍的世界に入り得た数少ない一人であると。
 空海は、長安において?教や景教、ゾロアスター教、マニ教など他宗教と出会う機会を得、それらは、彼の思想形成におおいに役立ったようだ。

 しかし、またさらなる驚きと感動は、小さな日本という島国からやってきた若い一人の男、空海が、この国の庇護を受けながら受け継がれてきた正系密教を恵果からそっくり譲られたということ。そのことにも、人種を問わず、広く天下に人材を求めていた唐朝の空気が感じられる。

 日本に帰国してからの空海はさびしかったであろうと司馬氏は何度も言う。空海が唐を長安を懐かしむ理由は同じレベルで議論を戦わせる人物、空海を理解できる人物が日本にはいなかったというのである。死を目前に万灯会を催した空海を司馬氏は次のように書いている。玄宗皇帝の頃に始まったという長安の元宵観燈(城門を開いて燈百千炬を燃やす)の説明のあと、「空海は年末に長安に入っているから、年を越して早々にこの元宵観燈の夜に出会っているはずであり、かれも橘逸勢らとともに街路を浮かれ歩いたに相違なく、この印象と想い出は、終生のものであったにちがいない。

 かれが、京の雑踏を離れて紀州高野山という人煙から遠ざかった山中に朱と青にいろどられた門をつくり、堂塔をたて、広い街路を通したのはひそかに長安をしのぶところがあったのではないかというのは、すでに触れた私のやや虚なる想像である。さらにいえば、死を覚悟したかれが、生命の衰えのなかではげしく長安のころを偲ばなかったということは、まずありえない。生涯の最後に万灯会を催した空海の心事は右の空想と同じ範疇に入れて私は自分だけの空想に灯火を点じていたのだが、しかしこの空想の中の灯籠堂は、稿を読むひとびとにまで無理じいできないような気もする。」 

 稿を読む一人である私はしかしまことに、まことに司馬氏の想像のとおりだろうと強くうなづくのである。空海の一生は長安の2年間があったからこそともいえるのではないだろうか。同じ時期の遣唐使船で唐に渡った最澄の場合と比べものにならないくらい、空海にとって唐、長安の持つ意味は大きかったと思える。

C、空海と最澄
 この本ではかなりのスペースをさいて最澄のこと、空海と最澄の関係について描かれている。
 空海より7歳年上だった最澄は桓武天皇に可愛がられ、若くして天下に知られる僧として活躍する。天台の理論を確立するための資料を得るために唐に渡った最澄は帰り道で立ち寄ったところで密教をも譲り受ける。しかし、それは正系のものではなかった。帰国すると世の関心は密教に傾いていた。最澄は自分が受けた密教を紹介するが、その後すぐ密教の正系を継いだ空海が現れる。最澄は自分の失敗を素直に認め、空海に教えを請う。

 空海は最澄に頼まれるまま、密教の経を最澄に貸し続けるが、最澄は密教に心から傾倒するわけではなくあくまでも天台の理論の一部分に密教を位置づけたかっただけだった。
 司馬氏は最澄を温雅な外貌、質実な人柄とし、最澄が叡山にかくれた頃の願文「悠々たる三界はもっぱら苦にして安きことなく、憂々たる四生はただうれひにして楽しからざるなり」を引用して次のように書いている。

「空海が同じ年齢前後に書いた『三教指帰』の独創性の高さに比べていかにも仏教的厭世観による定型のようだが、しかし、定型にこそなだらかさとすずやかさがあるとすれば、最澄の一面はそういうところにもあるであろう。最澄は空海にくらべ、ぎらつくような独創性に欠けるところがあった。が、物事の本質を見抜く聡明さにおいては同時代の僧たちから卓越しており、見抜いた以上はそれを追求する執拗さと勇気を多量にもっていたかに思える。最澄は空海と違い、密教的性格の持ち主ではなく、うまれつきとして顕教的な合理性と素直さの側にいる人であった。」

 そして彼が山林にこもったとしてもそれは書斎的であり空海のように宇宙の神秘をそこに見、踏み込んで宇宙の深奥に入ろうという呪術的動機を感じたからではないと述べられている。
 つまりこの二人は同じ時代に同じく僧として生き、後に大きな影響を与えた人物でありながら、本質的なところで大きく異なる人物であったようだ。

 それぞれ天台宗、真言宗を打ち立てた巨星は、同じ時代に生き、一緒に唐に渡り、一時は一晩をともに語り合い、空海は最澄に自分の密教のすべてを譲り渡す気持ちになっていたけれど、次第に二人の仲はすれ違い、ついには決裂してしまう。

 空海には自分の密教を天台の体系のごく一部に加えたいと考えている最澄が許せず、最澄は、空海にどんなに意地悪されても、今まで懸命に構築してきた自分の考えをくずす気持ちは少しもなかった。それぞれ自分の生き方、考えが最高のものだと信じて疑わない。というよりそういう考え方しかできない。お互いの真の思いはその違いゆえに理解することができず、おおいなる誤解、真実の心が分かり合えないまま、それぞれ相手を憎むような気持ちの中でその生涯は終ってしまう。

 歩み寄るように見える瞬間が何度かあってもそれはうわべだけ、二人はどこか違う人間だったのだ。どちらも懸命に生きているのだけれど・・・。
 歴史的に考えれば、もちろん二人の理論や感情が意気投合してしまえば、それは一つのものとしてしか残らないということになるのだが、なんだか淋しい思いはする。

 貧弱な私の思考力、表現力では、この作品を十分理解し、未読の方に伝えることができない。
 司馬氏の膨大な知識と綿密な資料収集、そして何より深い人間理解、温かいまなざし・・・・作品の魅力は空海を追いながら、ある時は空海を時代の中に遠くから客観的に眺め、ある時は空海の心に密着して描く司馬氏の眼にあるような気がする。
でも、難しそう・・・と敬遠していた司馬遼太郎氏の作品がこんなにおもしろいと発見したのは収穫であった。

(WEB「小さな歓び見つけて生きる」より)



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