キリスト教の実像


 2001年9月のアメリカ同時多発テロ以来、ずっとキリスト教のことを考えている。同時多発テロが何故おきたのか。どうして世界がこうなってしまったのか。アラブ人のアメリカへの憎悪、イスラエルとパレスチナの対立、キリスト教によるユダヤ人虐殺…。その原因は、キリスト教の歴史の中に隠されているように思う。

 しかしマスコミなどでは、この点に関する議論が少ないのではないか。欧米に対して遠慮があるのか、もしくは今更論じてもどうなるものでもないのか。そこでボクなりにキリスト教の疑問点をいくつかあげてみたい。

●ユダヤ教からキリスト教へ
 キリスト教は、欧米先進国が信じる宗教であり、政治的文化的に世界に大きな影響力をもっている。宗教としての世界標準といってもいい。ブッダの誕生日(花祭り)は知らなくても、イエスの誕生日(クリスマス)は誰でも知っている。クリスチャンでなくてもクリスマスツリーを飾り、ケーキを食べるのである。こんなに親しまれているキリスト教であるが、人々はその真の姿を知っているだろうか。

 ボクは昔、宇野正美の「ユダヤが解ると世界が見えてくる」(1986)という本をきっかけとして、一時反ユダヤに傾いた。しかし、その後、宗教や歴史の本を読んでいくうちに、次第に考えが変わった。単的に言えば、今日のさまざまな問題を引き起こした原因は、キリスト教およびキリスト教徒であり、問題にすべきは、ユダヤ教ではなく、キリスト教だということである。宇野正美の本はたくさん出版されているが、このことに気付いて以来、彼の本は読まなくなった。

●イエスは霊能者か
 イエスがどんな人物だったか、歴史的にはほとんどわからないという。聖書を読んでも人それぞれ立場によってイメージが違うだろうが、例えば次のように考えられる。

 どんな病気でもたちどころに直す、ナザレのイエス(前4?ー後30?)というユダヤ人の霊能者がいた。(福音書には、イエスが悪霊を退治する話しがごまんと出てくる)多くの患者を治療するうちに、人々はいつしかイエスをキリストと信じ込むようになった。(活動期間はわずか2〜3年と推定されている)しかしイエスの言動は、ユダヤ教の反発にあい、捕えられて処刑された。35才前後であった

 福音書を読むと、イエスには、悪霊を追い払う霊能者的部分と、魂の救済を説く宗教者的部分が混在しているが、これらを同一人物がもっているとは現実的に考えにくい。前者は、論理を超えた霊力が必要であり、後者は、論理的、哲学的思考力が必要だからだ。一般的に霊感は男性より女性が強く、霊能者も女性が多い。イエスが霊能者として活躍する福音書の記事は、はなはだ疑問だ。

●イエスはメシア(救世主・キリスト)か
 ユダヤ教におけるメシアは、宗教的指導者であるとともに、政治的指導者でなければならなかった。しかし、カイザル(ローマ皇帝)に税金をおさめるべきかとの問にイエスは「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と答え、ローマ支配からの脱却を願う民衆の期待を裏切った。その意味で、政治的抑圧からの解放を説く救世主のイメージからはほど遠く、単に個人的問題に関わる霊能者的イメージが強い。イエスを反ローマの政治的リーダーと見る見方もあるが疑問だ。エジプト脱出を成し遂げたモーセの業績とは雲泥の差がある。

 イエスに信奉者がいるということは、確かにユニークな人物であったに違いないが、それだけのことだ。特別大きなな政治活動をしたわけでもないし、戦って壮烈な死を遂げたわけでもない。そんな人間がなぜ救世主となれるのか。

 おそらく、当時イエスのような人物は何人も出現したであろうし、ユダヤ教を誹謗した罪で死刑になる人間も大勢いたであろう。その中でなぜ、ナザレのイエスがメシア(キリスト)とされるのか、ユダヤ人には悪い冗談としか思えなかっただろう。ユダヤ人は「すべて狂信的メシア運動は自滅するだろう」と考えていたようだ。
 少なくともモーセを超える奇跡を起さない限り、ユダヤ人はメシアとは認めないだろう。

●イエスを殺したのは誰か
 ローマ提督ピラトがユダヤ人に迫られてイエスを処刑したというが、夜に逮捕され、翌日が裁判、翌々日がに処刑というのは、ユダヤの裁判規定では違法らしい。処刑の許認権がローマにあったのでピラトが直接命令を下したに違いないということだ。

 しかし、ローマが国教としてキリスト教を認めるようになると、イエス処刑の責任がローマにあるのでは困るので、「ユダヤ人が処刑させた」というすり替えがおこなわれたという。

