日本の仏教


 日本の仏教は今や完全に「葬式仏教」となってしまった。

 大半の人は仏教の基本的な知識もなく、ただ形骸化した儀式を行っているに過ぎない。 仏教側も「葬式仏教」(檀家制度)で生計が成り立つので、仏教を改革していこうという気概が全くない。日本人の精神史を貫いてきたのは仏教であるが、なぜこうなってしまったのか。

 日本の仏教史を振り返ると、聖徳太子が国家建設に積極的に仏教を取り入れ、平安時代には最澄・空海が活躍し、鎌倉時代には民衆の救いを説く新しい仏教がうまれた。江戸時代には幕藩体制に組み込まれるが、仏教文化が庶民に浸透した。

 しかし、明治になると、欧米に対抗するため国家神道(天皇を現人神と説く)がつくられ、神仏分離令が発せられて廃仏毀釈がおきた。 

 戦後は、戦前の「天皇制」が否定され、政治的・教育的には宗教色を排除することが要求された。また欧米によるキリスト教化策も、幸か不幸か失敗に終わった(天皇家が存続しているからか?)。 国民は信教の自由を得たものの、宗教をタブー視する傾向が続いている。

 しかし高度成長期を過ぎ高齢化社会を迎える今、国民の間には精神的な空洞化・空虚感が広がりつつある。日本人は宗教意識が低いわけではないが、日本人としての精神の拠り所を喪失しているのではないか。
 今こそ仏教がたちあがらねばならない時だが、現在の仏教にその余力があるのだろうか。


《日本の仏教…今こそ「現代宗教」への変革を》

 仏教の本質はその「現代性」にある、と言ったら驚かれるかもしれない。
 「葬式仏教」と揶揄(やゆ)される仏教は、現代の問題にはまったく関心がなく、「抹香臭い」ばかりだと思っている人は多い。しかし、こうやってまとめられた大河のごとき仏教の潮流は、実はその時代その時代には、時代の最先端であり、前衛的な「現代思想」であった。

 バラモン教に支配された保守的なインド社会に彗星のように現れ出たのがブッダその人であり、彼を支持したのは伝統にとらわれぬ新興資本家たち、いわばベンチャ一の人たちだった。

 また日本に仏教を定着させた聖徳太子はまさに新時代の日本を創造した「前衛」の人そのものだし、最澄や空海も時代のスーパースターだ。その後仏教が比叡出にこもって保守化し民衆に届かなくなると、法然は山を下りる決断をし、親鷺、道元、日蓮といった個性あふれる鎌倉仏教のスターたちが生まれてくる。

 寺も決して葬式の場だけではなかった。寺子屋などの「学び」、医療や福祉の「癒やし」、芸能や娯楽の「楽しみ」といった、庶民の生活に密着した多面的な場が寺だったのであり、そこからさまざまな機能が奪われて「葬式、法事」のみになってしまったのは、たかだか明治時代以降のことなのである。

 しかし、いま日本仏教にもようやく再生のきざしが見え始めた。最近出版した『がんばれ仏教!』で私は現代によみがえる魅力的な寺を紹介したが、地域の福祉の中心を担ったり、国際ボランティアの拠点となったり、若者のアートの場となったりと、大活躍の寺が増えてきた。「教え」という「言葉」だけの仏教ではなく、同時代を生きる私たちが結び合い、支え合う存在であるという、「縁起」と「慈悲」を体現する仏教への変革の道がそこにある。

 弱肉強食の度を強める社会において、私達の「弱さ」と「苦悩」に真に向かい合うことで救いをもたらす仏教が、今こそ「現代宗教」となることが求められているのである。

(東京工業大助教授・上田紀行)


▲仏教とは
 釈迦(尊称は「釈尊」)が2500年ほど前にインドで教えを説き興った。釈迦の入滅(死)後120年ほどして、インドを初めて統一したアショーカ王が入信して以来、仏教はアジアを中心に広まった。
 その後、釈迦の教えをめぐる理解の相違から多くの部派(グループ化された教団)に分裂した。紀元前後に生まれた大乗仏教が、シルクロードなどを経て中国に伝わり、朝鮮半島を経て6世紀に日本に伝えられた。

 現在では世界の仏教徒は約3億数千万人ともいわれ、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教に次ぐ、4番目の規模を持つ。人間の苦悩の解決の道を教えることに本質があるが、教典は無数にあり、世界中にさまざまな形の仏教がある。

▲日本仏教の歴史
1.伝来
 インドで起こった仏教は、67年に中国(後漢)に伝来。その後、384年に朝鮮半島の百済(くだら)に伝わり、百済の聖明王によって538年にわが国にもたらされたとされる。

2.仏教興隆期(6世紀末〜7世紀):聖徳太子による仏教の普及
 仏教は、身分制度や部族制度を超越した普遍的な教義がその中心。仏教を受け入れるということは、氏姓制度に立脚した豪族連合政権である大和朝廷を中央集権国家へと変革する目的があった。
 国家体制の現状維持を主張した「排仏派」の物部(もののべ)氏に対し、蘇我(そが)氏は世界の政治潮流に乗るため、中国の後ろ盾がある仏教の導入を訴えた。

 蘇我氏勝利の後、593年に聖徳太子が推古天皇の摂政(せっしょう)になると、607年に小野妹子(おののいもこ)を最初の遣隋使として派遣し、積極的に中国の仏教を取り入れた。また、太子は大乗仏教の教えを政治的に実践するため、四天王寺、法隆寺などの寺院を建設し仏教を浸透させた。

