空海について
ボクにとって空海はつかみどころのない人だった。
ボクは子供の頃より、母が意味も分からない般若心経を拝むのを見て、とても反感をおぼえた。また真言宗が呪術や祈祷を取り入れているのが好きではなかった。
社会に出て、創価学会員から勧誘を受けるようになり、次第に仏教関係の本を読むようになった。ある本に、密教は呪術を取り入れた堕落した仏教だ、と書かれており、ますます真言宗が嫌いになった。
そしてボクなりにたどり着いたのが「道元」だった。禅はとても哲学的・合理的で、究極の仏教だと思った。また、仏陀の教えに最も近いと思った。(といっても禅の修行を専門的におこなった分けではありません)ボクとしては、これで仏教に自分なりの決着をつけたと思った。
その後、約15年の月日が流れた。年齢的な理由もあるかと思うが、ある時、ふと「真理を悟っても、それをわかりやすく表現し、人に伝えなければ意味がないのではないか」と気づいた。またパソコンの普及もあり、多くのものがビジュアル化(美的表現、芸術的表現)の方向にすすんでいるのを痛感した。
人々が理解しやすいように視覚や感性でとらえられるようにする、ということだが、それはまさに空海が目指したことだった。また空海が、民衆の救済に力を注ぎ、積極的に社会的事業をおこなっていることにも、あらためて感銘した。こうしてやっと、空海・密教の入り口に立てたような気がする。
ある本に、ボクにぴったりの空海の言葉が紹介されていた。
法はもとより言(ごん)なけれども、言にあらざれば顕はれず、
真如(しんにょ)は色(しき)を絶つれども、色を待ってすなわち悟る。(請来目録より)
(仏法の真理は、もともと言葉を離れたものではあるけれども、言葉によらなければ表現することができない。また絶対の真理は色や形を絶ったものではあるが、色や形で表すことによって、それを知ることができる。)
空海から学ぶことはたくさんあると思いますが、これからは自分のペースで、空海の思想・生き方を学んで行きたいと思う。
(2004)
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