寛容な世界は可能ですか……塩野七生さんに聞く



渡辺 お書きになった「ローマ人の物語」を全巻読みました。なかでも興味深かったのが、ローマを「寛容(クレメンティア)の帝国」と述べられたことです。今日は寛容をキーワードにお話を……。
塩野 2千年も前に、ギリシャのプルタルコスという歴史家が、ローマ興隆の要因は敗者を仲間に迎えていったからだと述べているんです、その後、だれも注目しなかったけど。

渡辺 そこにぐっと光を当てられたわけですね。
塩野 なぜ、ローマ帝国は寛容だったと思います? それは、多神教だったからです。キリスト教やイスラム教は一神教。でも、ローマにはたくさんの神がいました。
渡辺 ローマは征服した地域の神々も受け入れた。

塩野 そう。だから神様の数が増えていったわけ。多神教が一神教と違うのは、神様の数だけじゃない。自分とは異なる神を信じている人が隣にいて、そのことを認めるのが多神教の社会です。しかも互いに冒涜するような行為はしない。
渡辺 ローマ帝国の寛容さには、かなり驚かされます。
塩野 やっぱり、「サイは投げられた」で有名なカエサルの存在が大きかった。彼がローマの寛容さを拡大させた。征服した土地の部族長や属州から募った兵士にローマの市民権を与えたし、部族の拠点はそのまま残したのです。
渡辺 現代の多くの人が抱く帝国のイメージとはずいぶん違いますね。

塩野 帝国というと、みなさん、大英帝国と思っているようですが、全然違う。大英帝国がローマだったとしましょう。するとガンジーやネールを国会議員に招き、首相に選んでいたかもしれない。そんなこと、考えられますか.
渡辺 なるほど。では、現在の「帝国」、アメリカ合衆国はどうでしょうか。

塩野 他人の存在を認めるのが「帝国」。端的にいえば、アメリカは帝国たりえていない。帝国をやっていくには、覚悟が必要です。覇権下にある国々が危ないときは、出て行って、身を張って守る。アメリカにそれだけの覚悟と度胸がありますか。そんな度胸もない人たちが、絶対的な軍事力を背景に帝国みたいな力を持ってしまったことが、現代の我々の悲劇です。

渡辺 9・11以後のアメリカは、かつて世界に振りまいていた希望や楽観ではなく、恐怖と脅しで外交を展開している感があります。寛容とはほど遠い。
塩野 寛容さは、絶対神しか認めない一神教の教徒には難しいことです。それでもキリスト教徒は、中世の社会を自ら疑うことで始まったルネサンスをへて、多くを学んではいますが。少し話を変えましょう。私はアメリカに行ったことがありませんが、機会があればテネシーでカントリーのライブを聴きたい。あそこでカントリーを聴いている人たちは、前回の大統領選で誰に投票したのかしら?
渡辺 ブッシュです。

塩野 保守的で、宗教的で。インテリはキリスト教原理主義を非難するし、我々もばかにしたりするけれど、この宗教心って何なのかって思う。
渡辺 今のブッシュ政権に対してはキリスト教右派が強い影響力をふるっています。アメリカ自身に変わる力があるのかどうか、私は大統領選に注目しています。まだアメリカに希望を持っているんです。

塩野 それはそうでしょう。私が最愛の息子を送り出した先はアメリカですから。
渡辺 かつて「我々の憎む思想のためにも自由を与えることが大事だ」と書いた最高裁判事もいました。世界の反米感情は、アメリカヘの期待にアメリカ自身が追いついていないことへのいらだちが大きいと思います。

塩野 ただ、ヨーロッパ人はアメリカに幻想を抱いていません。覇権を持つからには覇権者らしくふるまってくれと思っている。
渡辺 アメリカに本当の意味での帝国であれ、と。
塩野 そうです。ローマは体制内に異質な人たちをどんどん取り込んで、果てはアラブ人の皇帝も出た。アメリカにそんな度量があるでしょうか。

渡辺 ケニア出身の父親を持つオバマが民主党の予備選で健闘していますが、ローマ帝国にはかないません。
塩野 あなたね、その点、ヨーロッパはおもしろいですよ。昔、イタリアからフランスに向かう道は幅がだんだん狭くなっていた。攻めてこられないようにね。その道路が広がり、欧州連合(EU)は本物だと思いましたね。一方で村単位のコミュニティーが、特産品を作るなどしてとても元気。いいと思いません?

渡辺 ええ。国家の枠組みを超えてどれだけ互いに寛容になることができるか。EUからは目が離せませんね。ところで、日本社会では寛容さが失われつつあります.格差は広がり、高齢者に冷たい施策が行われています。今の危機を乗り切れると思いますか。
塩野 もう少しやれると思いますよ。日本人は自分たちが持っているものを十分に活用していない。ローマが優れていたのはまさにその点です。

渡辺 生かしきれていないといえば、民主主義の精神もそうです。イギリスの政治哲学者アイザイア・バーリンは、人間が大きな理想を掲げて社会を変えられると思った時にはろくなことにならないという趣旨のことを述べています。声高にスローガンを掲げなかったのも、ローマの特徴ですね。
塩野 理想がいけないのではない。理想を信じすぎるのがいけない。でも、理想ってやっぱり、すばらしいものですよ。

■塩野七生(しおの・ななみ)
 37年生まれ。大学卒業後、地中海沿岸で遊びつつ学ぷ。68年から執筆活動を開始。主な著書に「海の都の物語」「ルネサンスとは何であったのか」。ローマ帝国興亡の歴史を描いた「ローマ人の物語」は、92年から1年に1作のペースで取り組んだ。全15巻。70年からイタリア在住。

■渡辺 靖(わたなべ・やすし)
 67年生まれ。米ハーバード大大学院で博士号。06年から慶応大教授。著書に「アフター・アメリカ」「アメリカン・コミュニティ」など。

(朝日新聞 2008-6-2 )



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