「般若心経」


 

 『般若心経』(はんにゃしんぎょう)、正式名称『般若波羅蜜多心経』(はんにゃはらみったしんぎょう、プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)は、大乗仏教の空・般若思想を説いた経典で、般若経の1つともされる。

 大正新脩大蔵経に収録されている、玄奘三蔵訳とされる経題名は『般若波羅蜜多心経』であるが、一般的には『般若心経』と略称で呼ばれることが多い。『般若心経』をさらに省略して『心経』(しんぎょう)と呼ばれる場合もある。僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、複数の宗派において読誦経典の一つとして広く用いられている。

■概要
 空性を短い文章で説きながら、末尾に真言(Mantra)を説いて終わるという構成になっている。現在までに漢訳、サンスクリットともに大本、小本の2系統のテキストが残存している。大本は小本の前後に序と結びの部分を加筆したものともいわれている。現在最も流布しているのは玄奘三蔵訳とされる小本系の漢訳であり、『般若心経』といえばこれを指すことが多い。

 真言はサンスクリットの正規の表現ではない上、色々な解釈が可能であるため定説はない。仏教学者の渡辺照宏説、中村元説、宮坂宥洪説など、異なる解釈説を行っている。

■代表的なテキスト
 以下は、代表的な流布テキストに句読点を施したものである。

仏説・摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智・亦無得。以無所得故、菩提薩_、依般若波羅蜜多故、心無_礙、無_礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経

 なお、羅什訳・玄奘訳とも、「般若波羅蜜(多)」「舍利弗(子)」「阿耨多羅三藐三菩提」「菩薩(菩提薩_)」及び最後の「咒(しゅ)」の部分だけは漢訳せず、サンスクリットをそのまま音写している。

■日本における般若心経
 日本では仏教各派、特に法相宗・天台宗・真言宗・禅宗が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。ただし、伝統的な仏教宗派、浄土真宗は『浄土三部経』を、日蓮宗・法華宗は『法華経(妙法蓮華経)』を根本経典とするため、般若心経を唱えることはない。
 これは当該宗派の教義上、用いる必要がないということであり、心経を退けているのではない。例えば、浄土真宗西本願寺門主であった大谷光瑞は般若心経の注釈を著している。


母と般若心経

■実家は真言宗
 私の実家の宗派は真言宗で、母はよく般若心経を唱えていた。真言宗では中心的なお経。母は夕食を終え、9時頃になると仏壇の前に座り、毎日般若心経を唱えるのが日課であった。「おつとめ」ともいう。それが終わると、仏壇に供えてあるお菓子類をたばって(降ろして)きて食べていた。母はとり立てて信心深かった訳でもないと思う。近所の同年代の主婦達はほとんど般若心経を暗記していた。弘法大師空海が開創した高野山の麓ということで、真言宗の影響力が強かった。 

 また母は、晩年には月に一回近所の主婦達に連れられて、奈良のお寺に写経に行っていた。書いたものをお寺に奉納し、様々な願い事成就、開運の祈願をしていた。四国のお遍路もマイクロバスで回っている。
 私は中高生の頃から、母が般若心経を唱えたり、ちょくちょく祈祷師や霊媒師の所に行っているのが好きではなかった。そのことを母に問い詰めたこともあった。父親は、宗教には無関心だった。母が高齢になってからは、母の生きがいになっていた。

 今から考えると、母の健康法の1つだったのだろう。高齢になると喉の筋肉が衰え、誤嚥しやすくなるという。カラオケもいいそうだが、高齢者には般若心経を唱えるのが健康には一番良かったのだろう。母は既に亡くなってしまったが、母は母なりに真言宗の信徒として般若心経に向き合ってきたのだと思う。
 私は20代に般若心経の解説本を2、3冊かじってみたが、なかなか難しかった。ほとんどはビジネスマン向けの内容で、それ自体は難しくなかった。しかし、「空」の意味がよく分からなかった。 現代語訳すれば、「空」は「実体はない」という意味らしいが、その「実体」という言葉の意味がよくわからなかった。

