テーラワーダ仏教(上座仏教)
アルボムッレ・スマナサーラ(スリランカ上座仏教長老)





■「苦」は、生きることそのもの
 人生はトラブルや苦悩、悲しみや不安に満ちています。勤務先の業績悪化、リストラの危機、愛する家族との別離、夫が鬱に、妻がガンに、子供がニートになった等々。これらの深刻な問題が、いつ自分の身にふりかかってくるかもしれません。

 ブッダは生命とは何なのかと調べた結果、「苦」だという答えを出しました。私たちは幸せを求めて生きていると思っていますが、じつは「命は苦でできている」のです。なぜご飯を食べるかと言えば空腹感が苦しいから。呼吸するのも呼吸しなければ苦しいからです。すべての欲望の裏には苦があって、それが原動力となって命は動かされているのです。

 あらゆる生命にとっての「苦」は、「生老病死」の4つです。すべての生命は、生まれ、老い、病み、死にます。人間には乗り越えがたい苦しみですが、それは同時に、生きることそのものでもあるのです。

■諸行はまさに無常である
 人が生きるうえで、苦について徹底的に考え抜いたブッダは、こう語っています。「諸行はまさに無常である」(生じて滅びる性質を持つ。諸行はまさに無常である)。この世のすべてのものは変化する。生じて滅びるということです。変わらないものは何一つありません。
 この真理を発見したブッダは、「では、我々はどうしたらいいのか?」ということについて、次のように説いています。

 「生じて滅びるそれらから、こころを静めるのが安楽である」。つまり、自然も会社も人も変わり続けるという真理を認め、どんな変化も当然のこととして受け容れられるようになれば、苦しみは乗り越えられ、心が安らぐというのです。

 「無常」というと、暗い話を思い浮かべる人がいますが、実はそうではありません。変わり続けることは、いい悪いではなく、そういう法則だという、ただそれだけのことです。人は、子供が成長するという変化は喜ぶのに、なぜそれ以外の変化には怒るのでしょうか。社会や経済が変わるのも、病み衰え死ぬのも、雨が降り、地球が自転をするのと同じ、当たり前のことなのです。
 
■世の中は刻一刻変わり続けている 
 苦しみは、無常という真理を認めようとしない心が生みだしています。たとえば、人は自分の都合のいいように、勝手に「安定」を期待します。好調な業績は今後も続くだろうと考え、結婚で得た幸せはゴールであり永遠に変わらないと思いたがり、子供がいい学校に入ったら「もう大丈夫」と安心します。しかし本当は安定などありえないのです。

 安定を求める私たちは、毎日の生き方において、安易に「安心感」に陥りがちです。世の中はすべてがずっと刻一刻変わり続けているのですから、私たちは毎日を注意深く生きなければなりません。今日も精一杯頑張れただろうか、何か問題は生まれていないかと十分注意を払う必要があります。仕事で業績を維持するには毎日さまざまな手を打たなければなりませんし、結婚後に家族がずっと幸せで仲良くいるためにも、毎日死ぬ瞬間まで努力し続けなければならないのです。

 そのことに気づかずに、長年、毎日をダラダラと生きていると、小さな「ゴミ」が積み重なり、気づいたときには取り返しのつかない状態になっているのです」
 
■日々是好日
 しかし、すべては無常であり、あらゆるものは変わるのだと知れば、慢心せずに、毎日を大切に生きなければならないと気づきます。
 「過去に惹かれるなかれ、未来に期待するなかれ」と、ブッダは説いています。人は往々にして現実から離れ、「夢の中」で生活しようとします。実在しない世界、つまり過去と未来に思いを馳せるのです。過去や未来のことを考えるのは妄想の中で生きるのと同じです。
 ブッダはこれについて次のような意味のことを語っています。
 
 「過去は過ぎ去ったものであり、もう存在しない。未来はまだ現れていないのだからわからない。過去の栄光を追ったり失敗を悔いたりしても意味がない、未来について心配しても仕方ないし、何かを願っても期待どおりにはならない。
 過去や未来に囚われず、いま何が起こっているかを正しく観察し、動じることなく、怠らず、いまこの瞬間に行うべきことを実践しなさい。そうすれば心を煩わされることなく、解放された心で生きていられます」

