吉本隆明ファン


 現代の書店はまるでデパートである。マンガ、絵本、写真集、美術全集、週刊誌、月刊誌、新書、文庫、ハウツー物、専門書などが所狭ましと並べられている。そして、その本を大勢の人がわき目もふらずに見入っている。ボクなどはこの光景に接すると、自分自身を見失ってしまいそうな心細い空虚感におそわれる。と同時に「これらの人々は、どういうつもりで本を読んでいるのだろう?」と、ちょっと考えてしまうのである。「ヨーロッパ病気見舞」という本の中に、大変おもしろい文章がある。

「私の友人でフランスのさる大学の教授をしている男がいる。あるとき、その男の講座に一人の日本人留学生が加わった。フランス語も堪能だし、いかにもできそうな青年だった。ところが、はじめての期末試験の答案を見て、私の友人は目を疑った。日本人留学生の答案には、彼の教えたことが一言半句の違いもなくびっしりと書き込まれていたのだ。友人は、しかし慎重だった。

 彼はその学生を招き、その答案がフランスの大学教育の目的からすると零点に値することを告げ、学生が何か勘違いをしているのではないかとたずねたのである。実際、その通りだった。日本の大学だったら、学生は満点だったのである。私の友人は、日本人留学生にフランスの大学の教育目的を簡単に告げた。『ここでは、知識が最も重要なのではない。物の考え方が重要なのだ。視野を広げ、教養を高めるには、きみがどのように考えるかが必要なのだ』」
(ポール・ボネ「ヨーロッパ病気見舞」ダイヤモンド社)

 「自分はどう考えるのか」という問いを机の隅に追いやり、単に知識のための知識を求めることは、詰め込み主義の戦後教育の影響だろうか。

 ここから必然的に生まれてくるのが、権威への隷属である。過酷な受験戦争を脱出した学生にとっては、未体験のありあまる自由が不安でたまらず、その解放感と虚無感から絶対的権威によりかかろうとする。具体的に言えば、ある一部の若者の場合、その権威は「吉本隆明」であった。

 彼等にとって、それはもう論理性を介在させない「吉本数」と化している。吉本を批判しようものなら、軽蔑の目でにらまれる。しかしそうは言っても、彼等は論理的に反論してくるのではなく、「アンタはどれだけ吉本を読んでいるんだ」といったヤクザまがいのオドカシに過ぎない。大体そんな反論しかできないというのも、吉本信者でありながら吉本の思想をてんで理解してはいないのである。その証拠に吉本のことを質問しても、彼等は終止口をつぐんだままで、何ひとつ発言しようともしない。吉本ファンなら、率先して彼の思想を解説するべきではないか。

 彼等にとって「理解する」とは、身も心も捧げることのようだ。しかし、「批判する」というのも「理解」の一過程ではないのか。迂余曲折を経て、一歩一歩進んでいく以外にどんな方法があるというのか。どのような批判も許さず吉本を神格化しようとすることは、結局、吉本の思想を殺すことになることを彼等にはわからないのである。次に、吉本信者の一面をとらえた文章があるので引用しよう。

「伊藤 ぼくはいま北大文学部に勤めているのですが、ぼくの演習に出席している学生に、こんど吉本さんと対談するために東京に出張すると話しましたら、そいつはすごい、と眼を輝かしているのですね。哲学科に入ってくる学生には、きまって熱狂的な吉本ファンがいるのです。自分の本は読まないで、吉本さんの本ばかり読んでいる。(笑)

 ところが、そういう連中に論文を書かせると、ものごとを感覚だけでつかまえていて、つまり、どこかまちがったところで吉本さんの影響を受けているのですね。最近、興味をもっていくつかエッセイを拝見しましたが、吉本さんご自身は非常に論理的な一面を持っていらっしゃる。たんなる詩人的直観でものごとを一挙につかまえようというのでなく、きびしい思索によって彫琢された論理構造がある。そこのところが少しも青年たちにはわかっていないのですね。(中略)

吉本 ぼくの場合だけではなく、だれの場合でも、それはなかなかむずかしいことだと思いますね。

伊藤 そうかもしれません。しかしそれはご自身にも責任があることではないだろうか。たしかに、吉本さんはきびしい拒絶の瞬間には純粋に思想を生きることができるかもしれない。(中略)学生たちにはその純粋さが魅力だ。青年の気質がそれにごく幼稚なしかたで共感する。しかし大人になるにつれて、それだけでは不満になってくる。なにかの組織に自分をしばりつけなかったら、なにひとつ意味のある政治行動をすることができないという政治のメカニズムといったものが自然とわかってくるからです。

 そうなると、拒絶の無党派的革命ということではついていけなくなる。けっきょく、吉本さんの思想は未成熟な青年の感傷的な共感というかたちでしかうけとめられなくなる。吉本ファンの学生に論理性がないというのは、そのへんのところに原因があるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。」
(「吉本降明全著作集14」勤草書房)

 ボクは、吉本の思想についてどうのこうの言っているのではない。各人は、それぞれ好きな本を読めばよい。吉本だろうと何だろうと、何を読むかは本人が決めることだ。余計な口出しをする気は毛頭ない。ただ言っておきたいのは、「本に読まれるな、本を読め」ということである。雑多な「知識」に血を通わすことができるのは、各人の「生きる」ことへの情熱でしかない。この視点を欠落させては、自分自身の殻を突破する創造的エネルギーをついに見い出し得ないだろう。

 本を読むのは結構だが、権威に迎合し、単に知識をひけらかすだけの「もの知り」にはなって欲しくない。


(1981)

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