中越戦争


 1979年に中越戦争が勃発した。中国とベトナムという社会主義国家どうしの戦争であり、世界に大きな衝撃を与えた。「中央公論」誌上においてもさまざまな論争が繰り広げられた。



●1979年5月「ナポレオン的発想による国境破壊……グリュックスマン」
 −あなたは、マルクス主義は反=植民地主義運動のイデオロギーとしては一定の有効性を持ちえたという意味のことをおっしゃっていますが、いま問題になっている両国はいずれも、欧米及び日本の植民地主義からまさしくマルクス主義理論を奉ずることによって解放された国なのではなかったのか。

 そこで疑問というのは、マルクス主義を奉ずる両社会主義国家のこのような事態は、彼等のイデオロギー、即ちマルクス主義の徹底化によって招かれたものなのか、それともよく言われるようなアジア的後進牲にその原因があるものなのかということです。

グリュックスマン  そのご質問は、まさしく現在フランスで論じられている事柄の本質をずばり言い当てているもののように思う。というのは、フランスの左翼とこれに属する知識人たちは、一般にこう言っているからだ。たとえロシアや中国に専制主義、独裁主義、強制収容所などがあるとしても、それはこれらの国々の後進性のせいだ、と。

 つまり問題は、信頼するに足る良識あるマルクス主義それ自体にあるのではないのであって、自分たちの平和的で輝やかしいマルクス主義を堕落させたのは、ロシアの農民や中国の百姓たちなのだ、と言うのだ。だから彼らが問題にしているのはマルクス主義ではなく、まさにそれらの国々の後進性にほかならない。それは社会党の党官僚によっても、また共産党の党官僚によっても等しく展開されていることだ…。

 −しかし、この問題は、現在の中越戦争より遥か以前から論じられていたテーゼではないでしょうか。

グリュックスマン  たしかにそうだ。それはドイツの社民主義にまで遡れるものであり、そしてまた反=植民地主義を擁護したあらゆる労働者政党によって擁護されたテーゼでもある。アルジェリアその他の植民地に光明をもたらす行為なのだから、われわれは彼らの反=植民地運動という行為を支持しなけれぱならないといった具合に。

 だからこれはすでに1914年以前の杜民主義者たちのテーゼであったことは明らかだ。しかしこんどの戦争の際、「中国が侵略戦争を行なったのは、彼らが社会主義者だったからではない、十分に社会主義者ではなかったからだ、つまり彼らが遅れていたからだ」といったふうに、フランス共産党では再び取り上げられているわけだ。このテーゼはまた、共産党のリベラル派たちによっても取り上げられ、彼らはロシア人たちがかくもおぞましいのは、マルクス主義のせいではなくて、マルクス主義に反しているからだと、まったく同じことを言っている。

 だが私は、それは逆だと言いたい。ロシアの農民たちは何も自分たちのほうから強制収容所入りしたわけではないし、ロシア革命を組織したのは、実によくものを読み、ロシアに西洋の思想を持ち込んだ常識のある国外亡命者たちだったのだ。このことは、当時すでにドストエフスキーによって指摘されていることだ。だからこそ、この西洋の思想を持ち込んだ人たちが他人を収容所の中に閉じ込めることを考え出したのだ、と。

 そしてその後彼らは、自分たちの仲間をも収容所の中に閉じ込めるようになった。だが、これは何も彼らだけに特有なことというわけではない。フランスにおいても、また日本においても、あらゆる革命集団の中で、革命家たちが互いに仲間打ちをするということは起こり得るのだ。だが問題なのは、彼らが一旦権力を握ると必ず、一般民衆に対してテロを行ない、収容所に閉じ込めてしまうということにある。

 したがって私は、ロシアにおいても、中国においても、またベトナムにおいても、それぞれの奉ずる共産主義の性格は異り、また伝統も同じものではないにもかかわらず、事実上まったく同じことが起こるのだから、問題にされるべきは、やはり、マルクス主義そのものだと考えざるを得なくなるわけだ。

