フセイン元大統領死刑執行


 イラクに君臨したフセイン元大統領の死刑は、「独裁者」を裁く高等法廷の公正さや独立性について疑問の声が消えない中で執行された。かつて弾圧を受け、現政権の主導権を握るイスラム教シーア派やクルド人勢力による「報復裁判」との批判は免れない。

 支配勢力の座から転落したスンニ派の間には今も元大統領の根強い信奉者がいる。死刑執行による治安への直接の影響は不透明だが、スンニ派住民に与えた心理的な屈辱感は無視できない。シーア派との対立に拍車が掛かり、「イラク分裂」に向けた歯車が加速する恐れもある。
 旧フセイン政権の幹部らを断罪する裁判は、イラク人自らが約4半世紀に及んだ独裁体制の病理をえぐり出し、国民融和を図る機会になるはずだった。

 だが、シーア派の間には判決前から元大統領の極刑を望む声が圧倒的で、シーア派のマリキ首相自身が「早期の死刑執行は国家の安定に資する」と公言しており、審理は最初から結論が見えていた。
 テレビで放映された公判で「裏切り者を倒せ」などとブッシュ米大統領やイラク政府への批判を繰り返した元大統領。その存在を脅威と受け止めた現政権が、早期執行が得策と判断した可能性もある。

 イラクでは30日正午からイスラム教最大の祝祭、犠牲祭が公式に始まったため、同政権はそれ以前の死刑執行を目指したとの指摘もある。死刑判決の根拠となった中部ドジャイルでのシーア派住民虐殺事件のほかにも、解明が待たれる事件は数多くあった。イラン対じ込めのため、かつてフセイン独裁体制を後押しした米国との関係など、外交の内幕も裁判で明かされることはなかった。

核心評論
 フセイン元イラク大統領の死刑が執行された。
 1982年にイラク中部でイスラム教シーア派住民148人を虐殺した「人道に対する罪」で死刑が確定していた。だが、元大統領はシーア派と対立するスンニ派だ。死刑は、現在のイラク政治で力を持つシーア派や少数民族クルド人の報復だという見方がある。

 裁判はイラク人自身の手で行われたが、裏で糸を引いたのは、依然イラクに13万以上の兵を駐留させる米国だとみる人も多い。そうみる人たちは、元大統領処刑は米国の報復だと考える。当然そうした見方をするスンニ派の武装勢力が、シーア派の市民や駐留米軍を標的に、元大統領処刑に対する報復を始め、イラク情勢が一層混迷しないか。国際社会の懸念だ。

 欧州諸国や人権団体は元大統領の死刑執行に反対し、米軍が拘束していた元大統領をイラク側に引き渡さないよう求めていた。やっとイラク政策の見直しを始めたブッシュ政権は、国際協調路線に戻っていく気が本当にあるのか。そんな懸念も出て来よう。

 こうした直近の問題や心配を別として、元大統領の処刑は「国際社会における正義とは何かしという、重たい問いを突きつけていないだろうか。

 フセイン元大統領の独裁体制下で迫害を受け、虐殺されたシーア派市民やクルド人は数知れない。イラン・イラク戦争末期の88年、クルド人の反乱を抑え込もうとイラク北東部ハラブジャを毒ガスで攻撃し、クルド人住民ら約5000人を殺害したとされるのが一例だ。一般市民の多数の遺体が散乱する街の映像は世界に衝撃を与えた。この事件をはじめ、当時殺害されたクルド人は18万人に及ぶといわれる。

 そうしたイラクを当時、陰に陽に支援していたのが米国だ。当時、米国はイランと戦うイラクと、長年断絶していた国交を回復し(84年)、イラン軍配備状況の偵察衛星情報などを渡していた。イスラム原理主義国家イランの拡張を抑え込むことが米国の戦略だった。そのためにイラクが役に立ったからだ。
 ラムズフェルド氏が83年に米大統領特使としてバグダソドを訪問、関係改善を協議した。その時、当時のフセイン大統領と笑顔で握手を交わす写真がある。そんな歴史の象徴だ。そのラムズフェルド氏がイラク戦争では国防長官として開戦への急先鋒となった。

