親鸞の生涯


■幼年
 親鸞は1173年、日野有範(ひの ありのり)の子として生まれた。日野家は、藤原氏の北家の流れをくむ公家貴族の一員であった。そして当時の社会状況は、公家貴族社会が終末を迎え、武家社会の時代へと転回する激動期に当っていた。父有範は、当時の公家の子弟の常識となっていた仏教の世界で生きる道をわが子に選んだ。1181年の春、9才になったばかりの親鸞は叡山の人となった。

 だが叡山の現実は、公家貴族の世界がそのまま横すべりしたものであった。修行にも精を出さず、学問も怠け切っている若僧達が親鸞を追い越していく理由といえば、彼等の家柄が日野家より勝っているだけであった。これが世の定めだと諦観の境地に立つには、親鸞は余りにも若過ぎた。事に触れ、折につけて煩悩に狂い、煩悩に身を焼く自分自身をどうすることもできなかった。その結果、親鸞が仰いだのが聖徳太子の示現であった。

 聖徳太子は、古くから日本仏教の父としてあがめられてきた。仏教者達は、おのれの行動への最後の決断を聖徳太子に祈ることによって与えられようとするのが常であった。そして、聖徳太子が建てたと伝えられる六角堂に通って95日目、彼は、法然に縁を求めよという示現を得た。

■求道
 彼は、法然との出会いによって回心をとげた。弥陀の他力の本願を信じ、他力の念仏者となった時、すべての人間はその善悪を問うことなく、どうにもならない煩悩を身にまとったまま、無碍の一道の一生をすごすことができるというのである。親鸞は29才にして、煩悩を断ずることなく、この世で仏となったと自覚した。京の片隅に粗末な庵を構えた親鸞は、念仏の布教を始めた。そして1205年頃、ある女性と結婚し善鸞をもうけた。

 公家政権の崩壊のきざし、旧仏教の行きづまり、それを根底からゆさぶる末法思想の浸透。こうした情勢を背景として、法然教団は着実に信徒を増やしていった。しかし、旧仏教側からすれば、念仏の発展は許しがたい問題であった。その気になれば、念仏弾圧の口実はいくらでも転がっていた。如何なる悪も往生の妨げにならぬ、戒律など無用の存在、弥陀一仏以外の価値を認めない諸神諸仏の否定、悪は思うだけ行なえといった造悪無碍(このような人々を「本願ぼこり」と呼ぶ)。念仏の救いの条件を曲解すれば、それは直ちに既成の社会秩序の破壊に通じるものであった。

 中でも念仏弾圧にこの上もない口実を提供したのが、念仏の集会に集まる男女の風俗紊乱であった。弾圧の力が加わる前に、法然は1204年叡山に対して7ケ条の制誠を書き、190人の門弟の名を連らねて念仏者の言動を慎しむべきことを神かけて誓うという態度をとった。しかし、このような努力にもかかわらず、法然が要求した注意事項を破るものが絶えなかった。

■越後
 そして1205年10月、奈良の興福寺がこのことを朝廷に訴え、念仏の禁止を要請した。既に朝廷の内部にかいても念仏の救いを信ずる数々の公家貴族がおり、積極的に弾圧に踏み切ることは困難であったが、ついに1207年2月に法然教団の念仏停止の宣旨を発した。死罪4名、流罪8名であった。親鸞は還俗名を藤井善信と改めさせられ、越後に流された。35才だった。

 親鸞は、配流の地でまたまた結婚することになる。京都には、彼の帰りを首を長くして待っている妻子がいたはずである。相手の女性は土豪の娘で、恵信尼という。当時、土豪や豪族は村々に館を構え、周囲の農民を経済的、政治的に支配する武士であり、50町歩から数百町歩の土地を支配していた。1200年3月に信蓮房という男の子が生まれ、その年の11月に流罪の罪が解かれた。しかし、翌年に法然が死亡したため京都には戻らず、越後での念仏布教を決心する。

 だが、ここも京都と同様、念仏布教は旧い神仏側からのさまざまの迫害と弾圧にさらされた。そこで、越後を去り関東での念仏布教を決意する。42才の時だった。恵信尼と信蓮房を同行させたという事情からすると、土豪であった恵信尼の実家から、なんらかの経済的援助が約束されたであろうと推測される。だが関東にかいても、念仏の発展は政治権力からの妨害と禁止を生んだ。そして、その口実というのも「本願ぼこり」が積極的に行なう諸神諸仏の否定、造悪無碍の言動であった。ついに63才の時、彼は20年間の布教の地であった関東を去り、生まれ故郷の京都に帰る決心をする。関東で生まれた益方、小黒女房、高野禅尼、覚信尼、それに越後で生まれた信蓮坊を連れて関東を去った。

■京都
 親鸞一家の京都での生活は、関東の念仏者達からの送金によってまかなわれた。しかし、ここで一つの問題が起った。それは、恵信尼と善鸞との関係の悪化、つまり、継母と継子の冷たい対立であった。この対立が表面化した時期は定かではないが、京都に帰って15年か20年を経ったごろと考えられる。その結果、恵信尼は3人の子供と共に越後の実家に帰り、一方善鸞は京都を離れ関東に居を移した。

 当時の関東の状況は、親鸞が在住していた時もそうであったが、去った後でも念仏の信仰をめぐる思想上の争いが熾烈さを加えていた。このような厳しい状況の中で、善鸞は思いもよらぬ行動をとる。彼は、親鸞が生涯をかけて布教してきた弥陀の本願を根底から否定し、萎んだ花にも等しいものであると言って、人々にみな捨てよと教えた。おまけに「親鸞が夜となく昼となく、善鸞一人にだけ他人に隠して真実の法門を教えたのだ」と主張したので、信者の動揺は関東の各地に広まっていいた。

■善鸞
 そして、ついに善鸞は1256年「親鸞が、関東の念仏者達を傷つけよと命じた」と事実無根の言をはき、鎌倉幕府に対して、関東における念仏の全面禁止を訴えた。事の次第を知った親鸞は、1256年5月29日付で善鸞あてに義絶状を送った。

 84才の親鸞は、人生の終り近くになって、こともあろうにわが子善鸞から弥陀の本願を全面的に否定するような最大の異端をつきつけられたのである。だが、2年に余まる裁判の結果、幕府は念仏禁止を非と判定し、その後関東の念仏事情は好転して行った。親鸞が永眠したのは1262年11月28日、90才の生涯であった。


(参考文献)
笠原一男「親驚」NHKブックス
松野純孝「親驚」評論社
古田武彦「わたしひとりの親鸞」毎日新聞社


(1980)

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