文芸春秋「マルコポーロ」廃刊



 文芸春秋の発行する月刊誌「マルコポーロ」に掲載された「ナチスドイツによるユダヤ人のガス室虐殺はなかった」とする記事に対しイスラエル政府やユダヤ人団体が抗議していた問題で、同社は30日、マルコポーロを廃刊措置にすることを決め、社内に通知した。

(琉球新報 1995-1-31)



マルコポーロ事件
 マルコポーロ事件(マルコポーロじけん)とは、1995年2月に日本の文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』が、内科医西岡昌紀が寄稿したホロコーストを否定する内容の記事を掲載したことに対して、アメリカのユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センターなどからの抗議を受けて同誌を自主廃刊したこと、及び当時の社長や編集長が辞任解任された事態を指す。この事件は、日本における「歴史修正主義」あるいは「ホロコースト否認論」を巡る状況のなかで、最も広範囲に話題となったもののひとつである。また、日本の出版界の商業主義、過度な広告依存、スポンサーへの過剰萎縮などの議論のきっかけとなった。

 発端は、文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』の1995年2月号に掲載された記事「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった。」であった。記事は国立病院に勤務する西岡昌紀が、アウシュヴィッツとマイダネクに観光に訪れた際に撮影などを行ったのち1989年頃から収集した英文図書に基づき執筆したもので、掲載にあたっての題名は『マルコポーロ』編集部が決めたものであった。
 
 この事件は公権力の強制力を伴う法規性や言論規制ではなく、言論による批判の結果として、あるいは広告収入に過度に依存し萎縮した結果として、言論機関が自主的に廃刊を決定したもので民事裁判にもなっていないため、憲法学上の概念としての「言論の自由」に対する弾圧事件ではなく、正確には「未係争の民事紛争事件」である。

その内容は、ナチス党政権下のドイツがユダヤ人を差別、迫害したことは明白な史実としながらも、
1. そのナチス党政権下のドイツがユダヤ人を「絶滅」しようとした、とする従来の主張には根拠がない
2. その手段として使用されたとするガス室は、それらの位置や構造からみて、ソ連もしくはポーランドが戦後捏造した物としか考えられない
3. 戦後、連合国軍が押収したドイツ政府文書から判断して、ナチス党政権下のドイツが「ユダヤ人問題の最終的解決」と呼んで企図した計画は、ソ連を打倒した後、ヨーロッパのユダヤ人をロシアに強制移住させるものだった
4. 収容所でユダヤ人が大量死した真の理由は、ガス室による処刑ではなく、発疹チフスなどによる病死である
などというものであった。

 この記事を掲載した『マルコポーロ』1995年2月号が発売されたのは1995年1月17日で、阪神大震災が起きた日で震災報道に覆い隠されていた。また国内の多くの識者は、記事の内容そのものがニュルンベルク裁判におけるナチス戦犯と連合国による証拠と弁論に基づく判決と戦犯処刑によって決着した戦後処理事案の蒸し返しにすぎないと受け止め、話題性がないとして沈黙を守った。

 雑誌発売を受けて直ちに、アメリカ合衆国のユダヤ人団体とイスラエル大使館が、同誌を発行する文藝春秋社に抗議を開始した。特にサイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)が内外の企業に対して、週刊文春をはじめとする文藝春秋社発行雑誌全体への広告出稿をボイコットするよう呼びかけた。ただしイスラエル大使館はSWCは終始一貫してマルコポーロの廃刊は求めていない。この事態により事件の話題性とニュースバリューは高まり、マスコミや識者から事件が注目され、言論界や国民各層から記事への批判や文芸春秋への抗議が寄せられるようになった。

 『マルコポーロ』編集部は、当初、抗議団体に反論のページを提供するなどして記事事実の撤回と謝罪を拒んでいたが、結局、文藝春秋社は『マルコポーロ』自体の自発廃刊と社長・『マルコポーロ』編集長ら雑誌編集・発行に対して責任のある人々の解任を決定した。
執筆者の西岡や木村愛二などホロコースト見直し論者はこの決定に抗議を展開した。また、歴史認識と言論の責任をめぐって広範な議論が起こった(廃刊抗議者が論ずるようなナチ賛美はヨーロッパでは犯罪と定義されている)。

 また、この事件をきっかけとして、過度な広告収入への依存に対する反省や出版社のスポンサーからの自立についても議論が広がった。

(Wikipedia)



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