 国際社会は、ハラブジャの虐殺のような事態を、「反乱の鎮圧だ」とか「内政問題だ」という理由で見逃しはしない。それが、遠くはナチスのユダヤ人虐殺、最近ではユーゴ内戦での民族浄化など、20世紀の悲惨な経験を通じ、つくりあげてきた考え方だ。時には武力を使ってでも止める「人道介入」の必要性も論議されるようになった。

 フセイン裁判にはそうした考え方が、ある程度影響を与えているのも事実だろう。ただ、それが人々には新たな報復劇の始まりとしか見えないのは、裁判を支えるべき「正義」が怪しいからだ。その怪しさは米国とイラクの近年の関係の歴史にある。イラク戦争の「大義」とされたものが、ほとんどすべて崩れさっていることにもある。
 (共同通信編集委員会田弘継)

評伝
 「アラブの英雄」を目指した男は、徹底した恐怖政治でイラクに独裁体制を築き上げ、超大国の米国に挑み、敗れた。米占領下で設置された法廷で死刑判決を受げ(30日、絞首台に消えたサダム・フセイン元大統領。夢見た覇権に手は届かなかった。
 1937年、北部テイクリートの貧農の生まれ。幼くして父を亡くした。汎アラブ主義を掲げるバース党の影響下で政治活動を始めたのは中学生のころ。クーデターで王制を倒しエジプトをアラブの盟主にした故ナセル大統領を慕い「第二のナセル」を目標とした。

 79年、大統領就任直後の臨時党大会。フセイン元大統領は突然「クーデターに関与した疑いがある」と66人の名を読み上げ、会場から連行させた。22人が死刑を宣告され、国民に恐怖政治を印象付けた。
 反対派を粛清し、社会の隅々に張り巡らせた治安・情報機関のネットワークで国民を監視した。個人崇拝も進め、十字軍を撃破したイスラムの歴史的英雄サラディンに自らを重ね「騎士」と呼ばせた.国内には肖像画や銅像があふれた。

 一方で豊富な石油収入を背景に国家の近代化に尽力、医療や教育を中東有数のレベルに引き上げたとの評価もある。
 イスラム教スンニ派のサウジアラビアと、シーア派のイランという2つの地域大国に挟まれたイラクの元首としての外交は、駆け引きと戦争の繰り返しだった。

 大統領就任翌年の80年、イスラム革命後間もないイランと開戦。米政府の支援を受けたとされるが、8年後の停戦は勝利とは呼べるものではなかった。
 米ソ冷戦終結後の90年には、世界秩序の混乱を突くようにクウェートに侵攻。91年、米軍主導の多国籍軍との湾岸戦争を招いた。イスラエルにミサイルを撃ち込むなど、パレスチナ問題と関連させる戦術を取り、バレスチナ民衆に英雄視さ一れた。

 一方、フセイン政権の脅威に直面したサウジ王室は米軍の国内駐留を容認。「聖地を汚した」と激怒する国際テロ組織アルカイダ指導者、ウサマ・ビンラディン容疑者らイスラム過激派の勢力拡大につながった。

 イラク戦争開戦時、ブッシュ米政権はイラクに民主国家を建設し、中東をドミノ的に民主化するというバラ色の構想を描いた。だが強権で宗派・民族間の確執を抑え込んできたフセイン元大統領が消えた今、イラクは連日100人単位で市民が殺される泥沼の状況にある。

 イラク戦争は独裁者を倒したが、中東全域でイスラム過激派を台頭させた。過激派によるテロの波は欧州にまで及ぶ。「フセイン後」のイラクと中東に安定と繁栄をもたらす処方せんは見つかっていない。

 (木村一浩・共同通信前バグダッド支局長)

(琉球新報 2000-12-31) 



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