 そういえば、沖縄の芥川賞作家・大城立裕氏も1981年に「般若心経入門」を出版しており、立ち読みした記憶がある。当時の私は、仏教に批判的であって、どの本も納得いくものではなかった。学術的な本はさらに難しく、一般人が到底理解できるものではなかった。

■般若心経とは
 そもそも「般若心経」とは、どういうお経なのか。
「般若心経」は、正式名称『般若波羅蜜多心経』。般若波羅蜜多とは、完璧な智慧の完成という意味。大乗仏教の「空」の思想を説く。僅か262文字の本文に仏教のエッセンスが説かれているという。末尾に真言(マントラ)を説いて終わる。日本で最も良く読まれているのが、玄奘三蔵(602〜664)が翻訳した漢文。西遊記で有名な三蔵法師だ。 
 日本では特に法相宗・天台宗・真言宗・禅宗が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。空海は『般若心経秘鍵』(ひけん)という、わが国最初の注解書を書いている。浄土真宗は『浄土三部経』、日蓮宗は『法華経』を根本経典とするため、般若心経を唱えることはないという。

■なぜ音読するのか
 般若心経への批判はいくつかあるが、まずは「なぜ音読するのか」という点。私は若い時、このことが不思議でならなかった。般若心経に限らず、仏典全体に言える事だ。読み下し文なら、漢文より内容を理解しやすい。仏教学者の怠慢ではないのかと思う。その結果、一般の人々にとっては、「空」を説く経典と言うより、「霊験あらたかな呪文」として受け止められた。

 有名な小泉八雲の「耳なし芳一」の話がある。盲目の琵琶(びわ)法師が、平家の怨霊(おんりょう)にまねかれ、夜ごと安徳天皇陵の前で壇ノ浦の戦いを弾き語る。これを知った和尚に、怨霊から身を隠すため全身に般若心経を書いてもらうが、両耳に書き忘れる。両耳は怨霊にひきちぎられたが、一命は取り留めた。 

 この話のように、般若心経は悪霊を退散させる不思議な呪力をもっていた。昔から、お守りとして所持したり、病気になったときに写経して平癒を祈願したという。釈迦は、そういった唱えるだけで効果があるという言葉を認めていて、毒蛇除け、歯痛、腹痛に聞く真言がその時代からあったという。
 このような歴史的背景があるので致し方ないが、時には読み下し文で唱えるべきだと思う。現代語訳はいろいろあるが、読誦(どくじゅ)するにはふさわしくない。

■般若心経は釈迦の教えを逸脱している
 次の疑問は、「般若心経は釈迦の教えを逸脱している」という点。上座部仏教(小乗仏教)を支持している人に多いようだ。般若心経は、タイやスリランカのような上座部仏教国では人気がないという。大乗仏教は、上座部仏教の批判から生まれたので、それは当然のことだと思う。

 上座部仏教は出家主義で、一般人は悟りを得られない。個人の悟りが重要で、社会との関わりを否定している。仕事、財産、家族、地位など、すべてを捨てなければならない。これでは大多数の人間は救われない。たとえ僧院で修行し、悟ったとしても、社会に出て貢献しなければ意味が無い。社会を進歩発展させていくことができない。また、人間の幸福を考えるなら、世界は「苦」ではなく、「楽」と考えるべきだ。
 釈迦の死後500年たった頃、今から2000年前、大乗仏教が生まれた。大乗仏教は寛容で万民を救済してくれる易しい教え。ただあまりにも教義が複雑になり、世俗的になり、収拾がつかなくなっているとも言える。その反動で、上座部仏教の人気が出てきているのではないだろうか。

