チベット仏教……「対話」重視する現代性 上田紀行(うえだ のりゆき)



 チベット情勢をめぐる議論には大きな欠落がある。それは時事的な出来事に目が奪われ、その文明史的な意味、特に「仏教」の視点がまったく論じられていないことである。

 私は06年12月に、ダライ・ラマ14世と2日間にわたって対談した(詳細は「目覚めよ仏教! ダライ・ラマとの対話」NHKブックス)。伝統を重んじながらも現代性に満ち、極めて未来志向的で鮮烈な、ダライ・ラマの仏教思想に心底驚かされた。その内実を知ることなく、「中国対チベット」の政治問題としてのみ扱うのは、あまりに表面的な理解でしかない。
 それは徹底的に弱者の側に、苦しんでいる者の側に立つ思想である。大乗仏教の根本には、「苦しんでいる者を何としてでも救いたい」という、菩薩の精神がある。チベットは、「苦しむ人々の声を一人逃さず聞きとどける」観音菩薩によって建国され、ダライ・ラマもその化身だとされており、「慈悲」の精神が仏教社会を支えてきた

 その仏教は極めて現代的でもある。中国の侵攻を受け、インドに逃れたダライ・ラマは、科学者、経済人などとの、ジャンルと国境を超えた対話を精力的に行い、現代が抱える問題の根源を探究し続けてきた。亡命という悲劇は、チベットだけで通用する仏教から、現代社会の苦しみに向かい合う世界仏教への転換をもたらしたのである。

 半世紀にわたる実践により、チベット仏教は「近代以前」の仏教から、「近代を超える」座標軸を指し示す仏教へと脱皮した。ダライ・ラマは「私たち宗教者は自らを戒めないと、すぐに民衆の搾取者となってしまう」「もしかすると、私は今の中国の指導者たちよりもずっと左翼系ですよ」などと語り、私は度肝を抜かれた。そこには、徹底的に「現代における慈悲の可能性」を追究してきた、透徹した知性がある。

 チベットヘの長年の抑圧、そして今回の弾圧に対しても、ダライ・ラマは非暴力を貫き、対話による解決を訴え続けている。暴力の原因を誰か特定の入間に帰し、力には力で立ち向かうのではなく、その原因を世界を織りなす関係性の中で深く探究し、対話の中で互いが自らの内的価値を見いだしながら克服しようという、非暴力の仏教的実践の提言こそが、世界の多くの人々の心をとらえている。

 50年前に「弱きものを救う」と自らの前衛性を掲げてチベットに侵攻した中国が、いまチベット仏教の開かれた現代性の前に、前時代的な姿をさらしている。半世紀の間に、新旧の立場は逆転してしまった。どちらが弱き入間の苦しみの側に立つ者なのか、世界はいま厳しい目で状況を見つめている。

 その中で日本入は何をなすべきだろうか。第一に、大切な友人であればこそ、孤立する中国に、時代錯誤的な主張をやめ、一切の人権侵害と文化的抑圧を中止するよう強く求めることだ。そして第二に、日本の仏教徒は、日本仏教を現代の苦しみに向かい合うものへ再構築すべきだ。それを怠ってきた伝統教団は時代の流れに置き去られているが、若手僧侶の間では、寺を地域の活動拠点として開く努力、ウェブ上での活発な発信、宗派を超えて仏教の未来を語り合う試みなど、変革のきざしが見え始め、社会からの仏教に対する期待も高まりつつある。

 存亡の危機の中で世界に慈悲を発信し続けるチベットに、今こそ応えようという気概が、日本入に求められている。

上田紀行(うえだ のりゆき、東京工業大准教授、文化人類学)

(2008-5-1 朝日新聞)



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