ゴキブリ並の命


 我々はともすれば仏教思想の一面、つまり、台所のゴキブリや犬猫にも人間と等しく仏法の生命が宿っているんだという面しか見ようとしない。これは裏を返せば、人間の生命だって虫ケラ並の価値しかないんだということである。

 台所の片隅で人間の手にかかって名もなく息絶えていく哀れなゴキブリにも宇宙の大きさに比するほどの崇高な生命が宿っているのだと表現すれば、仏教思想とはなんとスケールのデカイ、雄大な思想だろうと感嘆させられる。

 だがこの思想は、ゴキブリホイホイを考案した人間の思い上がりに対して「お前達の命だって、ゴキブリと同じなんだ。お前達が『人間ホイホイ』(核兵器)によって殺し合いを演じ、地球上に無数のしかばねをさらしても誰も悲しむ者はいない。地球は宇宙の法則に従って運行し、春が来、夏が来、何ら変わることはない」とゾッとするようなことを説くのである。
 たまたま次のような文章を見つけた。

「アジアは一つなり‥‥とは岡倉天心の有名な命題であるが、わたしは、アジアにおいて人間の生命は虫ケラ並の価値しかないことにおいて、アジアは一つ、なのだと考える。このことを教えてくれたのは、アメリカの侵略・占領に抗議して焼身自殺をとげたベトナムの僧侶の火焔に包まれた、その姿であった。そして、アメリカのベトナムにたいする無差別爆撃であった。

 アジアに生まれた宗教は、虫ケラにも生命があり、その生命を尊重しなければならないことを教える。そのとき、虫ケラを尊重する主体は人間であるが、この教えは、人間が高いところにたって、虫ケラに手をのばし、いわば“動物愛護”的に、かれらの生命を尊重せよ、といっているのではないのだとおもう。人間がもともと虫ケラと同類だから、虫ケラの生命を尊重するまでのことである

 アジアには、人間の尊厳、などというものはない。尊厳などというものが、もし、あるとすれば、あるのは、虫ケラの尊厳である。」
(中央公論・昭和54年5月号)

 「虫ケラの尊厳」とは面白い表現だが、こういう価値観の違いは、どこに原因があるのだろうか。
 例えば「ことばと文化」(鈴木孝夫・岩波新書)という本の中で、著者は東西の動物観に言及している。ここで著者は、「残酷」という言葉が種々の民族や文化においていかに異なった意味をもつものであるかを、犬(家畜)に対する日本人と西欧人の対処方法について「捨犬 対 安楽死」という対比において明らかにしようとしている。

 本書によれば、イギリス人(一般に西欧人)にとって家畜とは、人間が完全に支配すべきそれ自身自律性をもたない存在である。つまり、人間のために利用する隷属的存在であるから、家畜を飼育する人間がそれに関わる一切の責任を負うことになる。不用な犬や回復の難しい病気にかかった犬を自分の手で殺すのは、飼い主としての当然の義務なのである。だから日本人のように犬を捨てたりすると、人間としての責任をはたしてないと非難する。一口に言えば、徹底的な人間中心的動物観なのである。

 しかし、ここで注意しなければならないのは、家畜を隷属視していると言っても、それは虐待的使役を意味しているのではない。家畜は家畜として尊重されなければならないのである。例えば犬や馬は、イギリス人にとっては友達同様に扱われているという。日本人は平気で馬肉を食べるが、驚いたことにイギリスでは、馬肉を普通の肉屋で売ってはいけないという規則までちゃんとあるという。

 これほどイギリス人は、馬に対して特殊な感情を抱いているのである。これは犬に対しても同様であって、人間の友人として尊重されるよう、どの犬も実に良く訓練されているらしい。

 それに反し、元来日本人は、犬、猫のような動物を人間の完全な支配下に位置するものとは考えていない。日本人も家畜をペット・運搬・食肉に利用するには違いないのだが、家畜が人間にとってどんな位置を占めるかという見方がまるで違う。日本人にとって、犬はそれ自体自由な自律的存在なのである。

「日本人にとっても、飼う以上は主人の意のままになり、言うことをきく犬は、都合がよいにきまっている。しかしこれは人間の側の希望であり期待であって、そうさせることが主人としての人間の犬に対する義務であり責任だと私たちは思っていない。まして、そのように犬を躾け扱うことが犬の幸福にも通じるなどという、犬にとって或る意味では迷惑千万な人間主体の立場は元来日本人にとって無縁のものだったのである。」

 そして、著者は宗教的理由として「キリスト教は周知の如く動物には魂を認めないが、日本人の古来の宗教は、アニミズムやシャーマニズムの要素が強く、そこに加重された仏教には輪廻の思想もある」と説明している。

 こう考えると、日本人とさまざまな動物との心暖まる交流を想像する。このような見方は一面正しいに違いないが、この裏には以外な事実が存在していた。というのは、日本人にとって動物は「四つ足」と総称され、それは「けがれたもの」であった。インド人が牛を食べないのは牛が神聖だからであって、中世の日本人のように「けがれている」から食べないのではなかった。

 古来の日本人の動物観は、「畜生」という言葉に象徴的にあらわれている。現在でも「チクショー」という言葉は、相手をののしる場合に使うが、国語辞典でこの「畜生」という項目を開けば、日本人がこの言葉にいかに怨念を込めていたかがわかるだろう。

 この原因は、やはり日本人が農耕民族であったことが大きいのだろう。特に「米」に対しては、特別な感情を抱いてきた。何しろ昔の日本人は、「ゴハン粒の一つ一つには観音様が宿っておられる」といって一粒も無駄にしなかったらしい。

 このような生活意識をもつ日本人には及びもつかないことだが、「日本人とユダヤ人」によると家畜を神聖視する牧畜民にとっては、屠殺はなんと祭司の聖なる務めだったという。牧畜民にとっての祭司の務めが、古来の日本においてけがらわしい仕事と嫌悪されていたというのは全く驚くほかない。

 だがその反面、日本人には家畜を扱う職業上の差別があったが、牧畜生活を全く経験しなかったため奴隷制度がなかったという。
 最後に「日本人とユダヤ人」から興味深い話を引用しておきたい。

「私は戦前、ある山伏(だと思う)の儀式を参観したことがある。台つきの大きなおわんのようなものに、たきたての御飯を山盛りにする。その時の説明では、この湯気を八百万(やおよろず)の神々に送るということであった。私には非常に興味深かった。というのは昔のユダヤ人に同じような儀式があったからである。

 それは石をつんだ壇の上に薪を高くつみ、その上に子羊を殺して丸ごと横たえ、火をつける。そしてその『香ばしい煙を天に送る』のである。一方は湯気、一方は煙だが、同じ考え方であり、羊と米は、このように、同じようにあつかわれているのである。」(日本人とユダヤ人・角川文庫)


(1981)

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