老子「老子道徳経」


■概要
 老子道徳経は、中国の春秋時代の思想家老子が書いたと伝えられる書。単に『老子』とも『道徳経』とも表記される。また、老子五千言・五千言とも。『荘子』と並ぶ道家の代表的書物。道教では『道徳真経』ともいう。上篇(道経)と下篇(徳経)に分かれ、あわせて81章から構成される。

■伝説上の老子道徳経
 老子は楚の人。隠君子として周の図書館の司書をつとめていた。孔子は洛陽に出向いて彼の教えを受けている。あるとき周の国勢が衰えるのを感じ、牛の背に乗って西方に向かった。函谷関を過ぎるとき、関守の尹喜(いんき、中文版)の求めに応じて上下二巻の書を書き上げた。それが現在に伝わる『道徳経』である。その後老子は関を出で、その終わりを知るものはいない。

■文献学上の老子道徳経
 しかし、現在の文献学では、伝説的な老子像と『道徳経』の成立過程は、少なくとも疑問視されている。まず、老子が孔子の先輩だったという証拠はない。伝説では老子の年は数百歳だったというが、あくまで伝説である。前述の、孔子が老子に教えを受けたという話は『荘子』に記されている。しかし『荘子』の記述は寓話が多く、これもそのうちの一つである可能性が非常に高い。

 『荘子』にたびたび登場している点から見て、老子の名は、当時(紀元前300年前後)すでに伝説的な賢者として知られていたと推測される。ただし、荘子以前に書物としての『老子道徳経』が存在したかは疑わしい。『道徳経』の文体や用語は比較的新しいとの指摘がある。たとえば有名な「大道廃れて仁義あり」の一文があるが、「仁義」の語が使われるのは孟子以降である。

 一方で『韓非子』(紀元前250年前後)には、『道徳経』からの引用がある(ただしその部分については偽作説もある)。
 現在有力な説では、『荘子』で言及されている伝説的な賢者の老子は『老子道徳経』の作者ではなく、『道徳経』はのちの道家学派によって執筆・編纂されたものであろうということである。

■内容
 『老子道徳経』は5千数百字(伝本によって若干の違いがある)からなる。全体は上下2篇に分かれ、上篇(道経)は「道の道とすべきは常の道に非ず(道可道、非常道)」、下篇(徳経)は「上徳は徳とせず、是を以て徳有り(上徳不徳、是以有徳)」で始まる。『道徳経』の書名は上下篇の最初の文句のうちからもっとも重要な字をとったもの。ただし馬王堆帛書では徳経が道経より前に来ている。

 上篇37章、下篇44章、合計81章からなる。それぞれの章は比較的短い。章分けはのちの注釈者によるもの。68章に分けた注釈もある。一方で、81章より多く分けた方が文意が取りやすいとの意見もある。『道徳経』には、固有名詞は一つも使われていないことが指摘されている。短文でなっていること、固有名詞がないことから、道家の俚諺(ことわざ)を集めたものではないかという説がある。

■老子思想
 老子の根幹の思想である無為自然とは、自然との融合を目指すという意味は持たず、「あるがままに暮らすべきだ」との思想。一部の偏った解釈ではこれは政治思想であり、「人民は無知のまま生かしておくのが最も幸せである」とする思想との解釈もある。



「老子道徳経」(抜粋)

1.道の道とすべきは恒の道にあらず
 これが「道」だと説明できるような「道」は、ほんものの「道」ではない。これが「名」だと説明できるような「名」は、ほんものの「名」ではない。「道」、すなわち「無」こそ万物の根源であり、そこから「有」、すなわち天地が生まれ、万物が生まれた。

 万物の実相を見極めるには、つねに無欲でなければならない。欲望にとらわれているなら、現象しか見ることができない。実相も現象も、さかのぼれば同じ根源、すなわち「道」から発しており、ただ「名」を異にしているにすぎない。「道」はあくまでも玄妙な存在であり、そこから宇宙の森羅万象が発するのである。(1章)

2.和光同塵
 「道」は、形のない空虚な存在であるが、そのはたらきは無限である。計り知れない深さのなかに、万物を生み出す力を秘めている。とげとげしさを消し去って対立を解消し、才知を包みこんで世俗と同調する…… (4章)

3.上善は水の如し
 最も理想的な生き方は、水のようなものである。水は万物に恩恵を与えながら相手に逆らわず、人のいやがる低い所へと流れていく。だから、「道」のありように似ているのである。

 低い所に身を置き、淵のように深い心をもっている。与えるときはわけへだてがなく、言うことにはいつわりがない。国を治めては破綻を生ぜず、物事には適切に対処し、タイミングよく行動に移る。これこそ水の在り方にほかならない。水と同じように、逆らわない生き方をしてこそ、失敗を免れることができるのである。(8章)

4.道を体得した人物
 「道」を体得した人物は、奥知れぬ味わいがあって、その深さを計り知ることができない。だから説明のしようもないのだが、あえて形容すれば、こうなるだろう。

 氷の張った河を渡るように、慎重そのもの。四方の敵に備えるように、用心深い。客として招かれたように、端然としている。氷が解けていくように、こだわりがない。手を加えぬ原木のように、飾り気がない。濁った水のように、包容力に富む。大自然の谷のように、広々としている。汚濁しているようではあるがいつのまにか澄み、静止しているようではあるが豊かな生命力を宿している。「道」を体得した人物は、完全であることを願わない。だから、ほころびが出てもつくろわないのである。(15章)
                              
5.鶏犬の声相聞こゆ
 国は小さく、人口も少ない。かりに文明の利器に恵まれたとしても、人々は見向きもしない。それぞれに人生を楽しみ、他所へ移ろうとしない。舟や車があっても乗ろうとはしないし、武器はあっても手にとろうとはしない。あえて読み書きを習おうともしない。それぞれの生活に満足し、それぞれに生活を楽しんでいる。鶏や犬の声が聞こえてくるようなすぐ近くに、隣の国があっても、往来する気などさらにない。 (80章)



TOP


inserted by FC2 system