オウム真理教事件



 オウム真理教事件は、1980年代末期から1990年代中期にかけてオウム真理教が起こした事件の総称である。

「概要」
 オウム真理教の教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)が救済の名の下に日本を支配して、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で、外国での軍人訓練や軍事ヘリの調達、自動小銃の密造や化学兵器の生産を行い武装化し、教団と敵対する人物の殺害や無差別テロを実行した。
 一連の事件で27人が死亡し(殺人26名、監禁致死1名)負傷者は6000人を超えた。

 特に注目される事件として、教団と対立する弁護士とその家族を殺害した1989年11月の坂本堤弁護士一家殺害事件、教団松本支部立ち退きを求める訴訟を担当する判事殺害を目的としてサリンを散布し計7人の死者と数百人の負傷者を出した1994年6月27日の松本サリン事件、教団への捜査の攪乱と首都圏の混乱を目的に5両の地下鉄車両にサリンを散布して計12人の死者と数千人の負傷者を出した1995年3月20日の地下鉄サリン事件があげられる。

 被害者の数や社会に与えた影響や裁判での複数の教団幹部への厳罰判決などから、日本犯罪史において最悪の凶悪事件とされている。

「地下鉄サリン事件以降の流れ」
 (強制捜査と教団幹部逮捕)
 1995年3月20日の地下鉄サリン事件発生から2日後の3月22日、オウムの活動拠点である山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)へ目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件の実行犯を逮捕を目的に強制捜査が開始される。その後もオウム関連施設への強制捜査が続けられ、オウム事件の解明が進む。

 その後、岐部哲也(4月6日逮捕)、越川真一(4月6日逮捕)、林郁夫(4月8日逮捕)、石川公一(4月8日逮捕)、新実智光(4月12日逮捕)、早川紀代秀(4月20日逮捕)、遠藤誠一(4月26日逮捕)、土谷正実(4月26日逮捕)、青山吉伸(5月4日逮捕)、井上嘉浩(5月15日逮捕)と続々と教団幹部が逮捕され、取調べを受けて、事件解明が進められた。

 (麻原教組を逮捕)
 5月16日、麻原を逮捕するため、第6サティアン一帯の強制捜査が始まった[1]。現場前線での指揮は山田正治理事官が執った。自衛隊から貸し出しを受けた迷彩仕様の化学防護服に身を包み、完全武装した数百名に及ぶ警視庁捜査員、山梨県警捜査員、また警察の中に化学防護服の扱いに慣れている者が少なかったため、応援としてかけつけた自衛官が一斉に上九一色村に入り、即座に付近一帯を全面封鎖。付近住民を避難させ、サティアン内の捜索を開始。信者の確保、証拠品押収にも全力を注いだが、何よりも麻原の確保を最優先に考え、麻原逮捕に全力を傾けた。

 事前の警察への匿名による密告情報では、「麻原はサティアン内の中二階に引き篭もっている」ということだったので、サティアン内へ捜査員を潜入させ、内部の重点捜索を行った。捜索から数時間後、事前の密告情報による中二階は存在しないことが判明し、捜査撹乱を狙った密告であったと判断した山田に焦りの色が見え始めた頃、サティアン内の隠し部屋に不審人物が横たわっているとの報告が入る。

 この不審人物が麻原であった。捜査員が踏み込んだ際は逃亡する気配すら無く横たわったままほとんど身動きしなかったので重度の身体障害があるのかとも思われたが、現場へ赴いた山田が「麻原か?」と尋ねると「…はい」と弱々しく答え自認したため、その場から表へ出し、9時45分緊急逮捕した。数名の武装捜査員によりサティアンから出された麻原は、警察側の連れてきた医師によって身体に異常が無いか調べられた後、特に怪我も無く異常無しと診断されたので、そのまま警察車両で護送された 。

(ウィキペディア Wikipedia)



目次   


inserted by FC2 system