追悼、吉本隆明
橋爪大三郎(東京工業大学教授・社会学者)



 吉本隆明氏が3月16日に亡くなった。奥歯が抜けたような、埋め合わせることのできない不在を噛みしめている。吉本氏が「戦後最大の思想家」と評されるゆえんは何か。その仕事の核心を考えてみる。

■仕事の核心
 第一に、『マチウ書試論』。マタイ福音書の読解だ。パリサイ派のユダヤ教徒がイエスを攻撃し、最後は殺害してしまう。教義(解釈)のわずかな違いがイデオロギー対立となって、人びとの共存をむずかしくする。そうした党派の論理と戦う個としての思考の柔軟さが、吉本氏の資質をよく示している。

 第二に、『言語にとって美とはなにか』。上部構造/下部構造を区別するマルクス主義は、言語をそのどちらに位置づけるかあいまいだった。文学者・吉本降明氏は、自身の存在をかけて、この問題に科学的考察のメスを入れる。時枝誠記やソシュールや、当時利用できた最新の学説を参考に、道なき道を切り開いた独自の考察の産物だ。

 記紀万葉の古代歌謡の世界。王朝文学から中世、近世へとくだる作品群の変容。これらを、品詞や表現の構造、比楡の水準といった普遍的な特性から、統一的に解明しようとする。文学の歴史の、科学的な考察だ。西欧の諸言語は、数百年前に成立したばかりで、このような仕事はなすべくもない。西欧の方法論を輸入してこと足れりとする、よくあるアカデミズム(歴史学、哲学、法学、文学、経済学、など)には真似のできない、創造的達成である。

 第三に、『共同幻想論』。「国家は共同幻想である」で有名なこの書物は、レーニンの『国家と革命』など、マルクス主義の標準的な図式を覆すもの。そして、アンダーソン『想像の共同体』を先取りする内容である。人間の精神世界は、個体幻想/対幻想/共同幻想、に類別される。そして、「個体幻想と共同幻想は逆立する」が、吉本氏のもっとも重大な命題である。幻想は、フロイトの無意識と違って、人間の精神世界の全体をいう。イデオロギーのように、現実世界とゆるやかな対応をもっていて、しかもその内部に構造がある。個の精神世界(個体幻想)と国家(共同幻想)とはメビウスの帯のようで、連続だが逆立するというのだ。

 それを吉本氏は、私的所有などなかった原初的共同体のレヴェルから古代天皇制、発達した制度的国家にいたるまでを、『遠野物語』や記紀神話、民族誌などのデータを援用しつつ実証していく。これが成功すれば、マルクス主義の上部構造/下部構造の図式が、覆されることになる。M・フーコーの「知の考古学」やエピステーメーの着想、トマス・クーンの科学パラダイムの議論に先行する、先駆的で独創的な業績だ。

 第四に、『心的現象論』。幻想とひとくくりにしていた人間の精神世界を、「原生的疎外」によって立ち上げられた独自の現象領域とレて記述分析する。精神医学や人類学、心理学などの知見を根拠に、そこに法則性を定立せんとする。物質的世界と心的領域を連続的で一元的な視野のもとに収めようという試み。『試行』誌上での最長の連載となった。

 第五に、作家論。高村光太郎、宮沢賢治、中野重治、村上春樹、など。それぞれの時代の先鋭的な作品と対決する批評の第一線から、吉本氏は終生退くことはなかった。
 第六に、『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』など、高度消費社会の文化現象を俯瞰する論考。中産階級が過半となり、消費文化が熟するなど、マルクスが予想できなかった現象に確固とした測量線をめぐらす。

■新しい地平
 これらの仕事を通じて、吉本隆明氏はどんな新しい地平を、提示してくれているのか。それは、マルクス主義の岩盤に、雨だれで孔を穿つような仕事だった。

 マルクス主義は、科学的社会主義を名のり、包括的で合理的な知の体系と信じられていた。その中心は哲学(唯物論)、そして経済学(労働価値説にもとづく資本論)だった。吉本氏は専門的な訓練を受けた科学者だったから、合理的な知の体系が思考を統御することをよく理解していた。それを逃れるには、知の体系を内側から破砕する以外にない。

 ソ連の体制やスターリン主義は、マルクス主義の本来のあり方から逸脱している。そう考えて、日本共産党から分かれたマルクス主義者たちは、批判の根拠を、マルクスの著作のなかに求めようとした。マルクスを根拠に共産党とスターリン主義を批判するなら、その批判はマルクス主義の枠内に留まることができる。こうして初期マルクスの著作が競って読まれた。