●人間は神になれるか
 キリスト教とはどんな宗教か。それは、他の教祖(ブッダ、孔子、ムハンマド)と比べるとよくわかる。イエス以外は、人間であり、予言者にすぎないが、イエスは神なのである。神であるからこそ、処女懐胎によって生まれ、死後に復活した。今日の科学的常識では、とても考えられないことだ。単に素朴な神話としてなら、受け入れられるが、キリスト教徒は、聖書を神の声とし、イエスが神であることを事実として認めているのだ。

 三位一体説というのも、理解しがたい。なぜ、神、イエス、聖霊が一体なのか。強引にこじつけたとしか思えない。他の宗教と比べるとキリスト教がいかに特異な宗教であるかがわかる。

●キリスト教は誰が造ったのか
 間違っていけないのは、イエスがキリスト教の基本的教義を考えたのではない、ということだ。イエスはただユダヤ教に反抗し、処刑されたに過ぎない。

 キリスト教に世界宗教への道を開いたのは、ユダヤ人のパウロだった。イエスの死、十字架、復活の意味を新たに解釈し直し、「罪のあがない」という基本的教義にまとめ、律法宗教から救済宗教へと生まれかわった。それは同時に民族宗教から世界宗教への転換だった。
 ユダヤ側から見れば、ユダヤ教はもともと実践的な道徳を説く宗教であったが、パウロはそれを独善的な洗脳集団へと変質させたと言える。

●なぜ外国(ギリシャ、ローマ文化圏)に布教できたのか
 キリスト教はユダヤ内部に留まっていたならば、消滅していたかもしれない。初期伝道に成功した地域は、主として当時のローマ帝国内の商業中心地だった。これらの大都市には離散した多くのユダヤ人が住んでおり、ユダヤ的地盤のあるところにキリスト教は根をおろしやすかった。ユダヤ人のおかげで外国の布教に成功したのだ。

●なぜ聖書に旧約が必要なのか
 キリスト教の聖書は、旧約と新約とからなっており、旧約はユダヤ教の教典である。手元の聖書をみると全ページ数の76%が旧約、新約は24%である。しかし、ユダヤ教の教典をまるまる横取りしておきながら、ユダヤ人に敬意を払うどころか、彼等を迫害するとはどういうことか。同じ様にユダヤ教の影響を受けたイスラム教は、しっかりと自前のコーランを持っているではないか。

 イエスを教義の中心にするなら、聖書に旧約は必要ないはずだ。キリスト教側にプライドがあるなら、ユダヤ教から完全に独立すべきだろう。

●なぜユダヤ人を迫害するのか
 ユダヤ人はイエスという人物を生み、キリスト教の教義をつくり、布教に協力したにもかかわらず、ユダヤ人には「キリスト殺害者」のレッテルがはられ、神の子イエスを殺した以上、死の報いを受けても当然だとされた。ユダヤ人はただ自分達の宗教を信じているだけなのに、とんだトバッチリを受ける羽目になった。

 たとえユダヤ人がイエスを処刑したとしても、同じユダヤ人を犯罪者として処刑したにすぎず、他国から責められる理由はないと思う。

●ユダヤ人の迫害の歴史
 ローマがキリスト教を国教と認めてから、ユダヤ人への本格的な迫害がはじまった。
 ローマ帝国によって幾度も弾圧されたキリスト教であるが、一旦国教に認められると、国家権力と手をにぎり、キリスト教の異端や他の宗教を粛清するようになったのである。その後、ローマ法王は絶対的権力をもつに至り、中世を通じ狂信的宗教国家をつくりあげた。ユダヤ人への迫害は、民衆の不満をそらすハケ口として政治的に利用された。

 中世には、土地の所有は認められず、多くのユダヤ人は、商業に携わるしかなかった。一部は最も軽蔑される「金貸し」として成功した。
 十字軍によるユダヤ人への襲撃をはじめ、迫害は中世を通じてやむことがなかった。各国は次々にユダヤ人追放令を出し、魔女狩りや異端尋問でも無数のユダヤ人が虐殺された。

 フランス革命(1789年)とともにユダヤ人解放が始まるが、19世紀後半、ナショナリズムの高まりとともに、東ヨーロッパでは再びユダヤ人迫害(ポグロム)が始まった。ここに登場したヒトラーは、ゲルマン民族の優秀性をとなえ、劣悪な民族であるユダヤ人を撲滅しようとした。
 ある民族を歴史的に迫害し虐殺することを容認してきた宗教なんてあるだろうか。

