宗教とビジネストラブル



■マレーシアでの仕事は宗教との闘いだった
 私はかつて、マレーシアで22年間にも及ぶ長期政権を築いたマハティール首相の経済アドバイザーを18年ほど務めたことがある。
 当時のマレーシアは今と同様、多民族・多宗教国家で宗教問題が常について回った。人口の60%以上を占める先住のマレー系と実質的にマレーシア経済を支配している中国系(約26%)、これにインド系(約8%)、その他、で構成される民族的・宗教的対立は根深く、私が初めてマレーシアを訪れた1970年代後半はイスラム原理主義が勢力を増して華僑の虐殺事件が起きるなど、社会の緊張が高まっていた。

 マハティール首相はマレー系を優遇する「プミプトラ政策」(70〜90年)を導入して国民の格差是正に心を砕きながら、宗教対立に頭を悩ませていた。私は首相にこう進言した。
 「宗教対立は結果であって原因ではない。原因は貧困にある。宗教対立を解決することは私にはできないが、貧困を克服することであればお手伝いできる。すべての人が教育の機会平等を得て生活が向上すれば、社会の緊張は解きほぐせる。これをやりましょう」

 以降、マレーシアは工業化、近代化に邁進するのだが、たびたび宗教問題が顔を覗かせた。たとえば私の発案で90年代半ばから取り組んでいる「マルチメディア・スーパー・コリドー(MSC)計画」。全土のITインフラを整備してアジア屈指のハイテク国家を目指そうという国家プロジェクトだが、当初、マハティール首相はインターネットの全面的な活用に消極的だった。

 暴力表現やポルノのような、イスラム経典から見れば好ましくない情報が無制限に入り込んでくれば、管理監督する立場にある政府に、原理主義者からの反発は必至となるからだ。
 検閲の必要性を口にするマハティール首相に対して、私はあえて「教育で乗り越えるべき」とアドバイスした。今の中国のように政府が情報統制し、「これはいい情報、これは悪い情報」と毒味して国民に与えてもきりがないし、判断力のない国民が育つだけだ。それよりも、いかなる情報にアクセスしても自分の判断で取捨選択できるように国民を教育することがマレーシアの将来にとって大事である、と。

 私の言をマハティール首相は聞き入れた。結果、マレーシアはイスラム教国では稀に見る情報検閲のない国になり、今日、小国ながらASEANの優等生として存在感を示している。

■宗教対立は、パワーゲーム
 振り返ればマレーシアでの仕事は一貫して宗教との闘いだったが、その実、「宗教と闘わなかったこと」が成功の理由だったように思う。宗教的な対立というのはあくまで結果であって、人間、豊かになって生活にある程度のゆとりが出てくると信仰は希薄になり、他宗教との軋礫も減ってくる。

 そもそもキリスト教であれ、イスラム教であれ、神の教えという原始的な部分ではわざわざ宗教対立を煽るような教義はない。対立の本質は教義の対立ではなく、人間の対立、つまりパワーゲームなのだ。カトリックとプロテスタントの対立にしても聖書を解釈する人間の対立であり、政治問題となったアイルランドの凄惨な宗教対立もその本質は先住者と入植者の戦いである。

 日本でも戦国時代、比叡山の坊さんが武装して戦ったのは、仏教の教義と直接の関係はない。時の権力者とパワーゲームを演じたにすぎず、パワーゲームができなければ隠れキリシタンのようになるしかなかったのである。
 現在でも、たとえばトルコのエルドアン首相が「(政教分離を謳う)世俗主義を捨ててイスラム主義に戻る」という趣旨の発言をしたり、イランとの関係改善に動いている。これを日本では、トルコのイスラム回帰と警戒する論調もあるが、まったくナンセンス。

 国民の多くはイスラム教徒だが、近代トルコは建国の父であるアタチュルクが世俗主義を標榜して以降、政教分離の方針を貫いて民主的な政治体制を築いてきた。ではなぜエルドアン首相は今頃になってイスラム主義を持ち出してきたのか。
 もともとオスマン朝やセルジューク朝など、かつてのトルコは十字軍との戦いに象徴されるように、キリスト教文明と対立するイスラム世界の右総代のような立場だった。

