マルクス・日蓮・親鸞・道元


●マルクス
 マルクスが登場し、マルキシズムが形成されていった歴史的背景を考慮する必要があるだろう。宗教が民衆に対し、過酷な労働を強いる資本主義体制の構造的欠陥から目をそらせ、それを個人的な魂の救済に転化させる阿片の役目をしていたことは、マルクスの目にはなんとも歯がゆかったであろう。

 マルクスにとり、文化、芸術、宗教、精神、情緒などは二次的なものでしかなく、社会的存在が意識を決定するというのがマルキストの基本的立場であった。 マルキシズムが支持され、共産国が地球上に存在しているのは、それなりの歴史的必然性があるのかも知れない。だがしかし、唯一のイデオロギーを絶対視し、生産至上主義をとる共産国が、どうして人間性豊かな社会生活を実現できるのだろうか。

 それに、もう一点付け加えるならば、共産国の全体主義的権力構造である。階級闘争を目差す軍隊組織であれば、それも当然であるが、革命という大義名分の下にすべてを正当化させてしまうという体質は、方向を間違えると、とんでもないことになる。それにマルクス、レーニン、毛沢東などを神格化し、絶対視していることにも注意しなければならない。


●日蓮
 日蓮は、単純素朴に「法華経」を信じ、それを行動に移した。その意味では非常に純粋で情熱的な人物だったかも知れない。
 では、そもそも「法華経」とはどういう教典なのか。日蓮の法華経崇拝を解明するためには、中国の仏教思想家で、天台宗を起こした智覬(ちぎ)にまでさかのぼらねぱならない。

 中国では仏教が伝えられて以来、おびただしい経典が流布するようになっていた。その中には中国産の偽経もあり、これらの無数の経典を整理し、価値判定をする必要性が生まれた。これを教相判釈というのであるが、彼はここで「五時八教」という理論をうちたてた。彼は、華厳、阿含、方等、般若、法華という5つのグループにすべての経典を分類し、それを釈迦の一生にあてはめようとした。

 つまり釈迦は、最初の説法をしたが、難解であったので(華厳部)、分かりやすい小乗の教えを説き(阿合部)、徐々にその教えを否定し(方等部)、次にすべてに通ずる教えを説き(般若部)、最後に心に秘していた真実の教えを説いた(法華部)というのである。これによって法華経こそ最高の教えであり、他のものは法華経を説くための準備段階、方便の教えに過ぎないとした。そして、八教の説で独自の価値判定を行ない、結局「法華経」が最高の価値を有する経典であると結論付けたのである。しかし、これはインド思想の厳密な文献学的研究に基づくものではなく、単に自己の宗派の優越性を正当化するための護数論に過ぎなかった。

 この辺の事情を「地獄の思想」から引用してみよう。

「のちに日蓮が、まさにこの説(五時八教)にもとづいて、『法華経』のみが釈迦の正説であり、他は異端邪説であると大獅子吼した。日蓮の情熱はたしかに偉大であり、彼の知性も当時としては最高の知性であったかもしれない。しかし今、天台智覬の説をそのまま信じた日蓮の説をそのまま信じ、『法華経』だけが釈迦の正説とし、もっぱら他の教説を仏説にあらずと排斥する宗教集団があるのは、どうしたことであろう。私は、その宗派がみずから考えるように、自己の宗教が科学と矛盾しない宗教であるならば、五時八教の説を捨てたほうがよいと思う。五時八教を捨てても、まだ『法華経』崇拝、日蓮崇拝は成り立つのである。知性と情熱がみごとに統合された宗教のみが、真に歴史を動かす力となるのである。」(梅原猛「地獄の思想」)
 
 また渡辺照宏は、日蓮思想の危険性を説き、我々に警鐘を打ち鳴らしている。
「日蓮宗系統の新興疑似宗教団体には単に個人の救済を標榜するものが多いが、日蓮正宗の外廓団体である創価学会はこの宗派をもって日本の唯一の国教と定め、他のすべての宗教の禁圧を目標とするものであるから、日蓮の国家主義の現代版ともいえる。‥‥日蓮ないし日蓮の流れを汲む人々の考え方は、自分の宗派を国家権力と結びつけ、思想や言論の統制を図ろうとするものであるから、この点、注意すべきである。」(渡辺照宏「日本の仏教」)