 吉本隆明氏の仕事は、こうした議論の根拠をマルクスよりも以前にずらした。マルクスは言語を正しく考えたか。マルクスは権力を正しく考えたか。マルクスは個人の心的領域(文学の発生する場所)を正しく考えたか。吉本氏の仕事は、マルクスヘの問いかけであり、マルクスとの格闘であり、結果として、マルクス主義を解体する徹底した懐疑だった。こうして吉本氏は、マルクスから自由になる。それは、文学的感性と科学的精神を兼ねそなえた知性であるという点で、マルクスと似通っていたからこそなしえたことだと思う。
 
 全共闘世代の学生たちに、吉本氏の著作がなぜあれほど熱心に読まれ、圧倒的な影響力をもったのか。その理由はこうだろう。全共闘に集まった学生たちは、日本共産党にも、新左翼のセクトにも懐疑的で、得体の知れない前衛(革命の司令部)みたいなものに「召喚」されたくないと思っていた。吉本氏の著作を読むと、マルクス主義者(ないし、シンパ)でも、そんな前衛の言うことを聞かなくてよい、と納得できる。こういう吉本氏のはたらきは、「無教会派の祭司」だったのだ。

 こうした転換を、思想史のなかに探るなら、ホッブズの『リヴァイアサン』に思い当たる。ホッブズがここで証明しようとしたのは、地上に「普遍的教会」が存在しないことだった。カトリック教会は当時、人びとの救済を保証する「普遍的教会」と称していた。これに対してホッブズは、プロテスタント神学を駆使して論争する。救済する/しない、は神の権限で、人間(の集まりである教会)は手が出せたい。だから「普遍的教会」は存在できない。ゆえに、救済の日まで人びとの地上の生活に責任をもつ、主権国家が必要になる。「契約」がそれをうみ出す、というのがホッブズの独創的な主張だった。近代の出発点である。

 20世紀後半の、冷戦の本質はなにかと考えると、「普遍的教会」が存在するかをめぐる対立だったとみえてくる。ソ連はプロレタリア国際主義を掲げ、世界が政治的に統合されるべきだとした。アメリカなど自由主義諸国は、いくつもの主権国歌と単―の市場経済が存在すべきだとした。共産党は、姿を変えたカトリック教会だった。日本の新左翼各派は、プロテスタント諸派にあたる。これに対して、一切の教会は存在すべきでないとした吉本隆明氏は、無教会派にあたる役割を果たした。結果的に、冷戦は崩壊し、「普遍的教会」(ポストモダンの言い方では、大きた物語)は消滅した。吉本氏は冷戦下で、ポスト冷戦の世界を射程に収めた考察を深めていたのである。

■注目すべきポイント
 このように考えるなら、吉本隆明氏の思想的スタンスは圧倒的に優れている。だが同時に、注目すべきポイントもいくつかある。
 まず第一に、吉本氏は、「普遍的教会」のドグマに抗して、ふつうの人びとの人間性を守ることを主張した。ドグマは崩れ、吉本氏の主張は勝利した。

 第二に、吉本氏は、ドグマによらない、人間性についての科学的追究を必要とした。『共同幻想論』(政治科学)や『言語にとって美とはなにか』(言語科学)である。これらは、ドグマに対する重要な異論として意味あるものだが、未完成である。

 第三に、「普遍的教会」に抗した自由主義世界に対する吉本氏の態度は、両議的となった。市場経済に対しては肯定的、主権国家に対しては否定的だからだ。ところが自由主義世界は、市場経済と主権国家をセットにしたもので、両者は不可分の関係にある。大企業に就職したものの政治的なコミットはしないという団塊の世代の姿勢は、80年代以降の古本氏の姿勢と重なるところがある。吉本氏は「自立」を語ったが、「自己権カ」とは言わなかった。なぜか。

 吉本隆明氏の思想とホッブズを、再び対比してみよう。ホッブズは、自然状態を「よくないもの」と想定した。そこでは人びとが、めいめいの生存をかけて争い、その人生は暗く、悲惨で、短い。その自然状態を克服するために、権力(主権国家)が要請される。いっぽう吉本隆明氏は、権力(主権国家)のない自然状態を、「よいもの」と想定する。自然状態が「よいもの」であるなら、権力(主権国家)は要請されない。「普遍的教会」を否定するところは同じでも、その帰結は異なるのである。

 それはともかく、再び言おう。吉本隆明氏の仕事は、時代をはるかに越えていた。その真価が理解されるのは、時代が吉本氏に追いついてからである。一人の人間が一生の間になしとげたとは思えないほど、膨大な仕事が遺された。しかもその内容は、文学から政治、宗教、社会思想まであまりに幅広い。若い世代の人びと、いまの高校生、いや小学生のなかからすぐれた批評家が現れて、吉本隆明氏の思想について本格的な評論を著わす日を、楽しみに待ちたい。

