曲解された法に苦しむ(アフガニスタン)


 夫が、枕の下から取り出したナイフを振り上げるのが見え、刃物がほおに深く入ったのが分かった。次はのどを切り裂く気だと思った。「お母さんを殺さないで」。横で寝ていた9歳の息子の金切り声が聞こえた。

 アフガニスタンの首都カブール。民放テレビ局の映像記者ミナ・フセインは、はれ上がった顔のわずかに開く唇を動かし、夫に殺されかけた夜のことを話した。
 「外で働いてほかの男の目にさらされる妻などイスラム教徒として殺さなければならない、と考えたはずよ」。息子の叫びで逃走した夫は行方知れずだ。2004年に制定された憲法は、イスラム教徒の生活の規範や女性の自由と権利をも広く保障したシャリア(イスラム法)を土台に編まれた。

 しかしこの国では聖典コーランの教えやシャリアと、男性優位の部族・地域の古い伝統や慣習とが混同されている。女性の就学や就職を認めない、強制結婚、ブルカの着用…。曲解されたシャリアが女性たちの人生に重くのしかかっている。

教育の欠如
 24歳のミナは、戦火を避け隣国イランで暮らしていた13歳のころ、11歳上の親せきの男に性的関係を強いられ、その男の妻となる以外、生きていく道はなくなった。子ども2人をもうけ、アフガニスタンに平和が戻り始めた2年前、家族でカブールに帰った。
 夫はイランに出稼ぎに行ったが仕送りがない。困ったミナはイランで学んだ撮影技術を使えるテレビ局で働き始めた。「外で働く嫁など殺してしまえ」。しゅうとは面と向かって言った。ミナが働いていると聞きつけた夫がイランから戻り、事件は起きた。

 「シャリアは本来、ビジネス経営、教育、政治参加など、あらゆる面で女性の自由と権利を保障しているのです。戦争の前線に送ることと重労働に就かせることは禁じていますがね」。50歳のイスラム法学者セディク・ムスリムは長いあごひげを時折なでながらイスラムの民主性を説く。
 ではなぜそれが理解されていないのか。「英国やソ連との戦争、続く内戦で、シャリアを正しく施行できる強い政府がここ100年存在しなかったこと、教育の機会が欠如したことが大きいのです」

 例えばコーランに「結婚に際しては女に贈り物として与えよ」と書かれている結婚資金。花嫁の家族が受け取るものと解釈され、資金目当ての強制結婚が頻発している。東部ジャララバードの中央刑務所女子房。8人の受刑者のうち3人が、親や親類の企てた強制結婚に抵抗したことが元で告発され、禁固5年から15年の判決を受けた。
 「これがこの国の法律で、わたしたちはここで生きていかなきゃならない。麻薬密売人やテロリストは野放しなのに」。桃色のドパタ(頭と体を覆う布)のスハイラがまくしたてる。彼女は18歳だ。30歳のアミラは夫をおじに殺害された直後、夫の家族から親類に妻として売られた。

 人権活動家によると、アミラの出身地では女が日常的に売られ、2、3年前まで女を売る市場があった。売り手は父や夫、親族ら男の家族。売買は現在、男の自宅で行われ、時には「アヘン7キロ」「馬一頭」などと交換される。子ども付きで若いほど高値がつき、女は一生のうち2度は売買されるという。

問題の元凶
 「女を売った金で車を買うなんて」。アミラはつぶやき、幸福を祈るみけんの青い入れ墨にしわを寄せる。「神が助けてくださる。そうじゃないはずがない」。そう言った時だけにこりとした。

 祈り耐えることをやめた女性たちもいる。自殺による抗議だ。ジャララバードの病院では、油をかぶって火を放ち「不運にも」死ねなかった臨月の女性が運ばれて来たところだった。「焼身自殺は最近増えたよ。強制結婚が最大の理由だと思う」。救急外科医のアルマス医師は小声で言った。

 一体、シャリアが本来の効力を発揮する日が来るのだろうか。
 「時間はかかるが、ムラーを変えることが第一歩です」。初の巡教省女性顧問ロー・アフザはきっばりと言う。ムラーとは全国各地にいる宗教指導者だ。地域の人々に強い影響力を持つが、多くが教育の欠如から誤ったイスラムを説いている。昨年、カブールの500人のムラーを集めイスラムの基礎知識について試験をした。合格はごくわずかだった。「彼らこそが問題の要因なんです」

 全国に支部がある独立組織、人権委員会は女性を対象にイスラムの権利についての講習会を始めた。講師を務める45歳のバラキは男たちに袋だたきにされたこともあるが「次世代のために辞めるつもりはない」。「アフガンの女は前より強くなったのよ」と言う。
 その言葉で、吹っ切れたように未来の希望を口にしたミナを思い出した。「傷が治ったらまた職場に戻ってカメラを回したいの」

(アフガニスタン)
 英国との2度の戦争を経て19世紀末に英保護領となり、1919年の第3次戦争で独立。73年の無血クーデターで国王を追放し共和制に移行。78年のクーデターで革命評議会が発足した。翌年末ソ連が軍事介入しアフガニスタン戦争に。89年にソ連軍約10万人が完全撤退したものの、その後は内戦状態となり98年、神学生の武装集団タリバンがほぼ全土を制圧した。

 2001年9月、米中枢同時テロでブッシュ米政権が国際テロ組織アルカイダの指導者ウサマ・ビンラディンの身柄引き渡しを求めたが拒否され、10月空爆を開始、12月タリバン政権は崩壊した。02年カルサイ暫定政権議長が大統領に。
 人口2986万人。面積65万2225平方キロ。

(琉球新報 2006-7-12)



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