 最後に私の個人的な意見だが、般若心経にこだわり過ぎると出口が見つからなくなってしまう。「色即是空」の学術的研究は学者に任し、不謹慎だが「この世に常住不変の物は無く、あらゆる物は原因や条件によって成り立っている。それらに執着しないことだ」というような理解でいいのではないか。むしろ、最澄・空海・親鸞・道元・日蓮などの仏教者の生き方を学ぶ方が有意義だと思う。
(2020)       


現代語訳「般若心経」

■島田 裕巳(宗教学者)

求道者である観音菩薩は、深遠な知恵の完成をめざして、その実践をしていたとき、
すべての存在を構成している5つの要素がみな実体のないものとしてあることを認識し、
いっさいの苦悩やわざわいを超越することができた。
我が弟子であるシャーリプトラよ、物質的現象は実体のないものにことならず、実体のないものは物質的現象にことならない。
物質的現象はまさに実体のないものであり、実体のないものはまさに物質的現象である。

そして、物質的現象とともに、すべての存在を構成している他の4つの要素である人間の感覚も、イメージも、
こころの働きも、さらには知識も、物質的現象の場合とまったく同じなのである。
シャーリプトラよ、いっさいの存在するものは実体のないことを特徴としており、生じることもなく、滅することもなく、
汚れることもなく、清まることもなく、増えることもなく、減ることもない。

このために、実体のない状態においては、物質的現象もなく、感覚もなく、イメージもなく、こころの働きもなく、
知識もない。また、目や耳や鼻や舌やからだや思いといったものもなく、
それが対象とする形も音も香りも味も、触ったり、思ったりすることのできる対象もない。

さらに、目で見える世界も、意識の世界もない。そして、迷いもなく、迷いが尽きることもない。
また、老いることも死ぬこともなく、老いることや死ぬことが尽きることもない。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを滅することも、苦しみを滅するための方法もない。

知恵もなく、体得すべきものもない。体得すべきものがないので、求道者は、知恵の完成によって、こころに障害がなくなる。
こころに障害がないから、恐れもなく、正しく見ることを妨げる迷いを離れて、永遠の平和を極めるのだ。
 現在、過去、未来にわたる三世の仏たちは、知恵を完成することによって、このうえない完全な悟りを体得している。

それゆえに、以下のことを理解すべきである。知恵の完成は真言(マントラ)であり、
偉大な悟りの真言であり、このうえないすばらしい真言であり、他に比べることのできない真言である。
いっさいの苦しみを取り除く、真実なるものであり、虚しいものではない。知恵の完成は、真言を説く。

その真言とは「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆詞」である。
   (ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)
これこそが、完壁な悟りに至るための真髄である。


■岸田 秀(心理学者)

真実に目覚めるための教え。

知恵を働かせ、深く考えれば、全ては幻想であること、
身体も精神も幻想であることが分かる。
それが分かれば、一切の苦しみから解放される。

現実は幻想であり、幻想が現実である。
感覚も思想も理性も知識も幻想である。
世界に存在する全てのものも幻想である。
故に、生じることも消滅することもなく、濁ることも澄むこともなく、
増えもせず減りもしない。

目や耳や舌や身体や心も幻想であり、
それらで感じる形、声、香り、味、手触り、感情も幻想である。
目に見える世界も、意識する世界も幻想である。
愚かさも幻想であり、愚かさからの脱出も幻想である。

老いや死も幻想であり、老いや死からの解放も幻想である。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみからの解放も幻想である。
知性も幻想であり、悟りも幻想である。

このように全ては幻想であることが分かれば、心に囚われが無くなる。
心に囚われが無くなると、恐れが無くなる。
故に一切の迷いから覚めて、無上の安らぎに至るのである。

これが真実に目覚める教えであり、この教えこそが、
大いなる霊力の言葉であり、賢明なる言葉であり、
この上なき言葉であり、比類無き言葉である。
故に、一切の苦しみを取り除き、真実にして空しさが無い。

