浄土真宗は一神教か  五木 寛之(新・地図のない旅、琉球新報)



 以前、ある若いお坊さんと、スターバックスでお茶を飲みながら雑談をした。
 地方の古いお寺の副住職である。京都の仏教系の大学を出て、高齢の住職である祖父を支えておられる青年僧侶だ。
「あなたのお父さんは、お寺を継がれなかったのですか」と、きくと、なんとなく言いにくそうに、
「いや、祖父があまりにも頑固なもので」

 聞けば住職は昭和5年生まれの90歳でいらっしゃるとか。
「90歳! それは凄い」
「はい。寺の勤めも、檀家まわりも完璧にこなす元気印でございます」
 そう言いつつも、ちょっと首をかしげて、「ただ、一徹すぎるところが問題でしてね」
 話を聞いて、なるほどと苦笑してしまった。

 月に一回、寺で催している法話の会では、駐車場の入口で、やってくる車を一台ずつご本人がチェックなさるのだそうだ。
「なにをチェックするんですか」
「ほら、運転席によく交通安全のお札がさがっていたりするでしょう」
「ああ、神社のお札ですね」
「そういう車は駐車場に入れないんです。いくらなんでもどうかと思いませんか」
「うーん」

 そのお寺は浄土真宗のお寺である。親鸞、蓮如の法脈をつぐ真宗には、「弥陀一仏」(みだいちぶつ)とか、「神祇不拝」(じんぎふはい)という言葉がある。他の諸神、諸仏にすがることなく、ただひたすら阿弥陀如来に帰依(きえ)する一筋の信心をすすめる言葉だ。その言葉を徹底させると、神社のお札もだめだ、ということになるのだろう。
 一徹すぎるその姿勢が、「門徒もの知らず」などと世間の批判をもたらすことになったのかもしれない。実際には親鸞も蓮如も、「諸神諸菩薩を軽んずべからず」という立場をとっている。

 浄土真宗の「弥陀一仏」を一神教的だと批判する人に対して、金子大栄(かねこ・だいえい)師は「選択的な一神教である」と反論した。他の神や仏を認めないわけではない。そこで下手な歌を一首。
〈世の中に多くの母はいませども、わがたらちねの母はこの母〉と、いった感じだろうか。

 友達のお母さんに出会ったら敬意をこめてご挨拶すればよいではないか、と私は思う。しかし、頑固一徹な老住職の姿を想像して、ふと微笑がこみあげてくるのを禁じえなかった。
 いまでもピュアーな真宗のお家では門松は立てないし、七五三の行事もしない。ましてクリスマスは、と思ったら、クリスマスケーキをどうしても食べたい、というお嬢さんの涙ながらの願いを断り切れずに、ケーキを買ったパパもいたらしい。
「額に王法、心に仏法」と言った蓮如は、後世、おおいに批判された。
 とかく世の中はむずかしい。むずかしいが、おもしろい、と言ったら叱られるだろうか。

※蓮如=室町中期の僧。本願寺第8世。浄土真宗の中興の祖。  たらちね=母、親

(琉球新報 2021-2-14)



目次   


inserted by FC2 system