 「最も保守的なのは革命に成功した革命家である」というのは言い古された言葉であり、このことは歴史の中におびただしい証例を見つけ出すことができる。唯一のイデオロギーを旗印とする独善的集団は、常にファシズム(全体主義・独裁政治)に転落する危険性をはらんでいるのである。

 特に他宗を「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と激しく糾弾する日蓮宗は、仏教でありながら最も仏教らしからぬ宗派であろう。逆説的に言えば、日蓮はそれだけ勇猛果敢に政治改革に関わろうとしたという証左であって、自己の思想が公認されなければ一層先鋭化するしかなかった。

 しかし、この日蓮の壮絶な生きざまが現代人の魂を揺り動かす。明治の社会主義者幸徳秋水が「日蓮は予が平生最も崇拝する所の一人である」と説き、キリスト者内村鑑三が、日蓮をまれにみる純粋な精神をもった代表的日本人としてほめたたえるのが、その好例である。それに、現代の仏教系の新興宗教がほとんど日蓮系(創価学会・立正佼成会など)というのもこの事情を如実に物語っている。

 最後に日蓮思想の可能性を示唆した文章を引用しておきたい。

「日蓮の仏教の中には、仏教が本来もっている、明るく力強い、活気にみちた面があらわれている。このような面を切りすてて仏教を解釈するのは、仏教を、いたずらに、活気なきもの、陰気なもの、力弱いものとしてしまうことになるのである。日本人は長い間、あまりに長い間、仏教を活気なきもの、陰気なもの、力弱いものと解釈してきたのである。この活気ない、陰気で、暗い仏教のイメージから、仏教を救い出さねばならぬ。この陰気な暗闇からの脱却なしに、仏教の復興は不可能である。太陽の仏教者、日蓮の思想の正確な意味を知らねばならぬ。」
(梅原猛「仏教の思想」角川書店)


●親鸞 
 親鸞の生涯を辿ってみて、人々はどのような感想を抱くだろうか。妻帯やわが子を義絶する事件を見せつけられれば、たとえ彼の思想が偉大なものであれ、日常生活のいい加減さに我慢できないだろう。
 だが、その反面、非常に人間性にあふれた人物だったとも言えるのではないか。あの時代に思想や教義という奇麗事を離れて、人間性の奥に潜む煩悩を素直に見つめ、その煩悩と共に生きたのであった。

 それでは、親鸞は念仏思想に対して、どのような関係にあったのか。法然が念仏思想を理論化したとすれば、親鸞は、悪人正機説を身をもって実践しようとしたのである。自ら悪人となり、肉食妻帯を宣言した。もっとも、大部分の僧は、平気で破戒の行動をとっていたのであるが、彼はどこかに心苦しさがあったのだろう。このような苦悩の日々を送る彼にとって、念仏思想はまさに救いの神であった。親鸞は、これまでの沈滞したムードを吹き飛ばすかのように、無我熱中で念仏布教に打ち込んでいったに違いない。

「それゆえ、この阿弥陀さまの本願を信ずるためには、他の善をなす必要は毛頭ありません。ただ念仏すればいいのです。念仏以上の善はほかに,ありませんから。また、あなたがかつてなしたであろう悪業や、いま現にこれからするであろう悪業をおそれる必要はありません。この阿弥陀さまの本願を妨げる以上の悪はありませんから」(歎異抄・第一条)

「だから、善人ですら極楽へ行くことができる、まして悪人は極楽へ行くのは当然ではないかと、なくなった法然聖人が仰せられたのも、深い理由があってのことであります。」(歎異抄・第三条)

「『歎異抄』は、親鸞の弟子が親鸞のことばを収録したものである。ところがここに収められている親鸞のことばが、ほとんど法然のことばにも見出せるので、『歎異抄』は法然のことばを収録したものであるという説がある。それほど親鸞のことばは法然のことばによっていたのである。たとえば、親鸞の手紙をみると、親鸞は法然のことばを典拠として、彼のことばを展開していることが知られる。」(松野純孝「親鸞」)

