養老孟司「虫取り仏教談義」


 第130回芥川賞が「蛇にピアス」と「蹴りたい背中」に決まり、どういう作品なのかと掲載されている文芸春秋をパラパラめくっていると「特別企画ー仏教入門」というページに出くわした。
 ひととおり眼を通したが、特に養老孟司(ようろう たけし)の「虫取り仏教談義」が面白かった。養老さんは解剖学者でテレビにもよく出演され、「バカの壁」がベストセラーとなった。
 以下に要点をまとめてみた。

●自然と仏教
 あっちこっち虫取りにでかけます。虫取りにいい場所は、たいてい仏教国なんですな。
 昆虫採集で、よく外国に行くが、スリランカ、ネパール、ブータン、タイ、ベトナム、モンゴルなどの都市化のおくれた国では、自然がまだ残っていて虫も住みやすいのではないか。インドや中国は都市文明が発達すると共に仏教はすたれてしまった。虫の気持ちがわかるので、仏教国に行くとラクになるという。

 反対に一神教の国は「酒は飲むな」「豚は喰うな」で息が詰まる。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教も都市の宗教といえる。
 日本は都市化の進んだ国だが、厳しい自然条件の下にあり日本人は「諸行無常」を実感として受け入れてきた。日本人と仏教は本来、相性がいいはずだ。

●「唯脳論」はお経だった
 かつて「唯脳論」の中で都市化の問題を扱い、脳が作り出した都市は、人間のからだに歪みを生じさせると論じた。
 その後、中村元さんの原始仏教についての解説を読んだ時、そこに自分が書こうとしていた事が、既に書かれており驚いた。近代の問題を扱っていたつもりが、なんのことはないお経を書いていただけだった。

 例えば、ブッダの出家の説話は、「脱都市」の物語といえるのではないか。城郭都市で王子として生まれ育ったブッダが、城を出ようとして最初の門で老人に出会い、次の門で病人に会い、次の門で死人に会い、最後の門で坊さんに会って出家する。都市を出なければ「生老病死」という人生の自然は見えてこない。

 「変わらない私」を前提とした西欧近代自我は、脳=意識が生み出したフィクションに過ぎない。そのことは「諸行無常」「無私」という言葉で既に言い尽くされていた。

 英語で論文を書いていた頃は、英語でものを考えていたが、50才になって本気で日本語を使って書くようになったら、仏教思想になってしまった。

●「葬式仏教」はなぜ生まれたか
 20世紀というイデオロギーの時代が終わり、日本人が戻るべき場所といったら仏教ぐらいしかない。

 日本の仏教は2つの流れがある。
 「自然型」−山岳信仰、八幡大菩薩信仰、密教
   異質なものを受け入れる寛容さがある
 「都市型」−日蓮宗、浄土真宗
   鎌倉時代以降、都市部の住民を中心に広がる(原理主義、排他主義、一神教的性格)
 
 時の権力者は原理主義の危険性を敏感に感じ取り、一向一揆やキリスト教を徹底的に弾圧した。徳川政府は、1640年に「宗門改」を実施し、国民すべてを「宗旨人別帳」に登録した。こうして仏教は支配制度の一部となり、「葬式仏教」に代表される「制度としての宗教」に堕してしまった。現代の日本人が、お寺や坊さんに救いを求めても失望感を覚えることが多いのはそのせいだ。

●宗教教育の必要性
 明治以降、神仏分離令でむりやり神道と仏教が切り離された。自然型のおおらかな仏教は、息の根を絶たれる。神道も天皇制イデオロギーと結びつき変質していった。

 明治政府は、西洋文明の受容に際し、西洋の技術だけを取り入れ「和魂洋才」で乗り切ろうとした。キリスト教の代わりに倫理や道徳を教えるために公教育に導入されたのが「教育勅語」だった。戦後「教育勅語」が廃止されると、宗教と哲学はタブーだという感覚だけが残った。

 その結果、何が起きたかといえば宗教についての基礎知識のない若者の大量発生だった。免疫のない彼らが、オウムや統一教会に走ったのではないか。
 宗教の専門家のはずの坊さんが一般社会に通用する言葉をもてなくなってしまった責任は大きい。

●宗教を甘く見るな
 世の中には政治ではなく、宗教に任せておくべきことがある。靖国神社問題など、その典型である。A級戦犯を合祀してあるからいけないのだ、という。死者に人格があるとみなすのは西洋近代思想の刷り込みに過ぎない。靖国神社の代わりに「無宗教の国立追悼施設を作る」なんて話しが出てくるのも、宗教を甘く見ている証拠でしょう。
 人間の都合で神様を左右すると、ロクなことはありません。

●「半日出家」のススメ
 坊さんこそ命の専門家で、死者を相手にお経だけあげていればいいのであれば、解剖学者と同じです。病気や死に直面して「何のために生きているのか」と考える。それに答えを出すのは、医者の仕事ではありません。
 宗教のいいところは「世間」を相対化してくれること。お金や地位といった現世的価値観とは違う幸せが、そこにはある。
 
 「出家」のもつ効用をもう一度見直してみてはどうか。一週間お遍路さんに行くのでもいい、半日座禅をするのでもいい。要は日常とは別の無駄な時間を持つということです。

 人は変わっても、自然は変わらない。その当たり前のことを仏教は説いてきた。肩の力を抜いて、その常識に戻ればいいんです。


(2004)

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