サルトル「実存主義とは何か」


 ボクの記憶をたどれば、サルトルや実存主義に関心を抱き始めたのは、高校生の頃である。実存主義は、現在では全く衰退してしまった観があるが、今この本を手にするとボクのあの頃‥‥ニキビ面で長髪で、ビートルズのレコードを聞いてワイワイ騒いでいた頃の自分に帰ったような錯覚にとらわれる。

 あの頃のボクにとって、実存主義とは何であったか。その思想的本質は何であったか。それを言葉にするのは、はなはだ難しい。ニーチェ・ハイデガー・サルトル等の著作はどれもこれも難解で、とても歯が立たなかった。だが実存主義は、ボクの退廃した魂の中に新しい息吹を吹き込んだのだった。これを「主体性の確立」と言ってもいいだろう。ともかくボクは、その中から、あらゆる伝統をとらえ直し、自律的に生きることを教えられた。

 当時のボクは、人並みに人生や社会について悩み、「俺の気持ちは誰にもわかるまい」という孤独感が深まっていくばかりだった。実存主義はそんなボクの全身をとらえたのであった。単なる理論的理解でなく、ボクがその思想を受け入れる素地を無意識の内に形遣っていたのである。「自分の使命を自覚し、他人にどう思われようと自分で考え、自分で判断し、主体性をもって行動しろ」という思想は、ボクを理解するたった一人の友人でもあった。

 さて、サルトルの主著である「存在と無」が、その副題に「現象学的存在論の試み」とあるように、彼の思想的出発点はフッサールの現象学であった。現象学は極めて難解な哲学であるが、フッサールは「厳密な学としての哲学」を打ち立てようとした人であり、デカルトの「コギト」(我考う、ゆえに我有り)がその絶対的厳密性を確証する出発点であった。
 フッサールには「デカルト的省察」という論文があるが、サルトルは彼の思想を継承し、これを第一原理とする。

「出発点において、『われ考う、故にわれあり』という真理以外の真理はありえない。これこそ、自分自身を捉える意識の絶対的真理である。人間が自分自身を捉えるこの瞬間のそとに人間を把握するすべての学説は、何よりもまず、真理を抹殺する学説である。
 
というのは、このデカルト的コギトを外にして、あらゆる対象はただ蓋然的であるにすぎず、真理によりかからぬ蓋然性の学説は無のなかに崩壊してしまう。蓋然的なものを定義するには、真なるものをもっていなければならない。したがってある真理が存在するためには絶対的真理が必要である。そして絶対的真理は簡単であり捉えやすい。それは万人の手のとどくところにある。それは仲介なしに自己を捉えることにある。」(実存主義とは何か)

 サルトルは、このようにデカルト的コギトを絶対的真理として認め、主体性の確立を第一原理とする。そしてこれは、あらゆる人間を物体視する唯物主義に反し、人間界の諸価値を認める唯一の学説であると主張する。

 では、サルトルの説く「主体」とはどういうものか。また「自由」をどのようにとらえているのか。彼は実存主義の基本的性格として、「実存は本質に先立つ」「主体性から出発せねばならぬ」と表明する。そして、ここでぺーパーナイフを例に取り、実存と本質との関係を説明している。

 ぺーパーナイフは、一つの概念(用途・目的)を前提として造られたものである。職人は一定の概念によって、またはこの概念の一部をなす既存の製造技術によって、それを造るのである。この物体が何に使われるかも知らずにぺーパーナイフを造ることはありえない。従ってこの場合は、本質(概念・用途・製造技術)は実存(個々のぺーパーハーナイフ)に先立って存在している。そしてこの関係は、神と人間との間にも応用することができる。

 つまり、職人が一つの概念に基づいてぺーパーナイフを製造するのと同様に、神はある計画の下に人間を創造したのである。イザヤ書の「されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です」(64-8)という記述にも見られる通り、我々人間は既に定められた運命を歩んでいるのである。言い換えれば、我々の日々の生活は神意の実現であり、我々には絶えず聖書への絶対的服従が要求されることになる。

 サルトルは、このような考え方を逆転させる。彼にとって人間の存在は、その背後に測り難い神意が隠されているというのでなく、全くの偶然性に過ぎない。いくら理屈を付けようと、世界の中に突然投げ込まれたという端的な事実性を承認する以外にない。この何ものにも説明されえない全くの事実的存在、それが「実存」である。