 これが「日々是好日」です。
 この言葉は「今日はよい日だなあ」というような曖昧なものではなく、前述のようなきちんとした実践を伴った言葉なのです。「いま、ここ」に集中し、自分の力で「今日はよい日でした」と言えるような生き方をしなさいという意味なのです。
 
■人生というのはいつも緊急事態
 私は来日して30年になりますが、とくに昨今は「景気が悪くて大変だ。昔はよかった」と嘆く人が目立ちます。しかし、その人たちが「景気がよかった」というバブル期はどうだったでしょうか。みんな儲けるために汲々とし、非常に神経質で、ヒステリックな時代でした。
 ふり返って「よかった」という時代も、その時代はその時代なりに大変だったのです。つまり、生きることは常に大変なのです。
 人生というのはいつも緊急事態です。毎日毎日、その場でその場で、判断し対応するよう努めなければなりません。

 仕事や家事をしていても、いつもイライラ焦ってしまうと悩んでいる人がいます。それは、先のことをアレコレ考えてしまうからです。あるいは、過去にできなかったことを思い悩んだりしているからです。「やらなければならない」ことを妄想していては、キリがありません。
 また、私たちは希望をもちたがります。将来のことはどうなるかわからないのに、あれこれ未来を想像し、専門家にも予測を求めます。予測することで安心したいのです。しかし実際は予測どおりになるわけはなく、予測が外れた、希望が裏切られたといって怒り、落ち込むのです。
 
■その瞬間をしっかり生きる
 私たちは、現実的には「いま」の瞬間だけを生きています。何をするにしても、いまこの瞬間にすべきこと以外はできません。何をすべきか、どの課題に集中すべきかということは、「いま、ここ」のことならはっきりわかるはず。過去を悔やんだり、未来の心配をしなければ、解決方法を発見し、それを実行することも容易にできるのです。

 常に、いまやるべきことに取り組めば焦りは生まれません。仕事や家事なら、たとえば十分刻みで、そのとき必要なことを順々にこなしていけばいいのです。いまの10分より先の10分は存在せず、過ぎてしまった過去の10分も存在しないのです。現実に存在する、いまこの10分で、やるべきことを精一杯やるしかないのです。やり遂げればその度に喜びが生まれます。その小さなユニットを繋げることを人生とすればいいのです。

 人は「生きる意味は何か」と問いたがりますが、意味はありません。問う必要もないのです。とにかく生きる。ただ、その瞬間をしっかり生きるだけです。
 
■立ち止まりもせず、あがきもせず
 すべてのものが変化する、無常の世の中。そこで生きるのは、たとえてみれば私たちはみな川に流されているということです。では、その激流を、どう渡ればいいのでしょうか。
 問われたブッダはこう答えています。

 「私は、立ち止まることなしに、あがくことなしに、激流を渡ったのです」
 何もせずに立ち止まっていたら沈んでしまいますし、激流に逆らって泳ごうと暴れれば溺れてしまいます。波に合わせて流してもらうことで、うまく渡ればいいのです。岩にぶつかりそうになったときは、ちゃんと手を打って身を守る。流れの緩い場所になったら泳いでなるべく岸に近づく。また流れが激しくなったら、泳ぐのを止めて流される。そのように人生を調整し、操縦しながら進めていけばいいと語っています。

 「立ち止まりもせず、あがきもせず」という微妙な調整です。川の流れに応じてその場でテキパキと的確に判断しなければなりません。そのためにも、先に述べたように、過去や未来に囚われず、つまり頭の中に余計な妄想を描いていないで、「いま、ここ」をしっかり生きることが大切なのです。
 
■本当の宝物は知恵
 私にとってブッダの言葉はすべて大切ですが、その中でも多くの人に知ってほしいと思っているのは次の言葉です。「本当の宝物は知恵である」。
 知恵をもっている人は、世界を偏見なしに、軽々と面白がってとらえます。ところが、この知恵を妨げるのが「感情の毒」なのです.怒りや見栄、エゴ、嫉妬など感情のウイルスに汚染されると、脳がうまく活動しません。あれやこれやとややこしく考えてしまうのは、感情のために脳の活動がストップしてしまっている証拠です。

