道元の生涯


■幼年
 道元は1200年、当時内大臣を勤めていた久我通親(くが みちちか)を父とし、前摂政関白粉殿基房(もとふさ)の娘伊子(いし)を母として生まれた。ところが3才で父を、8才で母を失ない孤子となった。特に薄幸の母の死は、彼の心に深い影を投げかけ、これが仏門に入る大きな要因となる。

 彼を養子として育てていた師家(もろいえ)は、いずれ朝延に任えさせたいと考えていたが、1212年彼は松殿山荘をひそかに抜け出し、師家の弟にあたる天台僧の良顕を尋ね、出家の決意を述べた。良顕は彼の熱意に動かされ、出家を許した。こうして道元は、比叡山は横川の般若谷、千光房に移り住んだ。

■求道
 しかし、大きな期待と真剣な求道心を抱いて臨んだ比叡山は、既に救い難い名利の巷と化していた。また天台宗が、 真言宗のように加持祈祷を重んずる密教的傾向を強めていくことに戸惑いを感じた。さらに大きな疑問は、「本来本法性、天然自性身」という言葉であった。それは「もともと一切の人間は仏性、つまり仏の本性を備え持っている」という意味で本覚思想とも言われ、天台宗の最も根本的な考え方であったが、彼はこれに対し「人間そのものに既に仏性が備わっているならば、なぜ我々は苦しい修行を実践しなければならないのか」という問題に直面した。

 しかし先輩学僧たちは、彼の疑問に十分な答えをしてくれなかった。そして1214年、彼は山を下り、園城寺の公胤(こういん)僧正を訪ねた。彼は道元に、入宋して禅を学ぶことを勧め、取り敢えず建仁寺の栄西を訪ねることを勧めた。道元は、建仁寺で明全に学ぶこと6年あまり(栄西は1215年7月に亡くなったので、彼との出会いは短期間であった。明全は栄西の高弟である)、大いにその薫陶を受けた。

■入宋
 やっと入宋の機会をつかんだ道元は、1223年明全等と共に博多港を出帆、4月の上旬中国の明州の港に着いた。道元24才であった。そして5月4日の夕暮、彼は日本産の椎茸を買いに船にやってきた阿育王山の老僧に出会う。道元は尋ねた。

「もう高令なあなたは、静かに坐禅修行に専念し、古人の禅問答について学ぶがよいのに、それをしないでどうして煩わしい典座(てんぞ‥‥禅寺で炊事一切をあずかる責任者)の役を勤めて、ひたすらお働きになるのです。それとも、なにかよい功徳でもおありなのですか」

 すると老典座は、かっかと大笑いして答えた。
「外国の若いお方、あなたは本当の学問や修行とはどういうものなのか、まだおわかりでないようだ」

 これまで禅を観念的にしか理解していなかった道元は、老典座との出会いを通じて新しい境地が開け、今何をなすべきかを改めて悟ったという。

 明州の港に着いたものの、上陸はなかなか許されなかったが、ようやく3ヵ月ほどして目的の中国五山の天童山に入った。最初に師事したのは、天童山住持の無際了派(りょうは)であった。大陸禅との接触を深めるにつれ、道元は次第にその世界に目覚めていった。真に釈尊の正法を会得して身につけるには、ただ頭の中の知識ばかりでなく、実際の行を通じて学ぶのでなければならない。学と行とは、その究極において完全に一致するものでなくては真の悟りを開くことはできない、ということが数々の体験を通じてわかってきた(後年、日本に帰ってから、修行者たちの日常生活全般にわたって極めて綿密周到な規範をたくさん作っているが、それらはすべて留学中の貴重な実体験に基づいたものであった)。

 やがて1224年の冬、無際が亡くなったのを機会に、道元は天童山を去り、正師を求めて諸行遍歴の旅に出た。だが、2年有余にわたる道元の努力は報われず、正師に会えぬことにいらだちを覚えていた。そして、再び天童山に帰ろうと思い立った時、ある僧から、如浄(にょじょう)が1225年に天童山の住持となったことを知らされた。彼は以前、もし禅を本格的に学ぼうと思うなら、是非とも当代随一の禅人である如浄に参じてみるがよいと耳にしていたので、さっそく天童山に帰った。

■如浄
 如浄との対面は、道元に決定的な影響を与えた。それまでの騎慢な心は立ちどころに失せ、正法を日本に伝来するためには、如浄の下で一層厳しい修行を積み重ね、さらに悟りを深め、真に禅の大事を学び終らねばならないと考えた。如浄は当代屈指の禅僧で、禅宗各派を学んだあと、大陸禅の主流として中央で栄えていた臨済宗を継がず、返って貴族化されてない古風な禅風を残している曹洞宗の法を継いだ。政治権力に近づくことを一切避け、皇帝から恩賜の紫衣を贈られた時も、これをきっぱり拒絶した。いつも最下級の黒衣ばかりを着、紋様がついた袈裟などは生涯身につけなかったという。

 いよいよ機は熟した。1227年、道元が天童山で坐禅修行に熱中していた時のこと、ある朝、居眠りしている一人の修行僧を如浄が大喝一声した。夢中で坐禅していた道元は、その天雷のような大音声を聞き、はっと吾に返り、悟りを開いたのであった。こうして1227年秋、5年に及ぶ入宋の旅を終え無事帰国した。
 