 しかし弥陀の本願が、非実在的な架空の存在である限り、人々はそれをどのようにも解釈することができた。それに、釈迦以来の厳しい戒律を否定したため、現実生活における検証の方法も途絶えてしまった。また当時の社会不安、末法思想の浸透は、念仏解釈を増々複雑怪奇なものにしていった。法然や親鸞は、死ぬ間際まで絶え間ぬ形而上学的論争(異解)と闘わねばならなかったのである。

「親鸞の教えた念仏の救いは、悪人正機なのだ、いや善人正機なのだ、一念往生こそ正しいのだ、いや多念こそ親鸞の教えた念仏の救いなのだ、といった争いが親鸞のいない関東の念仏者の信仰をゆさぶっていた。そのほか、念仏の救いは自力だ、他力だ、有志だ無念だ、悪を思うだけ行なうのが弥陀の心にかなうのだ、諸神諸仏を否定するのが正 しい念仏者の姿なのだ、賢善精進こそ理想の念仏者の姿勢なのだ。まさに、親鸞の教えた念仏をめぐって、正統と異端が渦巻いていたのが、親鸞の去った後の関東であった。親鸞が関東に住んでいてさえ、さまざまな異端が生まれたのである。まして親鸞のいない関東の念仏者の間に起った正統と異端の争いの熾烈さは、想像を絶するものがあったろう。」
(笠原一男「親驚」)

「無住は、専修念仏者たちが次のような乱行をしていたと記している。悪人にだけ救済の光がさし、善人には光がささない摂取不捨曼陀羅を流行させたり、念仏の経典である浄土三部経以外の諸経典を河に流したり、念仏の阿弥陀如来以外は、すべて用なしとして、地蔵の頭で蓼草すりしたり、『法華経』を河に流したり地蔵の目をすりつぶしたり、地蔵が阿弥陀如来のそばにたっているからというので撤去したり、地蔵は地獄にいる菩薩であるから、地蔵を信ずるものは地獄に堕ちると言いふらしたりしていた。(中略)法然門下では最もラディカルであった一念義では、次のような振舞いをしていたという。出家の僧のように袈裟を着用してはならない。俗人のように直垂(ひたたれ)を着よ。性交とか肉食を断ってはならない。鹿とか鳥の肉を食べたいだけ食べよ。罪を怖れるは本願を疑うことである。」(松野純孝「親鸞」)

 親鸞という人物に対して思うのは、あの時代に、いかなる権威にも屈せず精一杯生き抜いた一人の人間の、壮絶な生きざまである。恵信尼との夫婦生活、異解との戦い、権力との闘争、晩年における精力的な著作活動、わが子善鸞への義絶、そのどれもが激烈な戦いであった。彼にとって、気の安まる時間は一時としてなかったことであろう。その意味で、親鸞の波乱に富んだ生涯は、現代人に深い共感を呼び起こす。


●道元
 道元の生涯を省みて感じることは、汗を流した後に飲むピールのようなスカッとしたさわやかさである。混乱した時代にあって、彼はひたすら純一な仏法を求め続けた。インドにこそ行かなかったものの、中国に留学し、当時としてはでき得る限りの学問と修行を積んだ。世俗社会との安易な妥協を拒否し、その徹底した本質志向は、我々に一種のすがすがしさを呼び起こす。しかし、彼が長い求道の未見い出した究極のものは、決して難解な哲学理論ではなかった。それは、一言で表現するなら「只管打坐」(しかんただ‥‥ただ坐る)という単純素朴なものであった。

 道元が天台宗の一修行者として学んでいた頃、先ず疑問に思ったのは「どのような人間にも生まれながらに仏性が備わっているのであれぱ、何故あえて苦しい修行をせねばならないのか」というものだった。
 この疑問を解決するため、道元は建仁寺で数年間禅を学んだ後、中国へ留学する。そこで、道元は何を学んだか。阿育王山の老典座との対話でも見られる通り、知識偏重の自己反省であり、同時に修行の場としての日常生活の再認識であった。後年、道元は帰国時の心境を次のように語っている。