 以上のことをはっきり断った上でいえば、しかし、問題にされるべきはただマルクス主義だけだというわけではない。私が『思想の首領たち』を書いたときに示そうとしたのも、マルクス主義の背後には全体主義があるということだった。換言すれば、マルクス主義は全体主義の特殊な一例にすぎず、たとえばチリの独裁、ブラジルの軍国主義的性格、ヒトラー主義など、この全体主義が別の形をとって現れた例であるということだ。

(中央公論 昭和54年5月号)

●1979年5月「世界史の中のアジア……吉本隆明
 そこで、社会主義国は覇権を主張するはずがないとか、国境問題で争うはずがないとか、そういった社会主義が与えてきたイメージの何が現実に通用するのか、あるいはそのイメージが実現される可能性があるのはどこなのかといったら、現在の世界の先進的地域‥‥つまり、アメリカ、西欧、アジアでいえば日本ですね。

 いろいろ違う要素はありますが、そういう先進国でマルクス思想による革命が起こるかどうか、起こった時にはじめて問題となり、マルクス思想にとっての試金石の問題があらわれるだろうと思います。そのときマルクスの思想と、実現形態の可否が問われるでしょう。

 しかし、マルクスの思想が前提としている近代国家以前の、アジア的特質を多く残存させた国で政治革命が起こり、そのあと近代国家へ向う社会革命の過程で、国家的な利害の衝突や国家間紛争や戦争が起こって現代のような、さまざまな矛盾が発生しても、それはマルクスの思想とは関係がないし、マルクスの思想はいっさい責任を問われる理由がない。ぼくはそう理解しています。

(中央公論 昭和54年5月号)


●中越戦争・1 
 1979年2月17日から約1カ月にわたり、中華人民共和国とベトナム社会主義共和国の間でおきた戦争。中国は、「ベトナムが中越国境地帯で挑発行動をくりかえした」ための懲罰と称して、国境地帯全域にわたってベトナム領に軍隊(中国人民解放軍)を侵攻させた。中国の実際の動機は、78年12月からカンボジアに大量の軍隊をおくりこんで、ポル・ポト政権の打倒にのりだしていたベトナムの動きを牽制(けんせい)することにあったとされる。

 ベトナム戦争中、中国とベトナムは同盟関係にあったが、1972年のニクソン米大統領の訪中以降、両国の関係はしだいに悪化し、78年にベトナムから中国系住民が難民として大量に出国する事態となって、対立は公然化した。ベトナムは、中国の脅威に対抗するためにソ連との関係を強化し、米中接近、中ソ対立を背景として、中越両国は戦火をまじえるまでになった。

 両国の関係は、カンボジア問題に関する和平協定が成立したあと、1991年11月にようやく正常化した。ベトナムからみれば、この戦争は、10世紀にベトナムが中国から自立して以後、中国を統一した国家はかならずベトナムに出兵するという歴史に、中華人民共和国もくわわったことを意味した。また、社会主義国家どうしの公然たる戦争として、アジアにおける社会主義のイメージをわるくし、とりわけ東南アジア諸国の共産党に大きな打撃をあたえた。

(田辺義明)

●中越戦争・2
(概要)
 中越戦争は、中華人民共和国とベトナムの間で1979年に行われた戦争。
 ベトナム戦争(1965年〜1975年)終結直前、ベトナムの隣国カンボジアでは1975年4月にロン・ノルの親米軍事政権が倒れ、1976年1月にポル・ポト率いるクメール・ルージュが政権を奪取し、「民主カンプチア」の成立を宣言したが、間も無く恐怖政治を行うようになった。

 また、ほぼ同時に成立した統一ベトナムとの間では対立が激化し、1978年1月に国境紛争によって国交を断絶した。ベトナムはカンボジアから亡命していたヘン・サムリンたちを支援するというかたちでカンボジアに侵攻し、1979年1月にプノンペンを攻略、ヘン・サムリンによる親ベトナム政権を樹立した。ポル・ポトは密林地帯に逃亡しポル・ポト政権は崩壊した。

