中越戦争をめぐって


 ボクにとって、人類の歴史的発展の中で社会主義や共産主義がどのような役割を果たすのか、そのことが大きなテーマであるが、だからといって、神や信仰を一刀両断の下に切り捨てるという立場に組することはできない。貧困や差別のない均等に分配された社会構造の実現が、人類の課題であるとすれば、愛・慈悲・神・死について人間生活の根源的真理を解明することも、人類にとって避け得ぬ大きな課題である。

 ところでボクは、中央公論に載った吉本隆明の「中越戦争」についてのインタビュー記事に、少なからぬ衝撃を覚えた。

「そこで、社会主義国は覇権を主張するはずがないとか、国境問題で争うはずがないとか、そういった社会主義が与えてきたイメージの何が現実に通用するのか、あるいはそのイメージが実現される可能性があるのはどこなのかといったら、現在の世界の先進的地域‥‥

 つまり、アメリカ、西欧、アジアでいえば日本ですね、いろいろ違う要素はありますが、そういう先進国でマルクス思想による革命が起こるかどうか、起こった時にはじめて問題となり、マルクス思想にとっての試金石の問題があらわれるだろうと思います。そのときマルクスの思想と、実現形態の可否が問われるでしょう。

 しかし、マルクスの思想が前提としている近代国家以前の、アジア的特質を多く残存させた国で政治革命が起こり、そのあと近代国家へ向う社会革命の過程で、国家的な利害の衝突や国家間紛争や戦争が起こって現代のような、さまざまな矛盾が発生しても、それはマルクスの思想とは関係がないし、マルクスの思想はいっさい責任を問われる理由がない。ぼくはそう理解しています」(中央公論 昭和54年5月号)

 ボク自身、吉本の盲従的信者ではないが、彼に何らかの示唆を期待したのは事実であった。だが彼の口から出た言葉は、ボクを断崖絶壁から突き落とすようなものだった。彼は何故、このような白々しいことを平気でしゃべるのか。

 吉本隆明が親鸞について
「親鸞は時の現在状況、その時代の信仰や理念が当面している問題に対し、きわめて適切鋭敏にそのつど対応しています。(中略)とにかく眼前に直面するさまざまの問題に、ひとつひとつ対応してゆくそういう力が親鸞にあって、それが親鸞の思想になっています」とか「やはり親鸞の思想は、日本の思想家の中で自分の言葉をもっていたといえる、ほとんど唯一の思想だったのではないかと思います」(宗教と思想のはざま)

と評するのであれば、彼自身が、中越戦争というマルクス主義の真価が問われる場面において、何らかの積極的発言をすべきではなかったか。ボクにはそれが残念でならない。


(1980)

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