「中国で、多くの寺々を訪れたというわけでもなかった。ただ、たまたま天童先師にお目にかかり、そのときに、目は横に、鼻はまっすぐということを悟った。当り前のことを、当り前のことと知っただけである(眼横鼻直なることを認得して、人瞞を被らず)。すなわち、空手で故国に帰ってきた。だから、仏法などというみやげは何もない。云々」(山崎正一「正法眼蔵随聞記」)

 では「眼横鼻直」(がんのうびちょく)という言葉の背後に、どのような意味が隠されているのだろうか。増谷文雄は「新しい仏教のこころ」の中で、この文章の意味を解説している。

「経典の文字や、思想の体系を学んで、それが仏教であると思い込んでしまったならば、それは人瞞をこうむっているのである。儀式や作法をいとなんで、これが仏教のいとなみと思い込むのも、人瞞におおわれているのである。あるいは、ひとえに仏像、舎利をあがめて、これが仏教であると思い誤るのも、人間のまどわしをこうむっているのである。と、そこまで詮じつめてみると、結局は、人生のあるがままのすがた、行往坐臥、喫茶喫飯をほかにして、どこにも仏教という特殊のものはなかった。」(増谷文雄「新しい仏教のこころ」)

 そして道元との出会いをしみじみと述懐している。
「わたしが、いくたびとなくアッというような思いをした、その最初の経験は、道元との出会いであった。さきにも申したように、わたしは浄土宗の寺に生まれたのであるから、わたしにとっての最大の課題は、念仏とか、往生とか、あるいは本願というようなことであった。だが、そのような課題は、なかなか解決の手がかりがつかめなかった。そして、仏教そのものの考え方について、まず、『おまえの考え方はちがっているぞ』と教えてくれたものは道元であった。」(増谷文雄「新しい仏教のこころ」)

 道元の思想は、常にそのような力をもっている。何百年と経て歪曲され、変形されて現在に至った仏教思想に疑問を投げかけた時、彼の言葉は、一挙に我々を人間にとっての本源的視野にまで呼び戻し、精神と肉体との単純な図式を眼前に広げてみせるのである。
 道元自身にも、夜空をながめながら、仏教の教えや自分自身の生き方について悩み、悶々とした日々を送ったことがあったのかもしれない。しかし、いつまでも「つらい、悲しい」と鳴き事を言ってたんでは始まらない。 

 形骸化した教義や理論の空しさを悟り、すべてを投げ打って、本質に立ち返ろうと決断する時、そこで初めて自分自身と出会うのである。そしてすべては、自己の端的な事実性から出発する以外にない。ではその事実性において、なお与えられているものは何であるか。それは、精神の客体としての肉体である。身体である。自分の身体が気に食わぬと言ったとごろで、魂と肉体とを分離できるはずもない。腹が減れば、飯を食うしかない。また一日に数回、体内の排出物を放出しなければならない。誰に教えられたのでもない。それは自然の道理である。

 道元が、我が身にまとわり付いた人為的虚飾を一枚一枚脱いでいって、最後に見い出したもの、それが、たぶん「身体」であったのだろう。しかし、それはただの身体ではなかった。それは、仏性を具有する身体であった。

 この道元の問題意識に応えたのは「禅」であったが、日本の禅では満足できず、より純粋な禅を求めて中国に留学し、「坐禅こそ釈尊に直結する唯一最高の道である」との確信を得た。これはまた、教義や教理に対する修行の優位を主張するものであった。

「悟りの道を学ぶ上で最も重要なのは、坐禅が第一である。大宋国の人が、多く、悟りを得るのも、みな坐禅の力である。文字一つ知らず、学才もなく、愚かな鈍根の者でも、坐禅に専心すれば、長い年月参学した聡明な人にもまさって、出来あがるのだ。したがって、悟りの道を学ばんとする者は、ひたすら坐禅して、ほかのことに関わらぬようにせよ。仏祖の道は、ただ坐禅あるのみだ。ほかのことに、従ってはならぬのだ。」(随聞記・6−24)

「‥‥端座参禅を正門とせり。この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。」(正法眼蔵・弁道話)