さあ、真実に目覚める言葉を唱えよう。

行こう、行こう、真実の世界へ行こう。
みんな一緒に行こう。
正しい悟りを譲受しよう。

真実の教えを終わる。


■ひろ さちや

観自在菩薩が、かつてほとけの智慧の完成を実践されたとき、
肉体も精神もすべてが空であることを照見され、
あらゆる苦悩を克服されました。

舎利子よ。
存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。
存在がすなわち空で、空がすなわち存在です。
感じたり、知ったり、意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、
これまた空です。

舎利子よ。
このように存在と精神のすべてが空でありますから、
生じたり滅したりすることなく、きれいも汚いもなく、増えもせず減りもしません。

そして、小乗仏教においては、
現象世界を五蘊(ごうん)・十二処・十八界といったふうに、
あれこれ分析的に捉えていますが、
すべては空なのですから、そんなものはいっさいありません。

また、小乗仏教は、十二縁起や四諦といった煩雑な教理を説きますが、
すべては空ですから、そんなものはありません。
そしてまた、分別もなければ悟りもありません。
大乗仏教では、悟りを開いても、その悟りにこだわらないからです。

大乗仏教の菩薩は、ほとけの智慧を完成していますから、
その心にはこだわりがなく、こだわりがないので恐怖におびえることなく、
事物をさかさに捉えることなく、
妄想に悩まされることなく、心は徹底して平安であります。

また、三世の諸仏は、ほとけの智慧を完成することによって、
この上ない正しい完全な悟りを開かれました。

それ故、ほとけの智慧の完成はすばらしい霊力のある真言であり、
すぐれた真言であり、無上の真言であり、無比の真言であることが知られます。
それはあらゆる苦しみを取り除いてくれます。
真実にして虚妄ならざるものです。

そこで、ほとけの智慧の完成の真言を説きます。
すなわち、これが真言です。

「わかった、わかった、ほとけのこころ。すっかりわかった、ほとけのこころ。
 ほとけさま、ありがとう」


■『般若心経・金剛般若経』岩波文庫

全知者であるさとった人に礼したてまつる。

求道者(ぐどうしゃ)にして聖なる観音(かんのん)は、
深遠な知恵の完成を実践していたときに、
存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。
しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、
実体のないものであると見抜いたのであった。@

シャーリプトラよ、
この世においては、物質的現象には実体がないのであり、
実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。
また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。

(このようにして)およそ物質的現象というものは、
すべて、実体がないことである。
およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象(ひょうしょう)も、意志も、知識も、
すべて実体がないのである。

シャーリプトラよ、
この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、
汚れを離れたものでもなく、減るということも、増すということもない。

それゆえに、シャーリプトラよ、
実体がないという立場においては、物質的現象もなく、
感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。

眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、
声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。
眼の領域から意識の領域にいたるまで、ことごとくないのである。

(さとりもなけれぱ)迷いもなく
(さとりがなくなることもなければ)、迷いがなくなることもない。
こうして、ついに、老いも死もなく、
老いと死がなくなることもないというにいたるのである。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。
知ることもなく、得るところもない。

それゆえに、得るということがないから、
諸々(もろもろ)の求道者の知恵の完成に安んじて、
人は、心を覆(おお)われることなく住している。
心を覆うものがないから、恐れがなく、
転倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。

過去・現在・未来の三世(さんぜ)にいます目ざめた人々は、
すべて、知恵の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめをさとり得られた。

それゆえに人は知るべきである。
知恵の完成の大いなる真言(しんごん)、
大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、
すべての苦しみを鎮(しず)めるものであり、偽りがないから真実であると。

その真言は、知恵の完成において次のように説かれた。

往(ゆ)ける者よ、往ける者よ、彼岸(ひがん)に往ける者よ、
彼岸に全(まった)く往ける者よ、
さとりよ、幸いあれ。

ここに、知恵の完成の心を終わる。


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