 この背景には当時の中ソ対立も絡んでおり、ベトナムにはソ連が、カンボジアには中国がそれぞれ後ろ盾となっていた。そこで中国の?小平は 開戦を決断した。

(戦況の推移)
 1979年2月17日、中国は「懲罰行為」と称して雲南と広西から20万の陸上軍および300機の航空機を以ってベトナムに侵攻した。中国ではこの決定を「對越自衛反撃戦」と呼び、ソ連・ベトナム連合の侵攻を恐れての行動でもあった。

 中国軍は緒戦で中越国境付近の町ランソンを占領することに成功した(記録では次の日から撤退が始まっている)が、実のところ米軍との長年に渡る戦闘で実戦経験を重ねていたベトナム軍は機動力を駆使し兵力を温存しつつ撤退していた。ベトナム軍が反撃を開始すると、旧式の装備で人海戦術に頼る中国軍は大損害を出した。侵攻部隊の主力に人民解放軍の精鋭部隊では無く、装備も訓練も劣悪な民兵や省の兵士が主力として投入されたことが、損害を大きくした。

 一方のベトナム軍は、ソ連からの全面的な支援を受け陸上戦力・航空戦力ともに高い水準を維持していた。中越戦争ではソ連初の本格的な攻撃ヘリコプターであるMi-24が初めて実戦に投入され、中国軍地上部隊の掃討に威力を発揮した。中国では中ソ対立以前のソ連製の兵器をもとに装備の開発をおこなってきたため、装備の面ではソ連製の最新兵器を運用するベトナム軍に敵うべくもなかった。

 中国はベトナム領内の占領都市を徹底的に爆破した後、3月6日から撤退を始め、3月16日撤退を完了した。この戦争で、中国側は戦死2万、戦傷4万の損害(これはベトナム側の主張で中国側の資料は戦死6954人、戦傷1万4800人ほど)を出し、ベトナム側は軍で同程度の損害を出した上に住民約1万が犠牲になった。中国首脳部はこの戦争で人民解放軍の立ち遅れを痛感し、軍の近代化を推し進めるようになった。

ベトナムはヘン・サムリン体制を保護するため、その後もカンボジア駐留を続け、1980年6月には隣国ラオスとタイの国境紛争に介入してタイに侵攻するなど、影響力強化のための軍事介入を続けた。改革開放路線であるドイモイ体制が始まって、1989年9月にようやく撤収した。

( 戦争後)
 中越関係はその後も改善せず、1980年7月と1981年5月に国境で武力衝突を起こした。冷戦終結後はおおむね安定している一方、ベトナムは後に中国に対し「中越戦争の謝罪」を要請したが、「もっと未来志向にならなくてはならない」と謝罪を拒否されている。もっとも、

 中国では一般的に中越戦争を裏切り者(ベトナムは中国の支援のもとで対南ベトナム・アメリカの戦争を戦った)への侵攻と認識され、また旧南ベトナムの経済を支配していた華僑への迫害や、ベトナム難民(ボート・ピープル)が20年以来に渡って香港の深刻な社会問題となっていたため、中華圏でのベトナムのイメージは、中越戦争以降悪いままである。なお、懸案であった国境線は2000年代に入って画定した。

(戦争の背景についての一説)
 ベトナムはかつて漢の交州であった地域であり、中国の一部とみなされてきたが、その後、五代十国の混乱に乗じて呉朝が建国されて独立した。中国歴代王朝は度々その再併合を図ろうとしており、中国はいまだにベトナムを潜在的自国領と見なしているという見方がある。この戦争もその路線の延長上に位置付けられることもあるが、現代においては国際社会から認知されている独立国家を容易に併合する事は不可能に近いため、この説の信憑性は高いとはいえない。

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)



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