橋爪大三郎(はしづめだいさぶろう)1948年神奈川県主まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。「永遠の吉本降明」など著書多数。

(中央公論 2012ー5)



吉本隆明氏の遺言

■闘う言論人
 誰もが「右へならえ」をしている最中に、批判を承知で異論を唱えてきたのが吉本隆明氏だった。かつて本誌で「反原発」の機運を、「猿になる!」と喝破した吉本氏。日本を代表する思想家はなぜ反原発を叱ったのか。インタビューで語っていた「遺言」をお届けする。
 「我々の世代が吉本さんを熱烈に支持したのは“自分に嘘をつかない”という倫理的な信頼感があったからです。誰もが反対しにくいことで、それが損になることが分かっていても異議を唱えた。基本的な姿勢がブレない思想家だったからです」(明治大学教授でフランス文学者の鹿島茂氏)

 戦後を代表する思想家であり、「知の巨人」といわれた吉本氏。反権力でありながら既成の左翼を厳しく批判し、著作「言語にとって美とは何か」や「共同幻想論」では、文学や国家、家族への探求を試みた。1980年代に入ると漫画やファッションにも視点を移し「コム・デ・ギャルソン」の広告出演を巡っては作家・埴谷雄高氏と激しく論争を繰り.返すなど、徹底して「闘う言論人」でもあった。

 吉本氏とは30年来の付き合いで、亡くなる前日にも病院を見舞った共同通信の元文化部長・石森洋氏が明かす。
 「ここ1年、吉本さんの体調に変わったところは特になかったのです。それが、今年の1月に風邪をこじらせて肺炎になってしまいましてね。それでも、いったんは回復して家族とも普通に話をしていたのですが、(日医大病院に入院した〕1月22日ごろからだんだん衰弱が激しくなってきたのです」

 最期を看取った長女の多子(さわこ)さん(漫画家のハルノ宵子〕も言う。
 「“がんばる”とか“うんうん”と返事ができたのが3月13日ぐらいまででしたか。それからはもう会話はあんまりできませんでした。本当に、眠るようにスゥーッと意識が.下がってゆく感じで……」
 16日の午前2時13分、吉本氏は眠るように息を引き取った。享年87。
 
■「反原発」で猿になる!
 最近は糖尿病で目や足腰も衰えていた吉本氏だが、先の大震災に際しても積極的に発言を続け、最後まで“現役”の思想家であり続けた。その吉本氏が思想家として最後に発言したのが、本誌の新年特大号(1月5・12日号)に載ったインタビューだ。
 〈「吉本降明」2時間インタビュー「反原発」で猿になる!〉

 そう題された記事では、最近の反原発の風潮に“恐怖感”から来るものでしかないと叱責し、原子力とは人間が生み出した文明そのものではなかったかと改めて間うている。そして、最近の反原発の風潮を、バッサリ斬ってみせた。
 「人間が猿から別れて発達し、今日まで行ってきた営みを否定することと同じなんです」

 全共闘世代から熱狂的な支持を受けてきた吉本氏のイメージからすれば、この主張は異質に見えるかも知れない。インタビューが出たあと、“反原発文化人”から「科学技術信仰の化石」と批判されたり、次女のよしもとばなな氏も当惑したように、
 〈私が話したときは基本的に賛成派ではなく廃炉と管理に人類の英知を使うべきだ的な内容ではないかと察します〉

 とツイッターで言及するという事態にもなった。もっとも、インタビューでも語っているように吉本氏は「原発推進派」ではない。経済的な利益から原発を推進したいという考え方には与しないと明言しているからだ。そして、吉本氏が主張する“原発問題”の焦点は、そこではない。
 「原発の存否を決めるのは、『恐怖心」や『利益』より、技術論と文明論にかかっていると考えるからです」(インタビューより)
 高齢にもかかわらず、質問にじっと耳を傾け、時には手振りも交えて熱っぽく語った吉本氏。その考えは、原発事故があってから思いついた、というレベルではない。
 
■反核署名運動に猛反発
 吉本氏が“核”の問題について本格的に発言するようになったのは、1980年代初頭のことだ。作家の中野孝次氏らが始めた反核署名運動に猛反発し、“反核文化人”を手厳しく批判したのである。

