あなたがアンパンマン





■届けた勇気、根底に戦争体験
 世代を超えて愛されているアニメ「アンパンマン」の作者、やなせたかしさん(94)が亡くなった。「かっこ悪くても、弱い人たちを助けたい」。作品に込めた思いを貫き、東日本大震災の被災地などの支援に取り組んだ。少年時代の「故郷」も大切にし続けた。 代表作の主人公、アンパンマンはかっこ悪い正義のヒーローだ。得意技のアンパンチでばいきんまんをやっつけるが、相手が倒れるほど徹底的には痛めつけない。おなかがすいた子どもに自分の顔をちぎって食べさせ、ヨレヨレになる。

 「声高に語る正義はうそくさい」「正義も悪もない。唯一ある正義はひもじい者に食わせることだ」。飢えた人を助ける新ヒーロー誕生の裏には、飢餓に直面した戦争体験があった。
 1941年に入隊し、中国大陸で終戦を迎える。代表作「手のひらを太陽に」の「ミミズだってオケラだって アメンボだって みんなみんな生きているんだ 友だちなんだ」の歌詞も、戦争で得た死生観に裏打ちされたものだった。

 東日本大震災直後から、被災地支援を続けた。ラジオで繰り返し「アンパンマンのマーチ」が流れ、被災地の子どもたちからアンパンマンあての手紙が届く。既に周囲に引退の考えを告げていたが、「引退はやめた。死ぬまで現役だ」と宣言。「ああアンパンマンやさしい君は いけみんなの夢まもるため」と書いたポスターを描いて配った。

 岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」には、特に熱い思いを抱いていた。枯死した一本松の保存のために1千万円を寄付。自ら作詞作曲した歌「陸前高田の松の木」にはこんな歌詞がある。「ぼくらは生きる 負けずに生きる 生きていくんだ オーオーオー」
 季刊誌「詩とファンタジー」の編集で親交のあった山本太平さんは「こんな時代だからこそ、悲しみや喜びを平易な言葉で歌う叙情詩が必要、とよく話していた。アンパンマンのように、弱い者を助ける姿勢を貫き通された」と話す。アニメ放映は今後も続き、来夏には映画も公開される。

 やなせさんの葬儀は15日午後、事務所スタッフら60人ほどで行われた。棺の中で、アンパンマンなど自身が生み出したキャラクターのぬいぐるみに囲まれて、見送られたという。

■故郷でも尽力、悼む声
 やなせさんが少年時代を過ごした高知県。県東部の南国市と奈半利町を結ぶ土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の駅では、愛らしいキャラクターが乗客を出迎える。「ごめんえきお君」(後免駅)、「あきうたこちゃん」(安芸駅)……。全20駅すべて異なるキャラクターは、やなせさんが無償でデザインした。

 母校の県立高知追手前高校(高知市)のイメージキャラクター「追手前OOくん」と「ギンコちゃん」も作った。依頼した校友会特別顧問の井上博史さん(82)によると「母校のために役立つのは名誉なこと」と快く引き受けてくれたという。
 やなせさんが幼い頃に住んだ旧香北町(現・香美市)は1994年にやなせさんを名誉町民に選び、96年に町立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアムを開館。やなせさんも名誉館長として設計から携わった。

 アンパンマンミュージアム振興財団理事長の野島民雄さん(81)は「たくさんの仕事を依頼しても、高知のためならと、無償で快く引き受けてくれた。子どものころに両親と別れ、戦争で弟さんを亡くした。苦労をした分、人に優しく、まさにアンパンマンのような正義の味方だった」と話す。

 やなせさんの自宅跡は香美市内にある。「ここ(自宅跡)で眠りたい」。生前、やなせさんは野島さんにそう話したことがあり、財団はお墓をつくる工事を姶めていた。

 今年4月に神戸市中央区にオープンした「神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール」。仙台市の小学1年田辺真樹くん(6)は母親と15日、小学校の休みを利用して足を運んだ。東日本大震災のとき、暖を取るために夜を過ごした車の中でラジオから「アンパンマンのマーチ」が流れ、元気づけられた。昨年、仙台のミュージアムを訪れた際、ステージ上で歌うやなせさんの姿を見たという。真樹くんは「アンパンマンはずっと好き。やなせ先生に会えなくなるのは悲しい」とうつむいた。


(朝日新聞 2013-10-16)



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