産業文明とポスト・モダン  佐伯啓思



 リクルート事件やポストモダンと呼ばれる文化現象を生んだ現代消費社会の風潮をこの本で鋭く批判している佐伯さんが、「僕はいわば保守の立場に立っている」と語った時は面食らった。

 戦後、日本の知識人は革新的、進歩的であることを自認し、誇りとしてきた。この戦後知識人の立脚点を昭和20年代生まれで全共闘世代の佐伯さんがなぜ放棄し、「人間として生きるための絶対的な価値や倫理を想定し、それを守ろうとする」保守の立場こそ社会批判のラジカルな拠点だというのか。

 「近代の知識人がよって立つのは進歩的啓蒙主義です。一切の不合理で根拠のないもの、因習的なものを批判し解体しようとする。なるほど、科学も倫理も入間的主体というような哲学的構築物も確かな根拠などない。『人間』が確かなものでなくなればヒューマニズムは失墜し、『主体』があやふやになれば革命の主体もだれか分からなくなる。こうして近代の進歩主義が自らの思想的装置であるヒューマニズム、マルクス主義、実存主義を自壊させる。無残なパラドックスです」

 近代思想のこの廃嘘のただ中に、思想の自壊作用の一極端な姿として登場したのがフランスのデリダやドゥ.ルーズ、リオタールらに代表されるポストモダンの潮流だと佐伯さんはいう。

 「日本にもデリダやドゥルーズの影響を受け、ポップ調の言説が消費と享楽の対象になっている批評家がいます。徹底的な価値の相対化を主張するポストモダンが、知識のレジャーランド化、ファッション化をもたらすのは必然です。一切の価値の基準を崩してしまった時、読者や聴衆にどれだけ評価されたかのみが思想の正しさの基準になってしまうからです」

 大衆の賛辞を求めてレトリックを競い、その結果、価値の相対主義とニヒリズムをまんえんさせているポストモダンの知識人を、佐伯さんは遠くギリシャ都市国家の職業的な知の遊戯者、ソフィストになぞらえる。そしてソフィストを論破しようとした「究極のソフィスト」ソクラテスの思想に託し、ポストモダン以後の知的戦略を語るのが、本書の最も印象深い個所だ。

 「現代社会のさまぎまな価値や認識に絶対的な根拠がないのは事実。そこでは僕もポストモダン思想に共鳴するし、あらゆる思想が商品として売られる価値の相対化状況の中で、知識人がソフィストのような言論競技者になるのも了解できます」

 価値の相対化は知識の次元だけではない。産業社会は技術革新と新製品一新市場の開拓を通して最も大規模に進歩主義を実践してきた。その挙げ句、マネーゲームと流行が支配し、価値がモノの実体や機能から遊離し、空洞化する高度消費社会が出現した。今やポストモダンは知識人だけでなく経済人をもとらえている。

 「この社会の幾多の抑圧、管理、不平等の解決のために、ポストモダンのようにこれ以上の価値や認識のアナキズムを主張してもだめだと思う。むしろソクラテスのように何が価値か必ずしも分からないが、入間にとって絶対的な価値をどこかに仮構し、それをどうやって求めるか議論し合った方がいい」

 この本は混とんを深める日本の思想状況に向けて放つ佐伯さんのポスト・ポストモダン宣言なのである。

佐伯啓思(さえき・けいし)
 昭和24年奈良市生まれ。東大経済学部卒。滋賀大経済部助教授。5月中旬から一年間、英国に留学。著者に「隠された思考」=サントリー学芸賞、「擬装された文明」「『シミュレーション社会』の神話」など)(「産業文明とポスト・モダン」は筑摩書房刊)

(琉球新報 1989-6-5)


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