 「当時、アメリカのレーガン政権はソ連に対抗し、核弾頭を搭載したICBMを大幅に増やしていたことから、反核の機運が盛り上がったのです。しかし、吉本さんは“アメリカを批判するのであれば同様に核ミサイルを保有するソ連(ロシア)も批判するべきだ。それをせずに核批判に走るのは、ソ連によるポーランドの民主化運動潰しを助長するだけではないか”と猛反発したのです」(深夜叢書杜代表であり文芸評論家の齋藤愼爾氏)
 反核という「絶対善」。徒党を組んでそれを声高に叫び、強要する姿も吉本氏には許せないことだった。もちろん、当時の反核運動と今回の原発事故とは事情も背景も違う。だが、吉本氏は著書「『反核』異論」(1982年・深夜叢書社)で、すでに原子力についても喝破している。

 〈自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」工ネルギイの統御(可能性〕を獲得したと同義である。また物質の起源である宇宙の構造の解明に一歩を進めたことを意味している〉
 さらに、反原発闘争を繰り広げる運動家たちについても、こう批判した。

 〈更新性のエネルギーに依存して(つまリ石油・石炭・薪・木炭生活ということか?)生態系の物質循環のなかで定常的な生活を夢みる暗黒主義者、原始主義者に転落してしまうのだ〉
 どうだろう。やはり、当時から吉本氏は全くブレていない。

 「吉本さんが語っていたのは、何かの技術が開発された時は、当然その危険性を制御する技術も考えられなければいけない。今回の原発事故に関して言えば、事故が起きたからと言って原子力の技術を捨ててしまうのではなく、危険性をどう小さくするか考えるべきだというのが吉本さんのスタンスなんです」(齋藤氏)
 本誌のインタビューの際にも吉本氏は、こう話している。

 「(原発を存続させるかどうかは)まだ、今の段階で賛否を問うほうがおかしいのです。人間はある技術を開発すると、失敗してもその部分を補って再スタートする。そのうちまた別の危険が出ると継ぎ足しで防御策を講じる。文明とはそういうことの連続だということを忘れてはいけない。危険が現れるたびに対策を講じるというイタチゴッコ、それを延々とやってきたのです。そのことを否定することはない。そして軽薄に反対するべきでもない。それが文明の姿形なのですから」

 「原爆を保有する国が一度に全部を発射すれば、人類は滅亡すると言われています。人間はそういうものを作ってしまったという大矛盾を抱えているのですが、人類滅亡の危険を避けながら、やっとここまでやってきた。しかし、原水爆でお互いを牽制しながら片方で(平和利用の)原発は危ないからやめましょう、というのは妙な話です」
 
■激しく考え、優しく語る
 インタビューの際もそうであったように、吉本氏の素顔は著作で論争相手を罵倒するイメージとは程遠い。
 実際、訪ねてきた人は誰でも家にあげお茶やお菓子をふるまうこともあった。前出の斎藤氏もそうだ。
 「1960年ごろのことですが、当時、まだ山形大学の学生だった私は友人と一方的に吉本さんのお宅に押しかけたのです。単なるファンとしてですよ。でも吉本さんは嫌な顔ひとつせず、座敷にまであげて、随分遅くまで話に付き合ってくれました」
 この体験から、齋藤氏はのちに出版社を興して吉本氏の本を手がけることになる。

 前出の石森氏も言う。
 「吉本さんは96年に西伊豆で危うく溺死しそうになったことがあるのですが、そのあと『進め!電波少年』という番組が“水への恐怖心をなくして頂く”という企画で突然押しかけてきたことがあった。それは、水を張った透明プールに顔をつけてブクブクやるというものですが、吉本さんは嫌な顔ひとつせずやってあげたのです。さすがに周囲から失礼じゃないかという声が上がりましたが、本人は“テレビについて色々書いている人間が、こんなことを断ってちゃしょうがないよ”と瓢々としていました」

 夏になると約ーカ月間、家族を伴って西伊豆で保養するのが毎年の慣わしだった。その様子は、よしもとばなな氏の『TUGUMI』にも登場するが、実際には吉本家とその友人などが入れ替わりで西伊豆を訪れ、ばなな氏が作家としてデビューすると、その担当編集者も加わって50〜60人にも膨れ上がったという。

 吉本氏と40年来の交流がある宗教学者の山折哲雄氏が言う。
 「吉本さんがどういう人だったかを端的に表現すれば、激しく考え、優しく語る。生涯をかけてそれを体現されたのだと思います」
 吉本氏、今ごろはあの世でかつての論敵にもこう言っているかもしれない。
 「『反原発」で猿になる!」
 
(週刊新潮 2012ー3ー29)



目次   


inserted by FC2 system