 だが戦後のイスラエル建国以降、その役割を担ってきたのはエジプトである。アメリカに懐柔されてイスラエルの番犬になり下がりながら、表向きはアラブの盟主として君臨してきた。
 しかし、そのエジプトが今年チュニジアで起こった「ジャスミン革命」に呑み込まれて弱体化、その間隙を衝いて過去の栄光再び、トルコがアラブの盟主に返り咲こうというのがエルドアン首相の思惑である。そのために世俗主義を捨て、イスラムの看板を掲げ直したわけだ。つまり、この問題も宗教の仮面を被った中東のヘゲモニー争い、パワーゲームの一端なのである。

■宗教絡みのビジネストラブル 
 40年もコンサルタントの仕事で世界の隅々まで渡り歩いてきた私の経験からいえば、宗教や宗教対立というものを教条的にとらえて、神経質になりすぎないほうがいい。同じイスラム教国でも近代化のレベルによって信仰の温度差がある。たとえばトルコでは女性の参政権も認められているし、仲良くなれば一緒に酒を飲んだり、日の出から日が暮れるまでは断食しなければならないラマダンの期間でも、昼間断食をしながら太る人がいるくらいだ。

 またインドネシアはイスラム教国だが、民族(種族)も言語も500以上あって、バリ島に行けばピンズー教だし、虫眼鏡的に見るとイスラム教徒が全然いない地域もあるし、チモールにはキリスト教徒の多い地区もある。イスラム教徒とどうやって付き合うべきか、などと肩に力を入れて突っ込むと空振りする可能性もある。

 ただし、ビジネスマンであれば宗教的感度を磨いておくことは極めて重要だ。単純な話、受胎告知を信じている敬慶なカトリック教徒に、「セックスしないでイエスが生まれるわけがない」と言えばやはり喧嘩になる。
 私が経験したビジネスの失敗例で言えば、こんな話がある。

 今から20年ほど前に横浜ゴムで、タイヤパターンのデザインがコーランの一節に似ているというクレームがついてアラブ世界でボイコット運動が起きた。私がナイキでボードメンバーをしていた頃には、エアジョーダンという人気のバスケットシューズのロゴデサインがコーランの文字に似ているということでやはりボイコット運動が起きて、ナイキは何百万足ものシューズを回収することになった。いずれも燃え上がるようなデザインを踏みつける靴やタイヤに使った、ということが攻撃の理由とされている。

 インドネシアでは、味の素の製造過程でバクテリアの育成にイスラム法に抵触する製品(バクトソイトーン)を添加物として使用していたとして、イスラム教徒が摂取できない「ハラム」の食品であると断定され、3週間以内に市場から回収するよう命じられている。しかしインドネシア政府は同時にマメノ(豆濃)という別の添加剤を使用すれば、イスラム教徒が摂取できる「ハラル」に認定する、ということで大きな騒ぎにはならなかった。

■どんな国にも琴線ならぬ「怒線」がある
 宗教絡みのビジネストラブルといえば、イスラム教とユダヤ教が圧倒的に多い。イスラムの場合は「聖典を冒涜した」という筋合いのトラブルがほとんどで、多国籍企業は少なからずきつい代償を支払っている。コーランの一節と見紛うようなデザインは、とにかく避けたほうが得策だろう。特に「炎」のデザインを描くときは要注意だ。
 またユダヤの場合、宗教の問題というより、「ユダヤの陰謀」的な史観が大きな火種になる。筆を握る人種は、その手の話はアンタッチャブルにしておいたほうが身のためだ。

 「宗教的感度」というのは宗教ならずとも必要なことで、それぞれの国家や民族で「心の琴線」とは真逆の「逆鱗」「怒線」に触れるポイントがある。その話題に触れると相手はエキサイトして関係がぶち壊しになってしまうのだ。
 たとえば韓国は儒教の国だが、儒教を否定しても韓国人とは喧嘩にならない。儒教をつくった孔子は、日本以外の国では宗教家ではなく哲学者として捉えられていて、たとえ否定するような発言をしても、「あなたは何様のつもり?」と軽蔑されるだけ。しかし歴史問題で日本の立場を是とするようなことを言うと、「歪曲だ!」と烈火のごとく怒りだして収拾がつかなくなる。

 「この国に来てこれだけは言ってはいけない」ということは結構あるので、よくよく注意すること。こうした感度を身につける一番の方法は、その土地で古くから暮らしている人と友人になって、事細かく教わるしかない。
 
(大前 研一)

(プレジデント 2011-12-5)



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