 知恵をもっている人は、性格も謙虚になり、物事をシンプルに思考します。たとえば仕事で自分の提案がうまく採用されなかったり、あるいは仕事でミスをしてしまった場合。どうしても自分の面子や感情が入ってしまうかもしれません。しかし「まずいッ」という悔いや焦りが入り込むと、問題はかえってこじれ、うまくいかなくなる可能性が大きくなるのです。
 
■自我やこだわりは捨てる
 大切なのは、そういった自我やこだわりは捨てて、問題そのものだけをシンプルに取り出し、考えることです。それができれば、自分の提案に対して指摘された欠陥部分をすばやく修正できますし、迅速な対策も立てられます。ミスを素直に認められる謙虚な姿勢をもつ人ほど、さらなる知恵を獲得することにもなるでしょう。余計なことを考えずに「ああ、そうですね。やり直しましょう」と実行するのが一番早いのです。

 他人と議論したり、口論、喧嘩を仲裁する場合も同様です。互いの気持ちの部分、自己主張の部分には囚われず、問題のポイントだけをシンプルにまな板に載せれば、おのずと互いの心が整理され、解決の道筋が見えてきます。
 
■この世の真理に従えばいい
 私たち出家した人間がとりわけ大切にするのは、ブッダの次の言葉です。「真理に従って生きる人は、真理が守ってくれる」
 これは、淡々と真理に従って生きる人は真理によって守られる、妄想ではなく真理に従え、という戒めです。感情で生きたら負けますよということ。

 プッダは人間の苦しみは普遍的なものであり、それは無常という真理を認めようとしない心の問題にあることを発見しました。そして、その心が真理を認める勇気をもつように修行することが知恵を開発することにつながり、苦しみから脱出することができる、と発見したのです。ブッダはこの方法でみずからがその苦しみから脱出してから、つまり解脱してから人々に伝えました。

 ブッダが説かれたものは「宗教」や「信仰」ではありません。ブッダはけっして「神を信じろ」とか「私を信じろ」とは言いません。奇跡とか神秘体験やマインドコントロール、風水などといったこととも、いっさい関係がありません。何かにすがり依存しろとも言っていません。ただただ、この世の真理に従えばいいというのです。
 
■テーラワーダ仏教 
 仏教は心の科学です。ブッダが説いているのは、ブッダが発見した世の中の「真理」です。世の中について、生命について、人の心について、宇宙について考え抜いて知ったもの、つまり普遍的な法則、真理を伝えているのが、ブッダの言葉なのです。

 世の中にあることをそのまま、少しもねじ曲げることなく、こうなっていますと説明することは科学です。いわゆる物理・科学が物質を対象とするのに対して、ブッダの場合は心を研究し、生きるということをテーマとした科学なのです。生きることはなぜ苦なのかを突き詰めた科学なのです。

 テーラワーダ仏教(上座仏教)はブッダの教えに最も忠実なものです。仏教が世界各地に伝播し、それぞれの開祖によって各種の発展を遂げる以前の、最も初期の仏教。ブッダが実際に説法に用いたパーリ語(古代インドの俗語)のオリジナル経典に基づいた仏教です。阿弥陀仏など諸仏の存在は認めず、菩薩への信仰もありません。極楽浄土があるとも言いません。

 ブッダが辿り着いた「悟り」の境地に近づくために、私たちは瞑想を行っています。たとえばその一つはヴィパッサナーと呼ばれる瞑想法で、その瞬間に起こっていることをありのまま見つめることによって、洞察力を養うもの(深呼吸後、下腹部が受動的に動くのに合わせ、その感覚を「膨らみ」「縮み」と心の中で淡々と実況中継する等)です。
 
■変化に合わせて「自分」を変えていく
 私たちが生きることの本質は「苦」であることを認め、安定はない、すべては変わるのだ、と知った人には大きな勇気が生まれます。「すべては変わる」ということは、「すべては変えられる」ということです。変化に合わせて、自分も変わればいいのです。どんどん挑戦すればいいのです。

