倉田百三「出家とその弟子」


 これはすごい本だった。ボク自身、小説に限らず、最近どのような本を読んでも感激するということはなかったが、この本を読んで、ボクの体内の血が再び熱く躍動するのが感じられた。この本が刊行当時ベストセラーになったのもうなずける。だが、文芸書を読み慣れた人々にとっては、この作品は未完成で中途半端なものに映ったに違いない。

 このことは「解説」の中でも指摘されている。第一に、登場人物にその性格にそぐわぬ「せりふ」を使わせている。第二に、仏教用語とキリスト教用語が混在している。第三に、ここに描かれた宗教は純粋な親鸞の思想であるのか、という点である。特にボクとしては、第三の問題が気掛かりである。この作品の中からキリスト教的部分を計算外に置くとしても、倉田百三が親鸞をどのようにとらえていたか、またその親鸞像は、今日の仏教学の研究成果に照合して積極的に評価され得るものなのか、ということである。

 百三は、親鸞を浄土真宗の始祖として、少くとも尊敬の念を込めて彼の聖人としての人物像を描き出しているのだろうが、ボクは親鸞をそのようには理解していない。この点でボクは、百三の親鸞観を素直に受け入れることはできない。正直に表明するなら、ボクは親鸞思想を積極的に評価する気になれないのである。

 親鸞が提起したように、人間はどのような聖人であろうと諸々の欲望を完全に断ずることなどできはしない。ボクはそれを素直に認めるつもりだ。しかしそうかといって、このことを単純に肉食妻帯に結び付けていいものだろうか。

 「では、好きでもない親鸞の生涯をテーマにした作品に、お前はどうして感動するのか」と不思議な顔をされるかもしれない。その答えは簡単である。ボクはこの作品の中に、何よりも先ず倉田百三という一個の人間の深い魂の響きを感じるからである。ボクが興味をもったのは、この作品の中に登場する親鸞や唯円の表面的な言動ではない。むしろ、この作品の底流にある倉田百三の人間に対する深い洞察なのである。彼がいかに生き、いかに苦しみ、いかに思索したか、これらが「出家とその弟子」の上に如実に表われているように思われる。また、シナリオとすることによって、登場人物の発言がすごいリアリティーをもって迫ってくる。


序曲
 ここには「人間」と「顔蔽(おお)いせる者」との不気味な対話が書かれている。この部分を、キリスト教的「原罪」をテーマとして、神と人間との関係を描こうとしたものだと考えることができる。

第一幕
 第一幕では、世を悲観し、自暴自棄に陥いっている浪人が、親鸞と出会い回心するまでの話が描かれている。この物語は、真宗の「石の枕」というお説教話を題材としたものらしい。浪人の名は日野左衛門(ひのさえもん)と言い、お兼(かね)という妻と松若(まつわか)という子供がいる。

第二幕
 第二幕の設定は、第一幕より15年後で、場所は京都の西の洞院御坊(とういんごぼう)となっている。左衛門の息子であった松若は親鸞の弟子となり、唯円(ゆいえん)と名を改めている。最初に「踊躍歓喜の情」について、僧三人と唯円との討論が描かれている。

第三幕
 ここで、親鸞の息子の善鸞(ぜんらん)が登場する。親鸞が我が子善鸞を義絶したことは歴史的事実であるが、その理由は定かではない。善鸞は先妻の子で、父親と後妻と連れ子との間には目に見えぬ複雑な愛憎関係が存在していた。しかし、倉田百三は善鸞を放蕩息子(放蕩な上に、浄土門の救いを信じない滅びの子)として描いている。解説の「出家とその弟子ができるまで」によれば、彼は「親鸞上人一代記」により、親鸞に善鸞という放蕩息子があったことを知らされたと記されている。

第四幕
 第一場は、唯円とかえでとのデートの場面である。かえでは松の家の若い遊女で、唯円が善鸞に会うためそこに通っている内に、2人の間に恋が目映えたらしい。信仰者(僧・神父・牧師)と遊女(売春婦)との恋愛は、文学的にも重要なテーマとなっている。「罪と罰」ではラスコーリニコフとソーニャが登場するし、水上勉の「五番町夕霧桜」でも夕子と禅僧との悲恋が中心になっているようだ。

第五幕
 第一場は、遊女との恋愛について唯円と僧達が激論を戦わせている場面である。最初に、かえでとの恋愛に苦悶する唯円の姿が描かれている。

第六幕
 第六幕は、親鸞入滅の場面である。かえでは唯円の妻となり、彼との間に2人の娘がある。親鸞は死の床につきながらも、この世への未練を語り煩悩の深さを告白する。


(1881)

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