人間を幸福にしない日本というシステム 2013年版
カレル・ヴァン・ウォルフレン



■「官僚」を誰も制御できない
 自民党勝利の前から、「政権交代」は起きていた……それが私の実感である。野田佳彦・首相時代に、すでに「官僚独裁主義」は完全復活を遂げていたからだ。彼は財務省の言いなりとなって消費増税を断行し、各省庁の希望通りに公共事業を復活し、民主党がマニフェストに掲げた「脱官僚」や「コンクリートから人へ」といった改革への期待を裏切った。

 今回勝利した安倍自民党は、単にその流れを引き継いたにすぎない。官僚にとっては、野田政権よりさらに扱いやすいだろう。民主党は、官僚とどう付き合っていけばいいかという経験則がなく、それを作り上げる時間もなかったが、自民党は様々な方法やレベルでそれを熟知している。つまり、より官僚と馴れ合いの関係になるということだ。

 フランスには、「物事は変われば変わるほど、同じであり続ける」ということわざがある。これこそ日本に当てはまる言葉だと、かねて大勢の友人がいっていたが、私は今回の選挙結果を受けて、改めてそのことを確信した。
 日本の権力システムが、多くの人々に自分は不幸だという意識を抱かせている……そのことに着目し、私が『人間を幸福にしない日本というシステム』を書いたのは1994年のことだ。それから約20年が経って画期的な政権交代が起き、私自身、一度はこのことわざは間違いだったのかと思ったこともあった。

 しかし、その思いは残念ながら裏切られた。このたび私は、前著を大幅改稿し、『いまだ人間を幸福にしない日本というシステム』を上梓した。つまり、そうした社会的変化があったにもかかわらず、「日本というシステム」の根幹は全く変わることがなかったのである。それどころか、今回の自民党の勝利によって、このシステムはさらに強固になった。

 システムとは、国家や法律とは別に、日本人の生き方を、またこの国の支配構造を決定する仕組みのことをいう。日本にはシステムを構成する権力者たちが多数いるが、この国は彼らによって押されたり、引き戻されたり、漂わされることはあっても、率いられることはない。権力の中心が不在であること、それが「日本というシステム」の本質である。

 この権力システムの代表が、官僚である。官僚たちは、業界団体に天下りした元官僚たちや、高度に官僚化された巨大な系列グループ(かつての財閥)の企業経営者とともに、この国の「管理者」として振る舞ってきた。また本来、権力を監視すべきメディア、特に有力新聞の編集幹部も、官僚の味方をすることでシステムの一翼を担っている。

 日本の官僚グループは、限られた範囲内で思い思いに行動する。省庁や業界といった各管轄の中で、官僚主導の「小国家」がそれぞれ形成される。日本の行政システム全体は、そうした小国家の連合から成り立っている。

 日本の官僚制度に関して私がもっとも興味をそそられ、また一番恐ろしいと思うのは、それを誰も支配していないということだ。官僚を如何にコントロールするかは、現在世界に共通する課題だが、たとえば米国では、いかに優秀な官僚グループであろうとも、大統領の任期である4年ごとに顔ぶれが変わる。だが、日本では逆に政権が代わっても、官僚だけが変わらずに管理者の地位に居続ける。また、欧米では官僚の権限は法律で制限されているが、日本ではそもそも法律を考えるのが官僚であり、彼らの暴走を止める手立ては何もない。

 官僚たちはメンツを保つため、あるいは正確な内容が明らかになれば決して国民に支持されないような計画を推し進めようとして、メディアを通じて虚偽の説明をする。しかも日本の新聞の大半は、国民に政治の、そして究極の現実を伝えることが自らの使命だとは考えていない。そうして「偽りの現実」が流布する。

 大蔵省(当時)が先導して1980年代に発生し終息した「バブル経済」で、政治エリートたちが本当の経済状況を隠蔽した姿勢と、福島第一原発事故後にも原発に固執した官僚たちが、放射能に関する正しい情報を伝えようとしなかった姿勢には、何の変化も見られない。

 あれほどの悲惨な事故が起きたにもかかわらず、官僚たちはなお原発という既定のプログラムをそのまま継続するのみで、高レベルの政策変更を行なおうとしなかった。官僚組織には、それぞれ行き届いた集団的な記憶があって、それは個人の記憶よりはるかに価値がある。だからこそ、官僚は過去の自分たちに過ちがあったと示唆するような政策変更ができない。「原子力村」とは、そうした記憶の集合体であり、彼らに脱原発という発想は生まれようがなかった。

■小沢一郎への「人物破壊」
 政権交代で民主党が叫んだ「脱官僚」の本当の意味は、ここにあった。小沢一郎氏の理念とは、この「人間を幸福にしない日本というシステム」からの脱却だった。だからこそ彼は、官僚と、業界団体と、そしてメディアと対立した。

 そうして起きたのが、検察官僚らによる冤罪起訴と、彼らと手を組んだ有力新聞による小沢氏への徹底した「人物破壊」である。小沢氏に対する攻撃は、1995年の自民党離党・新生党結成以来20年の長きにわたって続いてきたが、政権交代がさらに拍車をかけた。これほど長期かつ大規模に個人を標的にした「人物破壊」は、世界に類を見ない。