 変わることを恐れているうちは、不安から解放されず、自由と安らぎも得られません。経済が悪い、国が悪い、環境が悪いと嘆くのではなく、みずからを変える勇気をもってください。諸行は無常です。自分が生きる世界は、自分で築くことができるのです。

(プレジデント 2011-12-5)

【略 歴】
 アルボムッレ・スマナサーラ(Ven.Alubomulle Sumanasara nayaka Thera 1945年〜 )は、現在日本で活動しているスリランカの上座部仏教(テーラワーダ仏教)の僧侶であり、スリランカ上座仏教シャム派の日本大サンガ主任長老である。日本において上座部仏教の教義、およびヴィパッサナー瞑想を普及させる上で、中心的な役割を果たしている。

 1945年、スリランカに生まれる。13歳で沙弥出家、1965年に具足戒を受けて比丘となる。
 スリランカの国立ケラニア大学で仏教哲学の教鞭を執ったのち、1980年に国費留学生として来日。大阪外語大語学コースを経て駒澤大学大学院人文科学研究科仏教学専攻博士後期課程に進学し、道元の思想を研究する。

 その後、スリランカと日本両国での活動を経て、1991年1月に再来日。上座仏教修道会にて仏教講演や瞑想指導を本格的に開始する。
 1994年11月、日本テーラワーダ協会(のちの宗教法人日本テーラワーダ仏教協会 初代会長、鈴木一生)を設立する。
 2001年5月、東京都渋谷区幡ヶ谷にゴータミー精舎幡ヶ谷テーラワーダ仏教センターを開基する。
 2005年4月、大阪府岸和田市にアラナ精舎を開基する。
 2005年8月、スリランカ上座仏教シャム派総本山アスギリヤ大寺にて日本大サンガ主任長老(Japan Mahasanghanayaka Thera)に任命される。
 2006年4月、アスギリヤ大寺管長らを招聘し、国内三ヶ所(東京都八王子市、兵庫県三田市)に上座部仏教の戒壇を設立する。
 2009年5月、佐賀県鹿島市に佐賀新精舎を、兵庫県三田市にマーヤーデーヴィー精舎を開基する。

【思想・活動】
 現在は日本テーラワーダ仏教協会(2004年に宗教法人を取得)や朝日カルチャーセンターなどで上座部仏教の伝道、ヴィパッサナー瞑想(マハーシ系)の指導に従事。

 長く大乗相応の地とされてきた日本では、明治時代にスリランカ留学僧の釈興然(グナラタナ)によって上座部仏教の移植が試みられたことがあったが、社会的にはそれほど認知されてきたわけではない。 戦後は在日タイ人、スリランカ人、ミャンマー(ビルマ)人などの求めで来日した各国僧侶による活動はあったが、一般の日本人への上座部仏教の普及は、スマナサーラ長老の力によるところが大きい。

 多数の書籍を出版しており仏教書のベストセラーとなっている。対談もおこなっており、他宗派の僧侶である南直哉、玄侑宗久、キリスト教シスターである鈴木秀子、解剖学者の養老孟司、作家の立松和平、投資家の小飼弾との対談本を出版している。また講演活動を多数行っており、講演の一部は公式サイトや協会のブログで無償で配信されている。メディアへの出演も行っており、NHK教育テレビこころの時代などに出演している。

 大乗仏教優位論が顕著な日本仏教界において、大乗仏教を「ブッダ本来の教えからの逸脱」として強く批判する言説は異彩を放っている。
 因縁論を根幹に据える仏教の立場から、唯一神・絶対神・主宰神の概念に基づくキリスト教など諸宗教の教えを明確に否定している。
 他宗派の仏教とも交流をしており、大乗仏教の寺院でも講演や瞑想会を行っている。また戒壇として認定を受けた地も禅宗や曹洞宗の寺院から提供を受けている。

 釈尊の説かれた本来の仏教は、信仰をともなう宗教ではなく、心を育てるための方法論であると主張している。
 スマナサーラ長老は「初期仏教長老」と紹介されるが、日本では上座部仏教を部派仏教の中の一部派(分別説部)と表現することが多い。ただし英語圏では分別説部(Vibhajjavaada)を初期仏教(Early Buddhism)の一学派と表現することは珍しくない。
(Wikipedia)



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