沈黙の宗教ー儒教 加地伸行 筑摩書房



 現代の日本で儒教を意識する場面はあるだろうか。儒教と言えば、まず道徳を連想するが、本書は儒教そのものは道徳ではない事実を示し、さらに衝撃的なことに儒教は声高に語らぬ「沈黙の宗教」だと言っている。

 インドで生まれた仏教は中国で受容される過程で儒教の影響を受け、これを取り込まざるを得なくなった。日本の多くの仏教宗派の基層も、つまりはインドの仏教と中国の儒教との2本立てになっているのである。著者は次々と例を示す。例えば墓であるが、、輪廻(りんね)転生を説く仏教にしてみれば本来これは不要なものであろう。インドのガンジス川を見よ。

 しかしながらわが国では、土葬にせよ火葬後の納骨式にせよ、形魄(けいはく)を残しておかなければ、招魂再生のとき困ってしまうと考える。ゆえに墓が必要になってくるのだが、招魂再生は儒教の死生観にほかならない。同様にお盆の行事も儒教流祖先祭事であって、輪廻(りんね)転生を本気で信じているなら魂(意識)が死後にどこへ行こうと平気なはずだ、と著者は言う。

 こうした論の展開から儒教は日本、朝鮮半島、中国の東北アジア地域の深層部をしっかりと結ぶ大文化であるとわかる。そして儒教の道徳とは、宗教であることの基盤の上に立っている点も納得されよう。儒教の宗教性がこの地域に住む人々の感性や死の意識に基づいているなら、その道徳性は個人の幸福から社会の幸福へ共に至ろうとする「共生の幸福論」になるはずだと力説する。

 本書が説得力を持つのは豊富な例と解説によるが、それだけではなく臓器移植や皇室、靖国神社、会社、家族といった問題にまで儒教の根深さを発見しているところにある。著者の語り口はスピーディーで、一種痛快である。儒教が、ここに説かれるように再考される日が来るのか。東アジアの文化圏を考える上で、無視できない指摘が多く認められる本である。

(琉球新報 1994-8-29) 



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