日野原 重明 (1911〜  )





■ハイジャック事件に遭遇
 私は今年10月で100歳を迎えました。これだけ長生きしていますと、人生には予期しない事件も起きます。1970年3月31日、日航機「よど号」のハイジャック事件に巻き込まれました。
 あの日は、学会に出席するため羽田から福岡に向かっていました。飛行機が富士山頂に差しかかる頃、9人の若者が突然立ち上がり、日本刀を抜いたリーダーらしき人物が「我々日空亦軍は、この機をハイジャックした。これから北朝鮮の平壌に行く!」と叫んだのです。

 彼らは手分けして、乗客とスチュワーデス120人あまりの手を麻縄で縛りました。「大変なことになった」と思った私は、自分の気持ちを確かめるため、そっと脈を測ると平常より幾分速い。やはり動揺していたのでしょう。

 そのとき脳裏に浮かんだのが、子どもの頃から習い親しんでいた聖書の一節でした。「マタイによる福音書」8章26節の「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」という言葉です。イエスがガリラヤ湖に弟子たちと釣りに行ったとき、にわかに暴風に襲われ、舟は波にのまれそうになりました。恐れおののく弟子たちをイエスがこう叱咤し、風と湖をなだめると嵐は静まったのでした。
 と同時に、尊敬していたウィリアム・オスラー医師の言葉を思い出しました。先生は「医師はどんなときでも平静の心を持つべきだ」と説いていたのです。私も「とにかく落ち着こう」と自分に言い聞かせました。

■死なば多くの実を結ぶべし
 朝鮮海峡上を飛んでいるとき、「機内に持ち込んでいる赤軍機関誌と、その他の本の名を放送するから、何を読みたいか、手を挙げよ」と言って金日成や親鷺の伝記、伊東静雄の詩集、次いでドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』などを挙げたところ、乗客の誰も手を挙げませんでした。私一人だけが、『カラマーゾフの兄弟」を借りたいと手を挙げたら、文庫本5冊を膝に置いてくれました。

 本を開くと、冒頭の言葉が目に飛び込んできました。「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネによる福青書12章24節)。
 機内へ強行突入があれば、私は死ぬかもしれないが、その死は何かの意味を持つのではないか……。先の2つの言葉と、文庫本を膝の上にして、私の気持ちは少し楽になったのです。

 幸い、私は無事に帰還できました。解放されて韓国の金浦空港の土を靴底で踏んだとき、感謝の念とともに「これからの人生は与えられたものだ。誰かのために使うべきだ」と感じました。還暦を目前にして、そう思えたことが私の人生の後半を決めてくれたのです。

(プレジデント 2011-12-5)

【略 歴】
 日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年10月4日〜 )は、日本の医師・医学博士である。聖路加国際病院理事長、同名誉院長。トマス・ジェファーソン大学名誉博士(人文科学)、マックマスター大学名誉博士。東京都名誉都民。東京都中央区名誉区民。文化功労者、文化勲章、東京都文化賞、日本医師会最高優功賞、日米医学科化学者賞(フィラデルフィア医師会、日本キリスト教文化協会日本キリスト教功労者。勲等は勲二等瑞宝章。

 9人家族(6人きょうだい)の次男として、1911年(明治44年)山口県山口市に生まれる。父・善輔は牧師をしていたが、アメリカに留学、帰国後に広島女学院を拡大し、学院長を務めた。重明は父の影響を受け、7歳で受洗した。諏訪山小学校、神戸一中、関西学院中学部、第三高等学校を経て京都帝国大学医学部に入学する。学費は教会関係者の寄付を仰いだ。在学中に結核にかかり休学、当時実家のあった広島市で約1年間闘病生活を送る。1937年(昭和12年)に京大を卒業する。

 1941年(昭和16年)に聖路加国際病院の内科医となり、内科医長、院長を歴任する。1974年、聖路加看護大学学長。

 日本で最初に人間ドックを開設、早くから予防医学の重要性を説き、終末期医療の普及にも尽くすなど、長年にわたって日本の医学の発展に貢献してきた功績により、1999年に文化功労者に選ばれ、2005年には文化勲章を授与された。従来は「成人病」と呼ばれていた一群の病気の名称を「生活習慣病」に改めたのも彼である。

 2001年(平成13年)12月に出版した著書『生きかた上手』は120万部以上を売り上げ、日本最高齢のミリオンセラー作家となった。高齢者の希望の星的存在となっている。2007年現在は同病院名誉院長であり、数多くの著書でも知られている。また、日本ユニセフ協会の大使に任命される。父親が戦中院長を務めた広島女学院で2008年4月から客員教授も務める。日野原が執筆に携わった絵本「葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜」は後にミュージカル作品となっている。

 99歳を超えてなお、スケジュールは2、3年先まで一杯という多忙な日々を送る。わずかな移動時間も原稿執筆に使い、日々の睡眠時間は4時間半、週に1度は徹夜をするという生活だったが、96歳にして徹夜をやめ、睡眠を5時間に増やしたという(Be2008年1月5日)。マスコミのインタビューで病院ではエレベーターを使わないと発言してしまったので、どんなに疲れていても公衆の面前ではエレベーターを使えなくなってしまったという。

 2010年(平成22年)世界宣教東京大会顧問。同年10月4日、『徹子の部屋』(テレビ朝日)にゲスト出演。

 2011年(平成23年)10月4日、満100歳の誕生日を迎えた。その生活スタイルは100歳を過ぎても従来と全く変わらず、本人は少なくとも110歳まで現役を続けることを目標にしていると語っている

【エピソード】
 保守思想を持ち、皇室を崇敬。度々皇室行事に招かれている。新日本国憲法に勤皇奉仕義務を明記するよう求めている。一方で、朝日新聞で執筆中のコラム「95歳の私 あるがまま行く」において、君が代に代わる新国歌の制定も提案した。因みに勤め先の聖路加国際病院は聖公会系だが、自身は日本基督教団所属である。

 医療行為を医師のみに行わせることを主張する日本医師会の立場に対し、新米の医師よりも治療に精通した看護師もいるとして、医療行為を広く医療従事者に行わせることを認めるスタンスを取る。

 2005年に行った講演の中で「アメリカの大学教授選考では、最近は年齢は不問です。つまり、業績、仕事をやる人は、年齢に関係なく教授を続けられるようになった。それに引き替え日本では、大学に定年制が引かれ、アメリカとは逆ですよ。」と発言。

 趣味の一つにピアノがある。結核を患い、闘病生活を送っていた当時、「ノクターン」を作曲した。この曲は、2008年2月17日放送の「N響アワー」(NHK教育テレビ)で日野原がゲスト出演した際、池辺晋一郎によってごく一部ではあるが披露された。

 食事は、夕食をメインにしたものである。朝食はジュースにオリーブオイルをかけて飲み、昼食は牛乳とクッキーだけで済ませる。夕食は少し多めに食べ、その日の体調に合わせて食べ物を変えるという。本人曰く「集中していれば空腹にならない」とのこと。

 日野原は、東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験から、「過剰投資ではないか」と言う批判を抑えて、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟として、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた聖路加国際病院の新病棟を1992年(平成4年)に建設した。この備えは1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、通常時の機能に対して広大すぎると非難されたロビー・礼拝堂施設は緊急応急処置場として機能した。
 院長であった日野原の判断により、事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施し、同病院は被害者治療の拠点となり、朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら、犠牲者を最少限に抑えることに繋がった。この時の顛末はNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』などでも取り上げられている。
(Wikipedia)



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