宮沢賢治と法華経


 宮沢賢治は浄土真宗から改宗して法華経を信仰し、同時に国柱会に入会して信仰布教に努めた。ボクはこの事実を知った時、正直いって驚いた。「雨ニモマケズ」を書いた賢治が、法華経の信者であったとは思いもよらなかった。「銀河鉄道の夜」という童話集の解説の中に次のような文章がある。

「宮沢賢治の童話ほどふしぎなもの、美しいものを、わたしは文学の世界のなかでほかに知らない。キャロルの物語も、あるいはカフカの小説も、出所不明の、というのはつまり天才の、まがうかたないしるしを帯びているが、賢治のそれは、透明な心のひろがりと、比類のない感覚の力によって、それらとはまたちがった次元にある」

 これがおそらく、多くの人々が抱いている賢治のイメージであろう。しかし、彼の詩集や童話がいかなる文学的価値を有するものであろうと、ボクにとっては、彼が法華経の信者であったことに言及しない訳にはいかない。そして残念ながら「銀河鉄道の夜」の中には決定的な文章が見える。

「おまえは化学をならったろう、水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはだれだってそれを疑やしない。実験してみるとほんとうにそうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぷんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれぱ、もう信仰も化学と同じようになる」

 この文章を読むと、日蓮主義者の熱狂ぶりがオーバーラップしてくる。彼等は、法華経が唯一絶対の仏法であり、それがいかに科学的で合理的な宗教であるかを、それぞれ勝手な理屈を付けて証明(科学的に)しようとしている。「その実験の方法さえきまれぱ、もう信仰も化学と同じようになる」という宮沢賢治の真意が、どこにあるのかは知らない。だが、このような科学(化学)と信仰との短絡的結合は、いかにも日蓮主義者らしい独善的発想であると言わざるを得ない。

 宮沢賢治は、仏教の基本的知識を全く持ち合わせていなかったのだろうか。それとも彼の信仰は、世俗的な思想論争をはるかに越えたところで成立していたのだろうか。宮沢賢治における童話の純粋性と排他的・独善的な日蓮思想との共存は、我々に信仰のもつ不可解さを一層つのらせる。


(1980)

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