家畜の疫病は人間への警告


 感染した鶏を焼却処分している映像は、衝撃的である。人間も毒性の強いウイルスに感染すれば、同じ処分を受けるのだろう。想像すると背筋が寒くなる。「都市化」の問題は、養老氏が追求するテーマだが、換言すれば、「家畜の大量飼育」と似たようなものだ。狭い柵の中で、十分にエサが与えられ、ぶくぶくと太っていく。いつの間にか人間が人間でなくなって行くのだろう。養老氏は「多様性を保つしかない」と忠告するが……。


《生き物に多様性を》

 食の問題が目立ち始めた。問題自体より、騒ぎのほうが大きいという観測もあろう。
 鳥インフルエンザでは自殺者まで出た。インフルエンザ自体が問題なら自殺する暇などない。具体的な対応に追われるからである。ところがメディアの騒ぎでは、個人には止めようがない。

 鶏、牛海綿状脳症(BSE)、コイ、いずれも状況がよく似ている。大量に飼育され、飼育条件が統制される。その模範がヒトである。ヒト自体が家畜化された動物だという見方は、解剖学では19世紀から常識に近かった。

 ヒト社会に急性感染症が流行したのは、都市化が始まって間もなくであろう。中世のヨーロッパでは、しばしばペストの大流行があり、人口が半減した。一個所で大量に飼育される動物は、都市社会のひな型である。いったん疫病の流行が始まると制圧が困難になる。

 アマゾンの奥地でいまだに古い習俗を守る人たちは、外部の人間との接触を避ける。病気を恐れるからである。免疫がなければ、ただのハシカですら大人にとっては致命的だから、これには十分の理由がある。

 いま家畜に起こっている疫病は、ヒト社会の歴史を遅れて繰り返しているように見える。それなら統制は簡単で、ヒト社会で行われてきたことを繰り返せばいい。すなわちインフラを整備し、動物を衛生的な環境においてやればいい。それが人々がやろうとすることであり、いわゆる解決策であるう

 次に起こる問題はなにか。ヒト社会の間題と同じであろう。そうした状況で飼育された動物は、はたしてまともな動物かという問題である。つまり都市社会を当然として生きているわれわれは、まともな人間か、ということである。

 本当かどうか知らないが、チベット民族の鳥葬に変化が起きているという。鳥が人を食べなくなったという。ヒトは生態系の頂点にあり、さまざまな毒物が濃縮して蓄積されている。つまりヒトを食べると「あたる」。私も前からそう思っていたから、食べたらいけない動物の筆頭はヒトだと思っていた。野生動物は敏感で、毒になる食物を本能的に避ける。昔からトラは人を襲わない、人食いトラは、他の動物を狩ることができなくなった老齢のトラだといわれていた。おそらくそのころから、人は「食べたらあたる」もの、「まずいもの」だったのであろう。

 フグ毒もまた、フグが自分でつくるわけではない。えさのなかにあった毒をフグがため込んでいるだけである。BSEも似たことだと気づかれるであろう。牛に羊を食わせたために、牛がフグになっただけである。

 どうせ食料として「殺してしまう」動物だから、いいかげんに育てたっていい。そう思う人もあろう。それは「人間はどうせ死ぬんだから、いま死んでも同じ」という論理である。そこにみごとに見えているのは「生きる」とはどういうことか、それを置いてけぼりにした近代思想であろう。

 「どうせ死ぬ」からこそ、「いかに生きるか」が問題なのである。家畜の大量飼育が示しているのは、われわれ自身の生き方への警告である。つねにえさが与えられ、平和で安全な暮らし、それが理想なら、それは家畜の暮らしと、どこが違うのだろうか。ヒトは家畜化された動物の特徴を示すという、解剖学の結論をもう一度考え直してみてほしい。

 幸か不幸か、自然はそんな安易を認めはしない。だからインフルエンザなのである。原因はウイルスだが、コンピューターのウイルスならよくおわかりであろう。コンピューターの中のシステムは「ウイルスが、広がるようにできている」のである。そういうものが大きく広がらないためには、どうすればいいか。多様性を保つしかない。

 家畜のそれぞれが勝手気ままに行動したら、飼い主は怒り出すに決まっている。それでも上手に生きものの生き方の多様性を保つこと、それができなければ、じつは「飼い主である」資格がない。ヒトは自分が他より偉いと思う動物である。しかし天災つまり自然は、「忘れたころにやってくる」のである。

(東大名誉教授・養老孟司)


(琉球新報 2004-3-26)

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