 人間は始めから出来あがっているのでなく、局面局面において自分の言動を選びながら、自分自身を自らの手で創っていく。「実存は本質に先立っ」とは、この意味である。従って、この実存の前方には無限の可能性が開かれている。そして、この可能性を生かすも殺すも、すべては当人の生き方一つにかかってくる。我々は誰に頼ることなく、自ら思索し、選択し、行動しなければならない。
 
「実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。実存主義の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何ものでもないからである。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。

 人間は、みずからそう考えるところのものであるのみならず、みずから望むところのものであり、実存してのちにみずから考えるところのもの、実存への飛躍ののちにみずから望むところのもの、であるにすぎない。人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない。以上が実存主義の第一原理なのである。」(実存主義とは何か)

 しかし、実存が全くの自由な存在であるとは言え、それは「君にはすべてが許されている」といったアナーキーな態度を意味しているのではない。ここで彼は「実存が本質に先立つものとすれば、人間はみずからあるところのものに対して責任がある」と、独自の責任論を説く。そしてこの責任は、単に個人的な領域に止まらず、全人類にも及ぶものなのである。

「もし私が労働者であり、コミュニストになるよりもむしろキリスト教的シンジケートに加盟することを選び、この加盟によって、諦めがけっきょくは人間にふさわしい解決であり、人間の王国は地上には存在しないことを示そうとすれば、私はたんに私一個人をアンガジェするのではない。私は万人のために諦めようとするのであり、したがって私の行動は人類全体をアンガジェしたことになる。

 もっと個人的なことであるが、もし私が結婚し、子供をつくることを望んだとしたら、たとえこの結婚がもっぱら私の境遇なり情熱なり欲望なりにもとづくものであったとしても、私はそれによって、私自身だけでなく、人類全体を一夫一婦制の方向ヘアンガジェするのである。こうして私は、私自身にたいし、そして万人にたいして責任を負い、私の選ぶある人間像をつくりあげる。私を選ぶことによって私は人間を選ぶのである。」(実存主義とは何か)

 「アンガジェ」(これの名詞がアンガジュマン)という言葉をサルトルは好んで使うが、もとは「(約束や義務によって人を)しばる」とか「(人をあることに)参加させるにという意味らしい。彼はこの言葉をより積極的に評価し、「人間を自分の中だけにとじこもらせず、社会に参加させるにという意味で用いる場合が多いということである。

 我々の前に無限の可能性が開かれていると、手放しで喜んでばかりいられない。一個の実存にとって、前方にはいかなる指示も与えられてはおらず、全く自らの手で一つ一つ獲得する以外にない。それに後ろを振り返れば、彼の一挙手一投足を全人類が注視しているのである。人間は、このような実存的使命の「重圧」に耐え得るものだろうか。頼るべき何ものも存在しないのである。

 だが考えてみると、人間が自己の「実存性」を悟るのは、底知れる不安や孤独・絶望のまっただ中においてしかありえないのではないか。不安は「行動そのものの一部」なのであり、「孤独とは、われわれが自分自身でわれわれの存在を選ぶということをうちにふくんでいる」のである。

「人間は不安であると実存主義は好んで主張する。それはこういう意味である。すなわち、自分をアンガジェし、自分は自分がかくあろうと選ぶところのものであるのみならず、自分自身と同時に全人類をも選ぶ立法者であることを理解する人は、全面的な、かつ深刻な責任感をのがれることはできないだろう、ということである。いかにも多くの人々は不安を感じてはいない。しかしそれらの人々は自分の不安に目を覆い、不安をさけているのだとわれわれは主張するのである。」(実存主義とは何か)

「こうしてわれわれは、われわれの背後にもまた前方にも、明白な価値の領域に、正当化のための理由も逃げ口上ももってはいないのである。われわれは逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。刑に処せられているというのは、人間は自分自身をつくったのではないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界のなかに投げだされたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。」(実存主義とは何か)