 解散の直前、小沢氏の無罪が確定したが、「人物破壊」によって、すでに彼の政治的影響力は相当削がれていた。
 一方、彼を排除した民主党は、その時点で「日本というシステム」の抜本的改革を有権者に公約し、信頼を集めたはずの政党から、官僚の言いなりとなり、システムを継続する政党へと、変質してしまった。

 震災復興の失敗はその象徴である。民主党は震災後、官僚独裁主義を克服して、被災地のインフラ整備や、太陽光発電投資などの新たな国家政策を打ち出すべきだったのに、官僚にイニシアチブを奪われ、自民党時代のような旧来型の公共事業が復活してしまった。
 私は、いまこの国で行なわれているのは、「震災復興」ではなく、「戦後復興」の継続だと考えている。

 日本で戦後目標となった経済の再建は、終戦後は確かに道理にかなったものだったが、それが自動的に生産能力の拡大政策に切り替わり、戦後60年以上たった今も、変わることなく続いている。官僚たちは、「国が無限の産業発展を続ける」という集団的記憶をいまだに守り続けているのだ。

 日本はすでに過剰設備の状態にあるが、誰も「我々はすでに十分に成長したのだから、今度は違う政策を試してみようではないか」とはいわない。震災はそれを転換する大きなきっかけとなるはずだったが、その機会は残念ながら失われてしまった。

 その後を引き継ぐ自民党の考えも、もちろん同様である。安倍氏は「日本は経済再生のためにお金を使うべきだ、公共役賓が必要だ」と繰り返し説いている。だが、そのお金はどこに流れていこうとしているのか。国会議員たちが自分たちの選挙区向けに全く必要のない橋やトンネルにお金をつぎ込む。これまでに慣れ親しんだ「戦後復興プログラム」そのものではないか。

■「もちつもたれつ」
 かくして、本気で改革の舵取りをしようとする政治家を押しのけて、自動操縦装置任せで目先の利益に左右される政治家が選ばれた。そして、「日本というシステム」の一翼を担ってきた自民党政権が復活したのだから、この選挙結果は確かに悲劇というほかない。

 安倍氏は、彼自身がいかに改革を志向していたとしても、官僚にとって野田氏より扱いやすい人物となるだろう。私は『週刊ポスト』前号の「日本史上最高のリーダーは誰か」という問いに、田中角栄、中曽根康弘、そして小沢一郎の3氏を挙げた。それは、彼らが確固たる信念を元に、官僚と対時する覚悟と能力を備えていたからだ。だが、安倍氏にはそうした信念がない。

 「中国とは友好な関係を築きたい」と現実的な発言をする一方で、靖国神社参拝のようなシンボリックな行動を標榜する点に、信念の欠如による矛盾や混乱を感じる。そうしたあいまいな姿勢では、旧来の自民党と官僚の関係は到底変えられまい。
 日本の政治決断の仕組みについて、日本の政治学者・丸山真男はこう述べている。

〈決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の暖昧な行動関係(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。〔中略〕無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している〉(『日本の思想』岩波新書、1961年)

 この指摘は全くその通りだが、より正確には「責任」ではなく「説明責任」を間われないことが問題なのだ。官僚たちは、日本の方向性を変える政策を決定する必要があるかどうかに関しても、説明を求められない。たとえば原発再稼働では、官僚も政治家も電力会社も、誰も原発を継続することに「説明責任」を持たなかった。一方で官僚らは一部の有力新聞を使って、いまなお原発が必要だという「偽りの現実」を国民に植え付けようとした。

 そのおかげで、原発が再稼働されたのは事実である。しかし、そのとき同時に、希望も芽生えた。
 「原発がなければ大停電が起きて生活に支障が出るぞ」などと国民を脅迫する政治手法を目の当たりにしたことで、日本人の政治への信頼は戦後最大レベルで失墜した。説明にエビデンス(証拠)は提示されず、それどころか政府にとって都合の悪い情報を隠してきた。そうした政治に対する怒り、そしてそれが続いていく恐怖が、それまで政治活動に関わることのなかった「普通の日本人」を突き動かすことになった。それが官邸前の大規模な脱原発デモの本質である。

 今回の選挙で、そうした政治的に目覚めた人々の動きが投票結果に結び付かなかったことは残念でならない。それは、大多数の国民がいまだに正しい情報を持っていないからだ。脱原発デモに大メディアは全く関心を示さず、国民にも広く認知されたとは言い難かった。
 しかし、09年の総選挙で大きな政治変化が可能であることを日本国民は目の当たりにし、脱原発デモによって「偽りの現実」から脱却しようとする流れも発生した。

 鍵となるのは若者たちだ。日本の若者はいまだに、政治に関する正しい情報を持たず、官僚にとって都合のいい無関心な状態に置かれている。彼らが目覚め、新聞を疑い始めたときに、本当の変化が始まる。「人間を幸福にしない日本というシステム」から脱却すべきであることをすべての日本国民が知るときは、決して遠い将来ではないと信じている。

【カレル・ヴァン・ウォルフレン】
 ジャーナリスト、アムステルダム大学名誉教授。1941年、オランダ・ロッテルダム生まれ。72年よりオランダ『NRCハンデルスブラット』紙の東アジア特派員、82年より日本外国特派員協会会長を務めた。著書に『日本/権力構造の謎』『人物破壊 誰が小沢一郎を殺すのか?』など。

(週刊ポスト 2013−1−1)



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