麻原教祖死刑確定の意味


 さきごろオウム真理教の教祖だった麻原彰晃(本名松本智津夫)の死刑判決が確定した。しかしそれで前代未聞のこの事件が、果たして幕を下ろしたことになるのかどうか。あらためて、歴史をふり返ってみる必要がありそうだ。

 おそるおそるいうのであるが、科学と宗教には似たところがあると私は思ってきた。それというのも、科学は原子爆弾や毒ガスのような凶悪な兵器をつくりだす一方で、文明の進歩と人間の幸福に大いに役立ってきた。そして宗教も、十字軍や一向一撲のような相互殺裁を繰り返してきた半面、人間の精神にかぎりない貢献をしてきたからである。要するに、善と悪の両面を極端な形でかねそなえているという点で、科学と宗教はとてもよく似ているのである。

 話を宗教の問題にかぎっていえば、宗教はいつも信仰の名において平和を語り、その舌の根もかわかぬうちに教団の利害にもとづいて戦争をくり返してきた。その典型的な例をあげると、わが国ではさしずめ一向一撲ということになる。
 ときは15世紀、阿弥陀如来による救済を信じた本願寺の門徒勢力が宗教王国をつくりだそうとしたのである。

●宗教幻想が増殖
 この宗教勢力(一向宗といった)は、16世紀には大阪の石山本願寺に結集し、全国制覇をねらう織田信長の軍団と正面から対決する。世にいう石山戦争である。戦闘は鉄砲という最新の武器によってはじめられ、はてしない殺し合いの消耗戦をくり返した末に、一揆勢力(宗教)が信長(国家)の前に屈して終わった。

 その戦いのさなか、門徒軍によって掲げられた旗には「進めば極楽往生、退けば無間地獄」の大文字が書かれていた。かれらは、進んでも退いてもまぬがれえぬ死を道づれにして戦っていたのである。
 そこには宗教運動にひそむ狂気のエネルギーと暴力性が、絵に描いたように映し出されている。

 とはいえ15世紀の段階では、まだしも宗教指導者の側に、国家権力との正面衝突を回避しようとする理性的判断がはたらいていた。しかしそれが16世紀になると、宗教幻想を増殖させる武装集団と化していった。

 この16世紀という容易ならぬ世紀の転換点に立って、あの織田信長が起死回生ともいうべき2つの大事業を敢行した。第一が比叡山の焼き打ちであり、第二が右にみた石山本願寺の攻略である。信長は旧仏教最大の権威である天台宗延暦寺をたたいて国家仏教の牙城を骨抜きにし、返す刀で本願寺を降伏に追い込んで、民衆宗教のエネルギーを根こそぎにすることに成功したのである。

●無神論の心情
 日本の宗教は、この信長によって引きおこされた二大宗教戦争を契機にして急速に世俗化の道をたどることになった。すなわち、宗教を政治のもとに管理し制御するシステムができあがったのである。豊臣秀吉をへて徳川家康がその路線を継承し、こうして寺と檀家の関係にもとづく葬式仏教と先祖崇拝を柱とする家の宗教が確立する。

 この体制は明治変革と太平洋戦争の時期をへても基本的に変わることがなかった。むしろ明治以降につづく日本の近代化は、伝統宗教がその牙を抜かれて世俗化していたために、短時間のうちにもっとも効率のよい発展をとげることができたのである。

 ただ、ここで注意しなければならないことがある。それは宗教の世俗化が日本人のあいだに合理的な思考を育てるのに役立ったのと同時に、半面で無神論者的心情を植えつけたということだ。それは西欧におけるような自覚的な無神論ではなかったが、すくなくとも宗教にたいする無関心の態度を助長したのである。

 この近代日本における「無神論」の伝統は、明治から数えてもすでに130年の歳月をへている。一向一揆の時代から数えれば4世紀をこえているわけだ。その無神論的風土の現代日本に、突如として宗教戦争をしかけようとしたオウム真理教が登場してきたのである。
 われわれはもう一度、歴史を一から学び直さなければならないところにきているのではないだろうか。

山折哲雄(やまおり・てつお 宗教学者)
 1931年米サンフランシスコ生まれ。東北大大学院博士課程単位取得退学。著書に「さまよえる日本宗教」「日本文明とは何か」など。「愛欲の精神史」で2001年和辻哲郎文化賞・一般部門を受賞。前国際日本文化研究センター所長。

(琉球新報 2006-10-20)



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