■坐禅を根本
 帰国した道元は、まず建仁寺に身を寄せた。ついで、自分が伝えた釈尊の正法は、坐禅を根本とするものでなければならぬと決意して、「普勧坐禅儀」一巻を著した。そこには栄西などのように、天台宗などの古代仏教との妥協や兼修によって禅を広めようという協調性など微塵もなかった。丁度その頃、比叡山の衆徒は大集会を開き、道元の住居を破棄し、彼を京都から追放するという決議を行なった。最早道元は建仁寺に留まる術もなく、比叡山衆徒の迫害を避け、深草極楽寺の跡に移り住んだ。

 1233年、極楽寺の一部に新たに興聖寺が建立された。新道場を設立した道元は、教団の充実に心血を注ぐと共に、増々意欲的な布教活動を続けた。道元を慕って、各宗の僧侶や公家・武家などが次々に集まって来たが、その動きの中で最も注目されるのは、孤雲懐常(えじょう)を始めとする旧大日派の合流である。大日派というのは、臨済宗大恵派の系統に属する一派である。派祖にあたる大日能忍は、栄西とほぼ同時代の人で、禅を独学で習得し、専らこれを布教していた。

 ところが1194年7月、天台衆徒が、この能忍などの禅宗の台頭をねたんで朝廷に訴えたため、栄西等と共に禅宗の布教を禁止され、このため大日能恵一派は各地に分散してしまった。ところが懐常は、道元の帰国後、建仁寺を訪れて禅問答を申し入れ、道元が評判通りの大禅師であることを認めていた。それで、1234年冬に懐常が師を失なったのを機会に道元教団に身を投じることになるのであるが、これを契機として、やがて旧大日派は一門をあげて、悉く道元門下に合流するのである。この集団入門を境として、道元は自分の説く禅の正統性を強調するため、大日派の源流である臨済宗、中でも大恵派に対する批判を強化していく。

 だが一方、大日派の合流による波紋は、ひとり教団内部の問題だけにとどまらなかった。やがて道元教団が活況を呈し、天台教団などにとって無視できない大きな存在になったからである。そのために、天台衆徒などからの圧迫が再び激化してきた。そこで道元は「護国正法義」を書き、自分が伝えた釈尊正伝の仏法こそ、国家護持のために最もふさわしい宗教であると訴えた。しかし、結局それは失敗し、道元は返って窮地に追い込まれてしまった。

 その上深草周辺では、道元が全く予想していなかった新事態が起ころうとしていた。それは、円爾(えんに)の上洛と東福寺教団の成立である。彼は、大陸禅の主流を占めていた臨済宗虎丘(くきゅう)派の法を伝えて帰国し、1243年2月、九条道家が東山に創立した東福寺の開山に迎えられ、天台・真言・禅の三宗を併置した。奇しくも洛南の地に、伏見稲荷をはさんで全く対照的な2つの弾道場が併立したのである。しかし道家等を介して、天台宗や真言宗などと密接な関係をもつ東福寺教団が、藤氏一門の絶大な庇護の下に台頭してきたことは、純粋な道元流の禅を守ろうとしていた興聖寺教団にとって極めて大きな脅威であった。
 
 このまま道元が深草に留まり、布教活動を続けていく限り、天台衆徒はもとより円爾の教団などからも陰に陽に圧迫を受け、事態が一層悪化することは目に見えていた。先には建仁寺を迫われ、今また住み慣れた最初の道場である興聖寺を去らねばならない彼の胸中は、いかばかりであったろうか。深草時代の13年間には、重要な作品が多く作られた。特に後半の数年間には、「正法眼蔵」全体の約半数に近い42巻が著わされた。

■永平寺
 やがて道元は、釈尊正伝の「真実の仏法」の純粋性を守るため一大決心をし、1243年7月、越前志比庄(福井県吉田郡永平町)へ旅立った。道元、44才のことである。在家信者が数多く加わっていた深草時代と違い、ここで道元は、選ばれた出家者だけからなる門人達に対し、誰はばかることなく自分の理想をぶつけた。禅宗・曹洞宗という宗名の否定、三教(儒・仏・道)一致の否定、出家主義の提唱など、彼の思想は増々純化され、徹底されていった。

 1244年には、門人達と共に志比庄の大仏寺に移った(2年後に、この寺は永平寺と改名される)。こうして新道場の充実と発展に精魂を傾けていた1247年、道元は執権北条時頼の招きを受け、突如鎌倉に旅立った。しかし、鎌倉の一般武士たちの信仰は、なお旧態然とした加持祈祷や密教的行事がほとんどで、道元禅による教化には限界があることは明瞭であった。道元は、時頼が禅寺を建て、その開山に迎えようとしたのを断り、1248年春、永平寺に帰った。

 いつしか道元の身体は、越前山奥での峻厳な修行生活によって、二度と癒えることのない病に蝕ぱまれていった。病状がすすんだ道元は、1253年7月、永平寺の席を弟子懐常に譲り、自分は療養のため京都にのぼった。しかし手当のかいなく、京の宿で静かに目を閉じた。行年54才、それはまことに至純な求道者の一生であった。


(参考文献)
今枝愛真「道元」NHKブックス
山崎正一「正法眼蔵随聞記」講談社文庫
秋月龍民「道元入門」講談社現代新書


(1980)

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