マララさんにサハロフ賞





■学校に行けない子に1冊の本と1本のペンを
 パキスタンで女子教育の権利を訴え、武装勢力に頭を撃たれた女子学生マララ・ユスフザイさん(16)が20日、フランス・ストラスブールにある欧州連合(EU)の欧州議会で、人権や表現の自由を守る活動をたたえる「サハロフ賞」を受賞した。ノーベル平和賞は逃したが、称賛の声はやまない。欧州議会は、マララさんが暴力に屈せず、「すべての子どもが教育を受ける権利のため勇敢に闘った」ことを評価した。

 マララさんは演説で、世界で5700万人の子どもが教育の機会を奪われている事実を挙げ、「国の強さを決めるのは兵士や武器の数ではなく、識字率や教育を受けた人々の多さだ。考え方を変えよう」と指摘。
 「(学校に行けない)子どもたちが欲しいのは、iPhone(アイフォーン)でもチョコレートでもない。1冊の本とi本のペンだ」と話し、支援を呼びかけた。

■学ぶ、闘う、変える
 マララさんとは、どんな少女なのか。ゆかりの人々の証言から、足跡をたどった。
 ヒマラヤ山脈に連なる峰々を望むパキスタン北部シャングラ地区で1997年、マララさんは生まれた。生家を守る伯父のサイード・ラマザンさん(56)は感慨深げだ。「小さかったあの子が世界的人物になるとは」

 祖父の代からの教員一家。父ジアウディンさんはマララさんが幼い時、車で4時間のスワート渓谷ミンゴラに移住。財産をつぎ込み、私立学校を開いた。親たちが学校や教育の話をし、家に本があふれる環境で、マララさんは育った。
 「どんな本を読んでいるの? 勉強しなきゃだめだよ」。たまに村に帰ると、マララさんは近所の子供らに諭した。「教育の伝道師みたいだった」と、ラマザンさんは笑う。

 英語への情熱は父の勧めだったようだ。親戚の子供らを聴衆に、英語でスピーチの練習。からかわれてもお構いなしで熱弁をふるった。長老らが話す席で突然、自分の意見を言って驚かせたことも。厳格なパシュトゥン人社会では異例だ。「はっきり物を言う勇気が私は気に入った」。ラマザンさんはそう振り返る。

■支配下の生活、名前伏せ発信
 2007年、生活は暗転する。反政府武装勢カタリバーンがスワート渓谷一帯を支配下に置き、標的としたのが女子教育だった。
 英BBC記者だったアブドル・ハイ・カカールさん(38)は、タリバーン支配下の生活を日記に書いてくれる少女を探していた。頼ったのが旧知のジアウディンさんだった。

 マララさんがパキスタンの公用語ウルドゥー語で書いた日記を毎晩、カカールさんが電話で聞き取り、BBCのウルドゥー語のプログに掲載した。プログでは年齢を実際より二つ上の13歳とし、「グルマカイ(トウモロコシの粉)」というペンネームを使った。09年1月の開始直後からプログは大きな反響を呼んだ。

 プログの終わりが近づいた同年2月、州都ペシャワルの集会で、当時11歳のマララさんは言い放った。「私の名はグルマカイではありません。マララ・ユスフザイ。他の誰でもない」
 メディアの寵児となったマララさんは、少女たちの教育の権利を訴え続けた。ネット上にマララさんが米政府高官と「面会」する真偽不明の写真が出回った。

■銃弾に負けず、視線は世界へ
 伯父は故郷の村に逃れるよう勧めたが、父ジアウディンさんは断った。「子供たちの教育を中断できない。マララも前へ進む」
 だが、懸念は現実となる。12年10月、タリバーンの銃弾がマララさんの頭を貫き、意識不明になった。

 英国に搬送されたマララさんは奇跡的に回復。今年7月には国連で演説し、再び世界の共感を呼んだ。女子教育を支援する「マララ基金」が設置され、米女優アンジェリーナ・ジョリーさんらも協力し、スワート渓谷の少女40人への援助が決まった。9月、英国でマララさんと再会したカカール記者は言う。「素朴な少女のままだった。違うのは、視線の先が世界に広がったこと。宗教、イデオロギー、多様性、寛容……。そんな言葉があふれ出てきた」

 マララさんと共に負傷した親友カイナートさん(16)も渡英し、再会を喜び合った。「マララがいたから私たちは学校に通い続けることができた。マララは私たちに勇気をくれる」

(朝日新聞 2013-11-21)



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