●キリスト教団はテロ集団か
 歴史上、世界各地でさまざまな戦争があり、虐殺があった。そのひとつひとつについて死者数や原因を検証することは、難しいかもしれない。しかし、キリスト教徒がユダヤ人に対して行った迫害・虐殺は、世界史において特異なものであろう。それは単なる宗教戦争ではなく、宗教的怨念にもとづき、強者が弱者を一方的に蹂躙する極めて残虐な行為であった。しかもこれが、中世、近世、ヒトラーへと歴史的に連綿と続いているのである。なんと執念深いことか。

 特にヒトラーのユダヤ人迫害は、反ユダヤ感情がキリスト教徒にいかに根強く残っているかの証明であろう。おまけにこの事件は、未開の地で起きたのではなく、ヨーロッパという先進地域で起きたのである。それにしても,なぜそこまで迫害する必要があるのか? 迫害してどうなるというのか? ユダヤ教とキリスト教の歴史を見てわきおこるのは、いつもその疑問である。

●キリスト教は愛の宗教か
 キリスト教は愛の宗教だと思われているようだが、本当にそうだろうか。
 福音書の中で最も古いマルコを読むと、イエスが愛について積極的に発言しているとは、どうしても思えない。律法学者の尋問に答えて、「第一に大切なのは神であり、第二は隣人を愛することだ」と、古来の教えを引用して述べているに過ぎない。大部分は、イエスが病人を直し、悪霊を追い出す話である。福音書にみられる愛、幸福、救いなどについてのイエスの発言は、弟子たちにより追加されたとしか考えられない。

 さらに、キリスト教が愛の宗教というなら、ユダヤ人迫害、十字軍の侵略、魔女狩りの残酷さ、植民地における略奪、旧教と新教の戦争などをどう説明するつもりなのか。この点を見ても、愛の宗教だというのは、教義上のたてまえ論にすぎない。

●神父先頭に、軍艦これにつぐ
 18・19世紀には、宣教師は列強の先鋒としての役割をはたした。アジア諸国にはいりこんだ宣教師の何人かが殺害されると、それを口実に本国政府が戦争をしかけるというのが、欧米諸国の用いる常套手段であった。(高校ベストコース・世界史 学研)

●なぜユダヤ人は生きのびたのか?
 キリスト教徒の迫害にあいながらも、ユダヤ人はしたたかに生き延びてきた。それは奇跡であるともいえる。皮肉にも、ユダヤ人を迫害したことがユダヤ人をきたえ、ユダヤ人の頭脳をますます優秀なものにしていったのである。
 もっとも、キリスト教以前より、ユダヤ人(イスラエル人)は幾度も民族的危機を乗り越えてきたが、そのノウハウの結実したものがユダヤ教なのだろう。

●ユダヤ人の資産はどこに消えたのか
 中世、近世を通じ虐殺や追放にあい、没収されたユダヤ人の財産はどこへ行ったのか。新聞報道によれば、ユダヤ人資産の返還を要求する運動があるという。スイスなどの銀行にはユダヤ人の莫大な資産が眠っているのではないか。ユダヤ人の莫大な資産は、キリスト教徒のふところへ入ってしまった。

●イスラエルは何のために建国されたのか
 イスラエル建国にはイギリスの二枚舌外交など、さまざまな経緯があるが、ヒトラーが現れなければ、イスラエル建国もなかっただろう。そして、キリスト教国は、結果的にユダヤ人問題をヨーロッパから追い出すことに成功した。イスラエルを援助し、アラブ人を極悪非道のテロリストに仕立てあげることで、ユダヤ人問題をパレスチナ問題に転化させたのである。

●アメリカ‥‥文明の衣をかぶった十字軍
 アメリカは文明の最も進んだ国に見えるが、一皮むけば、人々は旧来のキリスト教の教義を盲信しているという。時折、宗教関係のニュースを耳にすることがあるが、信じられないようなことが多い。何年か前にも白人の優位(人種差別)を聖書によって正当化したり、ミリシアという戦闘部隊をもっている、という報道があった。こういう国の若者がキリスト教の伝道のため、世界各国に送り込まれているのである。

●キリスト教は世界を救えるか
 どんな温和な人間でも一度クリスチャンになれば、血も涙もない異教文化の破壊者となる。クリスチャンにとって、イスラム教や仏教や祖先崇拝はとんでもない退廃した宗教なのである。特にプロテスタント(新教徒)は、その名前とは裏腹に、聖書の言葉を神の言葉として盲信する傾向が強いため、大変恐い存在である。そんなプロテスタントの宣教師が異教撲滅という使命に燃え、おもにアメリカなどから世界各地に飛び出しているのが現状である。

 キリスト教国が世界のリーダーである以上、自らの誤りを反省し、異教徒や異教文化に対して寛容にならない限り、世界に平和は訪れない。パソコンのソフトは年々バージョンアップするが、キリスト教徒の頭は中世のままだ。


(2001)

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