ブッダ、大いなる旅路


●仏教の原点に帰ろう
 仏教に関心があるが、仏教関係の解説書は難しい、といった感想をもっている人は案外多い。また、たくさんの宗派に分かれているので、どの教えが正しいのか迷ってしまうケースもある。こういう時、一番いい方法は、ゴータマの原点に立ち返ることだ。

 仏教の難しい哲学思想はゴータマの死後、数百年以上たってインドや中国でつくられたのであるから、取り敢えず無視していい。宗派も関係ない。◯◯宗が最高の教えであるというのは、信者獲得のセールストークにすぎない。つまり中国経由の仏教を飛び越して、ゴータマが説いた原始仏教に直接触れることだ。そこには難しい仏教用語はなく、やさしい誰にでもわかる言葉でゴータマの教えが語られている。

 1998年に放送されたNHKスペシャル「ブッダ、大いなる旅路」は、まさに仏教の原点に焦点をあてた好企画であった。

●なぜ仏像が造られるようになったか
 どういう経緯で仏像ができたのか、長い間疑問に思っていたが、その答えが「ブッダ、大いなる旅路」で放送された。
 インドではゴータマの死後500年間、仏像は造られなかった。それは「自分の姿をおがんで何になる」というゴータマの教えを守ったからであった。人々は、法輪や仏足石としてゴータマを象徴的に描いた。紀元1世紀頃、インド北西部のガンダーラで仏像が造られ始めたが、これにはクシャーン帝国の成立が大きく関与していた。

 ウズベキスタンのクシャーン族(騎馬民族)は、紀元1世紀頃南下し、インドのガンダーラ地方に侵入した。そこでは、想像を絶する殺戮の嵐が吹き荒れた。仏教側の資料によれば、数億人の住民が殺されたという。ここにゴータマに救いを求める切実な欲求が生まれた。ある経典の中には「ブッダの姿を見たい、ブッダの声を聞きたい」という切なる願いが記されている。人々の心を癒すためには、どうしても仏像が必要であった。

●日本の仏教は死者のためのもの
 日本の僧侶は、とりたてて社会的活動はせず、ただ葬式で生計を立てているが、もともとゴータマは弟子に「葬式や遺骨にかかわるな」といましめていたのである。私もこのことは本で読み知っていたのだが、映像で見たことはなかった。ところが「ブッダ、大いなる旅路」では各地の葬式の様子が紹介されていた。

 そこでの仏教は、単に死者のためのものではなく、日常生活の中で生きており、とても感銘を受けた。放送の中で「葬式にかかわるな」というゴータマの言葉が何度も引用されていたが、それは日本の僧侶への痛烈な告発なのだろう。現在社会は物質的には豊かになったが、精神異常・精神疾患が急増している。オーム真理教を例にとるまでもなく、人々は心のよりどころを求めて暗中模索しているのが現状である。日本の僧侶はこの現実に背を向けていて、いいのだろうか。

●タイの仏教
 タイは仏教国であり、人々の日常生活の中に仏教が生きている。ここに仏教の本来の姿を見ることができる。日本のような死者のための仏教を見慣れた者にとっては、驚きでさえある。どうしてタイではこのような仏教が行われているのだろうか。そこにはひとつの歴史的転機があった。

 19世紀、タイにも植民地化の波が押し寄せてきた。イギリスは、インド、ミャンマーを、フランスはカンボジア、ベトナムを植民地とし、タイに迫ってきた。その時、キリスト教の宣教師は次のように言った。
「タイが遅れているのは、迷信に満ちた仏教を信じているからだ。国を発展させるなら、キリスト教を信じなさい」

 この言葉に反発した国王ラーマ4世は、仏教改革に乗り出した。そして迷信をそぎおとし、純粋な仏教を作ったのであった。結局タイは、イギリスとフランス両国の緩衝地帯という役目もあり、植民地とならず、独立を保ったが、この時行った仏教改革は歴史的に大きな意味があった。


(おまけ)

●仏教の創始者を何と呼ぶか
 ブッダのことを何と呼んだら良いのだろうか。日本ではいろいろな呼び方があり、一定していない。釈迦、釈尊、ブッダ、ゴータマ・ブッダなどがある。ブッダとは、悟った人の意味であるから、固有名詞として使うにはふさわしくない。やはり「釈迦」という名が一番親しみやすいかな。

ブッダ=目覚めた人、悟った人(固有名詞ではなく、普通名詞)
ゴータマ・ブッダ=パーリ語(古い仏典)の呼び名、ゴータマは「最も良い牛」の意味
ガウタマ・ブッダ=サンスクリット語
シッダッタ=ゴータマ・ブッダの名、「目的を達成した人」の意味
シッダールタ=サンスクリット語
釈迦=釈迦族出身に由来する呼び名
釈迦牟尼(しゃかむに)=釈迦族の聖者、ムニは聖者
釈尊=釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)の省略形、世尊は先生の意味

●ゴータマは医者だったのか
 ゴータマがある町で、子供をなくした女性に出会った。名はキサー・ゴータミーといい、死んだ子供を抱かえながら、生き返る薬を求めて歩きまわっていた。そこでゴータマは言った。
「その子を生き返らせる方法はある。まだ一度も死者を出したことのない家から、けし(白いからし))の実をもらってきなさい」

 彼女はゴータマの言葉に従い、一軒一軒尋ね歩いているうちに、死者を出していない家はないことに気付き、正気にもどったのである。
 このエピソードは、ゴータマという人物をよくあらわしている。あくまでも現実の出来事を筋道をたてて、やさしく明解に相手に理解させようとするのである。これがイエスであれば「あなたの信仰が子供を救った」といって、子供を生き返らせるだろう。この場面のゴータマを医者とすれば、イエスは祈祷師か呪術師だろう。

●花まつり
 仏教徒にとって大切な行事に4月8日の花まつりがある。名称だけでは、海洋博記念公園や奥武山公園などで毎年開催されるフラワーフェスティバルと勘違いされそうだ。正式には釈尊降誕会、あるいは仏生会と言う。クリスチャンにとってのクリスマスに当たるが、残念ながら仏教が多い割には、クリスマスの方がはるかに広く親しまれている。

 花まつりの名称の由来は、今から2500年前のインドでお釈迦様がお生まれになった時、折しも4月は花の盛りで、見事な花園の中で産声をあげられたことから来る。甘茶をかけるのは、この時、空から祝福の甘露の雨が降った、という故事に由来する。花まつりの行事が一般家庭の中まで浸透しなかったのにはいろいろ理由もあろう。勿論、僧侶の努力不足が問われるとして、仏教の場合、一言で13宗56派といわれる程、数多くの宗派に分かれ、必然的にそれぞれの宗租(空海、親鸞、日蓮など)の方に重みがかかっている事もあろう。

(心を広く 名幸俊海 護国寺住職 琉球新報1994.5.16)


(1998)

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