 「自由の刑に処せられている」とは、何と厳しい言葉だろうか。サルトルの説く「自由」は、我々に安易な幻想を抱かせはしない。彼にとって「自由」とは、「責任」と同義である。「実存主義とは、一貫した無神論的立場からあらゆる結果を引きだすための努力にほかならない」と語るように、従来の超越者への無分別な依頼心・責任転化を拒否し、そこに現わになった実存の「重み」を我々自身がしっかりと受け止めねばならないのである。

 もっとも、本書にマルクス派やカトリック派からの共通の批判として紹介されているように、実存主義が「人類の連帯関係にそむき、人間を独立したものと考えているしという指摘があり、それは否定することのできぬ一面であろうが、ボクにはサルトルの説く実存的自由の思想は、西洋個人主義の本質をよく表現しているように思われる。西洋社会においては、個人主義(主体性の確立)はてんでバラバラな人間関係(エゴイズム)を助長するものではなく、むしろ人間性の本質を問わずして、政治や社会のあり方を規定することはできないのである。

 サルトルの場合でも、彼はデカルトのコギトの中に絶対的真理を発見したのであるが、それは自己の主体性と同時に他者の存在をも予感させるものであった。

「デカルトの哲学とは反対に、またカントの哲学とは反対に、われわれは『われ考う』によって、他者の面前でわれわれ自身を捉える。そして他者はわれわれにとって、われわれ自身と同様に確実なのである。こうして、コギトによって直接におのれを捉える人間は、すべての他者をも発見する。しかも他者を自己の存在条件として発見するのである。」(実存主義とは何か)

 彼はこのような世界を「相互主体性」と呼ぶのであるが、ボクはここにヨーロッパ人の社会意識を感じ取ることができる。それはつまり、「個」と「全体」との関係と言ってもよい。彼等の場合、ある集団や組織に帰属することは、「個」というものを完全に滅却して、対象に同化するという仕方ではない。個人は、どこまでいっても頑固な自我を主張してゆずらないのである。そして、このような個人と個人の激突の中から、両者の利害関係を調停するための「契約」という思想が生まれてきたのだろう。

 サルトルの説く「自由」は厳しい。しかし誰も「自由」の重みを避けて通ることはできない。「実存主義とは何か」は、人間の自由を考える上でかかせぬ一冊である。

 本書の後半にマルキストとの討論が収録されているが、ここで彼は、マルクス主義の唯物主義・客観主義を批判している。

「もし物の世界を設定すれば真理は消滅する。物の世界は蓋然的なものの世界なのだ。一切の真理は、たとえ科学的であろうと哲学的であろうと、すべて蓋然的であることをあなたは認めるべきだ。その証拠は、科学的歴史的論述は変化するものであり、仮設の形でなされるということだ。物の世界、蓋然の世界が唯一のものだと認めたら、もはや蓋然性の世界しかなくなってしまう。(中略)

 もし真理を限定しないとすれば、マルクスの理論を、あらわれては消えまた変化する一つの主義、理論としての価値しかもたぬ一つの主義として以外にどうして考えることができようか。まずいくつかの規則を設定することからはじめないで、どうして歴史の弁証法を立てることができるだろう。われわれはそれらの規則をデカルトのコギトのなかに発見する。われわれは主体性の地盤に立たなければ、それらの規則を発見することはできないのだ。」(実存主義とは何か)

「人間は人間にとってたえず物であるという事実を、われわれはけっして論難したことはない。しかしそれと逆に、物を物として捉えるためには、主体としてのみずからを捉える主体が必要なのだ。」(実存主義とは何か)

 つまり、そのものをそのものとして把握するには、あらゆる客観的真理に先立って、認識主体としての自らをとらえる主体の確立が不可欠の条件なのである。自主的に認識し行動する主体を前提とするからこそ、あらゆるものの価値が「人間とは何か」というテーマの上に打ち立てられていくのである。

 だがもし「客観的なもの」を第一原理とすればどうなるか。それがどんな立派な思想や制度であろうと、それを媒介する主体の価値を軽視すれば、人々は硬直した教条主義・唯物主義に陥り、とどのつまり、コンピューターによって制御された高度な管理社会が出現することになるだろう。ある客観的真理を絶対視し、それによって人間のあり方が一様に規定されるのではなく、その有効性を判断するのはあくまでも個々の「主体」なのである。


(1981) 

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