3.奈良仏教
 仏教は聖武天皇の時代に最高潮を迎え、東大寺を総国分寺として、国ごとに官立の国分寺が建立された。僧侶も国家公務員として扱われる一方、鎮護国家(仏法によって国を守ること)、五穀豊穣(ごこくほうじょう)などの現世利益の実現を求められた。
 また「南都六宗(なんとろくしゅう)」と呼ばれた6つの宗派を中心に仏教の教義研究が行われた。

4.奈良時代末〜平安時代:平安遷都と2大スーパースターの登場
 国の保護で仏教は繁栄したが、多数の寺院への出費のために国家財政は逼迫(ひっぱく)した。桓武天皇は平安遷都(せんと)によって仏教界の刷新を目指した。
 最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)は804年に遣唐使として唐に渡り仏教を学んで帰国。日本人として初めて、最澄は天台宗を比叡山で、空海は真言宗を高野山で開祖し、平安時代の約400年にわたって日本仏教の主流を占めた。

《天台宗》
 日本で興った最初の宗派で、日本仏教の母体となり、比叡山からは多くの名僧を生んだ。「法華経」を根本教典とし「すべての衆生は仏になれる」と説く。
《真言宗》
 永遠の宇宙仏である大日如来を真実の仏とし「大日経」や「金剛頂経」などを教典に、大日如来と一体化して修行を行えば「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」(この身このまま仏になる)できると説く。

5.平安末期〜鎌倉時代:末法思想と新宗教の誕生
 平安末期になると、貴族や庶民の間で仏教の歴史観である「末法思想」によって不安が高まる。末法思想とは、釈迦の入滅した2000年後、仏教の教えがまったく廃れ、修行する人もいなくなり、天災や戦争、虚言などが横行する末法の時代が1万年も続くとする教えで、日本では1052年が「末法入り」の年とされた。

 こうした危機意識の中で、すぐれた仏教家によって新しい宗派が登場し、民間布教が盛んとなり、武士・庶民に開かれた仏教となっていく。
 鎌倉六仏教(浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗)は、平安期の密教や浄土教の複雑な信仰体系を単純化し、民間へ急速に普及させた。浄土宗は「南無阿弥陀仏」をただ唱える。禅宗では座禅に徹する。日蓮宗では「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることに実践が集約された。

(浄土系)
《浄土宗》
 法然が中国の浄土教思想を独自に解釈し、「選択(せんちゃく)集」をまとめて樹立。浄土三部経をよりどころに、ひたすら阿弥陀仏を信じ念仏を唱える「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」をすることで極楽浄土に往生できると説く。
《浄土真宗》
 親鸞が法然の教えをさらに純化し、阿弥陀仏の他力本願を信ずることによってのみ往生成仏できると説く。
《時宗》
 日本浄土教の一派で一遍が開祖。親鸞の教えよりもさらに徹底的にすべてを捨て、阿弥陀仏に任せきることで往生できると説く。「踊り念仏」で浄土信仰をさらに民衆に広げた。

(禅系)
《臨済宗》
 栄西が宋で学び日本で広めた。生まれつき備わっている人間性(仏性)を座禅によって目覚めさせ、人生を豊かにすることを目的とする。政治の新興勢力である武士が禅宗に接近し、栄西亡き後、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が北条時頼の信頼を得て飛躍的な発展を遂げた。
《曹洞宗》
 道元は栄西の系譜で臨済禅を学んだが政治権力との接近を望まず、座禅に打ち込むため1244年に越前に永平寺を開いた。ひたすら座禅に生き、自分の中の仏性を見いだし、この姿こそ仏だと信じることを目指す。

(日蓮系)
《日蓮宗》
 「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目を唱え、浄土教のように来世ではなく、現世で個人も国家も救われなければならないと日蓮が説く。

6.室町時代:鎌倉仏教が整備される
 伝統的な大寺院は、荘園制度の崩壊で勢力が弱くなり、武士階級の支持を得ていた臨済宗が最も勢力を伸ばす。(禅文化の開花)
 後半の下克上の時代は、農民や町民が自衛勢力を形成したが、宗教的結束力によって戦う仏教が生まれた。京都の町衆による日蓮宗・法華一揆や北陸の農民が主役の浄土真宗・一向一揆などが起き、武家社会を脅かした。

7.江戸時代:仏教の国教化・寺請制度
 幕藩体制のもとで、民衆の信仰を統制する役割を担った。本寺と末寺の支配服従関係、寺院と檀家の関係を通して、すべての人々を寺院と結びつけて管理し、封建支配体制の維持に大きな役割を果たした。

8.明治維新以降:神仏分離令による仏教の衰退と復活、新宗教の勃興
 明治維新直後の1868年に「神仏分離令」が発布されると、全国で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、仏教寺院は空前の大打撃を受けた。一方で、仏教の近代化を目指す仏教復興運動も始まり、新たな教団も生まれた。

9.戦後〜現在
 太平洋戦争が終わると、憲法によって信教の自由・政教分離が保証された。戦争協力体制を支えていた宗教団体法は廃止され、1951年に宗教法人法が施行された。すべての寺院は独立した宗教法人となり、末寺寺院を拘束していた本末制度の機能が失われ、宗派を離脱して独立する寺院も増えた。


(琉球新報 2004-11-2)

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