 道元のこのような透徹した本質主義・原点回帰の思想は、当然のように既存の諸宗派に対する厳しい批判となって表われた。

「また、なんじは、読経や念仏をつとめることによってうる功徳というものを、知っているであろうかどうか。ただ舌を動かし、声をあげるだけで、それが仏事のいとなみであり、それで功徳があるのだと思ったならば、まったく取るに足りない。それが仏法かというならば、それは仏法からはなはだ遠く、いよいよ遥かである。‥‥ただひまもなく口から声を出しているところは、まるで春の田の蛙が昼も夜も鳴いているようなもので、結局なんの益もない。」(正法眼蔵・弁道話)

「仏教の理論をあげつらう宗派においては、いろいろの名目をたて法相をかたるのであるが、なお大乗至極の教えを説く宗派においては、正法、像法、末法をわかつことはない。修すれぱみな仏道をさとりうるという。」(正法眼蔵・弁道話)

「世間の人は多く次のようにいうものだ。『道を学ぶ志はあるのですが、何といっても末世で、人間も劣っており、私の生まれつきの能力も劣っている。法に従った修行に堪えられませぬ。ただ分相応に、易しいやり方にしたがって、仏道に縁を結び、生まれかわった後の世で、悟りを開きたいと思います』と。
 さて、言うが、この言葉は、まったく間違っているのだ、仏法に、正法と像法と末法という区別を立て、釈尊の時代から時代が降りるにつれて世が悪くなり仏法が次第に行われなくなるというのは、衆生教化のための仮りの一つの方便としての説にすぎないのだ。真実の教えは、そんなものではない。教えにしたがって修行するなら、誰にも悟りは得られるとしたものだ。(中略)みなめいめい、すでに心をもっている。心があるなら、よいわるいを分別することができよう。手も足もある。合掌したり歩行したりして修行するに、もうそれで充分ではないか。仏法を行ずるに、素質のよいわるいは問題ではないのだ。」(随聞記・5−8)

 何と痛快な言葉だろう。修行をするのに末法であろうとなかろうとそんなことは問題ではない、と力強く宣言する道元に、思わず拍手を送りたくなる。
 こうして道元は、どれがニセモノでどれがホンモノか皆目見当もつかない仏教界の混乱状態を打開するため、釈尊に直結する純一の仏法をもって、すべてを判然とさせようとした。そして、この仏教改革の先例を中国の達磨大師に見い出している。

「中国は、かえりみますと、後漢の明帝の永平10年(67)に初めて仏法が伝わってから、達磨大師の渡来まで、すでに5世紀にわたって、思想仏法、哲学仏法、経典仏法、注釈仏法、議論仏法というようなものが、中国全天下に弘まっていました。けれども、どれがホンモノやらどれがニセモノやら、どれが仏教にとって真に根本的なものであるか、それとも枝葉のものであるか分からなかった。そこに祖師達磨大師がインドから中国にこられて、ズバリその葛藤の根源をたち切られた。そうしてはじめて『純一の仏法』が弘まった。」(秋月龍民「道元入門」)

 以上のように、道元は釈尊正伝の仏法を一心に求めたのだが、それにもかかわらず道元という人物の厳格さのためか、どうも一般には人気がないようである。これに比べて、日蓮や親鸞の人気はどうだ。その理由は問うまい。だが人が、まどろみから解放され、ひとたび仏法の源流を探究しようと決意するなら、おそらく道元の思想を避けて通ることはできないだろう。


(参考文献)
梅原 猛「地獄の思想」中公新書
渡辺照宏「日本の仏教」岩波新書
梅原猛の「仏教の思想」角川書店
「創価学会入門」聖教新聞社
笠原一男「親驚」NHKブックス
松野純孝「親驚」評論社
梅原 猛「歎異抄」講談社文庫
渡辺照宏「仏教」岩波新書
吉本降明「論証と喩」言叢社
古田武彦「わたしひとりの親鸞」毎日新聞社
今枝愛真「道元」NHKブックス
山崎正一「正法眼蔵随聞記」講談社文庫
増谷文雄「新しい仏教のこころ」講談社現代新書
増谷文雄「現代語訳・正法眼蔵」角川書店
秋月龍民「道元入門」講談社現代新書


(1980)

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