人民寺院集団自殺事件



 人民寺院(じんみんじいん、PeoplesTemple)とは、1978年にガイアナで集団自殺を行ったことで知られるアメリカのキリスト教系新宗教。カルトの典型とされる。

「初期」
 人民寺院は1956年に、ジム・ジョーンズ(ジェームス・ウォーレン・ジョーンズ)によってカリフォルニア州サンフランシスコで設立された。「人種差別撤廃」を掲げ、ジョーンズ自身も韓国人と黒人の子供を養子にしていた。当初マスコミでも優れた社会活動家であるという報道がなされ、時代のヒーローとなった。

 そのため、この時期に数多くの有力政治家たちととも結びつきが強くなったとされる。しかし、実際にはジョーンズ自身はその主張とは裏腹に人種差別主義者であったとされ、信者の8割以上が黒人などの有色人種でありながら、教団幹部はすべて白人のみで構成されていた。都市の下層民を収容し、福祉サービスを供給するコミューン(公社)としての性格も有していたとされた。
 しかし、その実態はジョーンズとその一派による独裁団体で、次第に脱退信者やマスコミなどから批判を受けるようになった上にジョーンズも大麻薬物に強く依存し、強迫観念に駆られるようになった。

「ガイアナ移住」
 そこでジョーンズは南アメリカにある、ガイアナへの集団移住を決意する。なお、この頃には極左思想に傾倒し、かねてからジョーンズ自らがシンパシーを寄せていた共産主義の到来を唱えた。
 1973年に人民寺院は、ガイアナ西部のジャングルを切り開き「ジョーンズタウン(Jonestown、正式名称はPeople's Temple AgriculturalProject)」と呼ばれる町を作り上げ、外界と完全に遮断された状況下で自給自足の生活を開始した。その後アメリカから多くの信者がジョーンズタウンに移住した。

「批判 」
 しかし間もなく、「ジョーンズタウン」においてジョーンズらによる信者への暴力事件やレイプなどが多発したことや、信者たちに強制労働が行われているとの噂が立った。

 さらに、信者の子供が無理やり「ジョーンズタウン」に連れて行かれ、まともな教育も提供されなかったことや、これらの状況に嫌気がさして脱退しようとしたもののそれを許されず、実質的な監禁状態に置かれていたこと、ジョーンズの指示で「外部からの侵略」が行われたときに備えて、週1回「ジョーンズタウン」に住む信者に対して、銃を使った軍事訓練を行っていたことなどが、逃亡した元信者や信者の家族などにより伝えられたことから、人民寺院やジョーンズに対する批判が起き、社会問題として大きく取り上げられるようになった。

「レオ・ライアン下院議員」
 これらの動きを受けて1978年11月14日に、アメリカ連邦議会のレオ・ライアン下院議員(民主党選出)と人民寺院の信者の家族、マスコミ関係者を含む視察団が「ジョーンズタウン」を訪れ、ジョーンズら人民寺院の上層部と会見した。視察に先立ってジョーンズが全容を隠匿したため、当初ライアン議員は「ジョーンズタウン」の真実の姿には気づかず、友好的な目で見ていた。

 しかし、数日滞在するうちジョーンズの異様な振る舞い(突然大声で吠え出したと思ったらいきなり涙を流したり、といった異常な人格変換)、隠された区域にこっそり入ったところ、不衛生な小屋にスシづめにされ医者も呼ばれず死を待つばかりの老人たちなど発見、ここでは信者に強制退去させられるなど、教団の異様性に気づく。また、監視の目のないところでは多数の帰国を希望する信者からの訴えを受けたことや、様々な虐待の証拠を発見したことから、11月18日に一通りの視察を終えたライアン議員は、ジョーンズに帰国希望者計16人をアメリカに連れ帰る事を提案。

 実際は恐怖政治による監禁コミュニティではあったが、対外的には「ジョーンズタウンからの出入りは自由」、と標榜していたためジョーンズと人民寺院側も渋々承諾した。

 しかし、ジョーンズタウンを出発時にライアン議員は突然信者に切り付けられた。不安の中、ライアン議員ら視察団と16人の帰国希望者が同日午後に「ジョーンズタウン」近くのポート・カイトゥマ空港に到着し、ガイアナ航空とチャーター会社の小型機2機に分乗して出発しようとする。突然「帰国希望者」の1人が発砲するとともに、人民寺院の信者たちが密林からトレーラーで現れ銃撃を加えた。

 これによって、ライアン議員とNBCテレビのドン・ハリス記者、取材クルーら5人が死亡し、11人が重軽傷を負った。襲撃の模様は至近距離から頭を散弾で吹き飛ばされ、殺害されたカメラマンのボブ・ブラウンにより数秒間ではあるが撮影されており、トレーラーから降りて発砲する信者の姿が確認できる。
 生き残ったパイロットたちはかろうじて小型機1機で飛び立ち、ジョージタウンに到着後、当局に事件の第一報を伝えた。残された負傷者たちは死んだ振りをして信者たちの襲撃をやり過ごしたのち、軍により救出された。

「集団自殺 」
 その後「ジョーンズタウン」に戻った信者たちは、同日午後5時過ぎ、ジョーンズの指示によって、大きな鍋に入ったシアン化合物入りの飲料水を飲むか、シアン化合物を注射して集団自殺を図り、「ジョーンズタウン」で暮らしていた信者の約9割の914人が死亡した。その内の267人は18歳以下の子供であった。

 なお、これに先立って数十回に渡りジョーンズは信者に対して集団自殺の「予行演習」を行わせていた。集団自殺の模様を録音したカセットテープが残されており、ジョーンズは、ライアンら「一部の嘘つきたち」の訪問によってこれ以上教団での生活が不可能になったと主張し、信者たちに対し、これは「革命的自殺」であり、「別世界への旅立ち」だと訴えていた。このときのテープは演説、信者達の歌声が鳴り響きながら次々にその歌声が途絶えていき、最後にはまったくの無音になるという恐るべき死の過程を記録したものであり、後にTVでも放送され、全世界を恐怖のどん底へ陥れた。

 死者の中には無理矢理自殺を強要され、300人程度が他殺されたという説もある。実際に生存者の証言では死を拒否した信者は集団で押さえつけられ、無理やりシアン化合物を注射されたり、逃げ出そうとして銃撃され殺害されたものも多数あるという。後の検死で本人には到底刺せない位置に注射の跡があった死体や、背後から撃たれた死体なども多数発見されている。一方で大半の信者が自らの意思で自殺したこともまた事実である。同時にジョーンズも自らの妻子を先に自殺させた上で、自らのこめかみをピストルで撃ち自殺した(検視の結果、ジョーンズの体からは大量の薬物が検出された)。

 なお、この集団自殺の生存者はジョーンズタウンから脱走した167名のみであった。同日夕方にはジョージタウンの教団本部でメンバーのシャロン・エ イモスが自身の3人の子供たちを包丁で殺害後自殺している。
 翌日、事件の知らせを受けたジョン・バーク駐ガイアナ・アメリカ大使の要請を受けてガイアナ国防軍が「ジョーンズタウン」に到着したが、後には死体の山だけが残されていた。この事件による犠牲者は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロまで、アメリカ市民の事件による死亡者数では最大であった。

 この事件の公文書の多くが現在でも非公開になっているが、「人民寺院」はその表向きに標榜していた正義、影響力と資金力から数多くの政治家、政党と結びついており、公表することで多数の政治家が失脚するほどの影響力があったためだといわれている。

『ウィキペディア(Wikipedia)』



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