宗教は、奇蹟にはじまり政治で終わる


松澤正信(ジャーナリスト・宗教研究家)

■はじまりは奇蹟
 宗教の多くは、奇蹟からはじまり政治に終わる。なぜ奇蹟から出発するのか。答えは簡単である。最もコストがかからないからである。さらに奇蹟は、教団というほどの組織も、規模も必要としない。しかも、宗教家になろとする教祖や伝道者は、そのときはまだ若い。野心があり、力が漲っている。そのわりに評価は低いか、ないしは皆無なのだから、奇蹟が起こらないほうが不思議なくらいだ。

 そうして、ひとたび奇蹟を起こしたならは、少なくとも何人かの熱心な信者や信徒が生まれる。奇蹟によって、信仰の恩恵を具体的に得た彼らは、たとえ「物取り信心」などといわれようと、けっしてひるみはしない。何しろ、実際に「よいこと」があったわけだから、これほど強いものはない。また、それを率直に語りさえすれば、もうそれだけでそうとうの説得力を持ち、強力な布教となる。
 かくして、「信者が信者を生む」段階へと入り、「宗教の組織化」が進む。奇蹟が組織化され、教団が形成されるわけである。

 ここまでお読みになったあなたは、きっとキリスト教をイメージしておられるだろう。もちろんこれはキリスト教にもあてはまることである。しかし、キリスト教の場合は、ローマ国教になったあとに、政治に深く関わり世俗化したことへの反省から、中世の修道院文化を誕生させている。また、ローマ教皇が全ヨーロッパ君主の上に君臨したあとにも、そのことを反省して新しい展開を開始している。

 そうして、「奇蹟にはじまり政治に終わる」サイクルを、何度も上手に繰り返し、スパイラルに発展し続けているのだ。「宗教の政治化」がある程度進んだところで、それを「創造的に破壊」し、「いままさに消えんとする伝統」に命を吹き込み、教団を再聖化するということを繰り返しているのだ。

 だから、キリスト教について語りはじめると、この公式がはてはまらなくはないのだが、話がややこしくなる。仏教となれば、キリスト教よりも少なくとも500年は古いのだから、さらに話が複雑になり、ユダヤ教とイスラームについては、別な意味で話がややこしくなる。
 ユダヤ教はイエラエルをつくったし、イスラームもいくつものイスラム国家をつくった。「奇蹟の組織化」「宗教の政治化」は、そこまでいったのである。

 しかも、とくにイスラームなど、イスラム法をイスラム国家における憲法よりも上位において、イスラム国家を、世俗国家と理念的にも対立させている。
 ゲイやホモ、レズをはじめとする性の頽廃、飲酒、小中学校における銃撃事件など、アメリカこそ世俗的な腐敗の極致を示すエリアであり、悪魔の国だというわけである。

 (中略)
 
■サイババのトリック
 2002年12月31日、恒例となったビートたけしの年末特番「世界はこうしてダマされた、禁断のウラ側大暴露・超常現象マル秘ファイル3」で、世界に5000万人の信者を持つといわれるいるサイババがとりあげられた。
 この番組で、サイババ宮殿の専属カメラマンが撮影したVTRをもとに、彼の得意とする「物質化現象」のトリックを暴いたのは、「世界最強の超能力バスター」といわれているマジシャンのジェームズ・ランデイであった。

 ジェームズ・ランディは、番組取材班が持ち込んだVTRを見て、「これは、トリックですね」と、即座にいった。
 サイババ学校の少年たちがサイババを取り囲んでいて、そのなかのひとりが「白いかたまり」をサイババに渡すのがVTRのスロー画面で、たしかに見て取れた。それは、灰を固めたものであり、サイババはそれを指でつぶしながら出しているだけだと、ジェームズ・ランディはいう。「それにしても、ヘタですね」とも。

 ここに登場するサイババは、1918年にボンベイのシルジ村で没した聖者サイババの生まれ変わりを自称する「聖者サイババ」である。世界中に5000万人の信者がいるというのは、おそらくほんとうであり、ジェームズ・ランディの指摘が真実ならば、たったそれだけのことで、宗教の世界では、ここまでのことが成し遂げられるということである。
 
■宗教ビジネス
 古今東西、すべての教団は、最初は小さく、信者も弟子も少ない。満足な宗教施設もなければ、資本もない。そこで、多くの場合、「奇蹟」から出発することになる。その最初の「奇蹟」が嘘であった場合でも、その宗教は存続するのだろうか。逆に言うならば、百年、二百年、あるいは数百年、千年を超えて存続している宗教の最初の「奇蹟」は、本物だったといえるのだろうか。

 私はその答えを得ていない。だが、たとえ嘘の「奇蹟」から出発しても、その教団はある程度まで大きくなるとは、いえそうである。その場合、教団を経営する側はビジネス感覚であろうが、信徒、信者の側は、通常の信仰と少しも変わらない。
 宗教ビジネス……、それはきわめて悲しい、背筋が寒くなるような言葉である。
 
(別冊歴史読本「世界を揺るがす宗教団体」新人物往来社 2003-9)



目次   


inserted by FC2 system