陰陽道

     安倍晴明

1.概略
  陰陽道(おんみょうどう)は、古代の中国で生まれた自然哲学思想である陰陽五行説を起源として、日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系です。「いんようどう」とも読みます。陰陽道に携わる者を陰陽師といい、陰陽師集団のことも陰陽道と呼びます。

2.教祖・重要人物
「安倍晴明」(921〜1005)
 安倍晴明(あべのせいめい、あべのはるあきら、延喜21年〜寛弘2年)は、平安時代の最も有名な陰陽師であり、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖である。

 当時最先端の呪術・科学であった「天文道」や占いなどの陰陽道の技術に関して卓越した知識を持ったエキスパートであり、平安貴族たちの信頼を受けた大陰陽師で、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいった。道摩法師(蘆屋道満)とはライバル関係にあった。また、平将門の子の平将国が安倍晴明ではないかという説もある。

 (史実上の晴明)
 安倍晴明は、大膳大夫の官にある下級貴族安倍益材(あべのますき、安倍保名)の子として摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれた。幼少の頃、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授された。
 960年、当時天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は、村上天皇に占いを命ぜられた。その後、天文博士の官に任ぜられる。

 979年、59歳の晴明は皇太子(のちの花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行う。このころから花山天皇の信頼を受けるようになったようで、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになったことが、道長の日記『御堂関白記』などの当時の貴族の日記から分かる。

 陰陽師として名声を極めた晴明は、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官を歴任し、位は従四位下にのぼった。さらに天文博士や陰陽助(陰陽寮の次官)に晴明の二人の息子安倍吉昌と安倍吉平が任ぜられ、安倍氏は晴明一代の間に師忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家となっていった。
 墓所は京都嵯峨にあり、渡月橋の近くにひっそりと眠っている。安倍晴明を祀る神社は、屋敷跡に建てられたという一条戻橋近くの晴明神社や、生誕地の大阪市阿倍野区に建てられたとされる安倍晴明神社など全国各地に存在する。

 また、子孫では平安時代末期の安倍泰親と室町時代初期の安倍有世が優れた陰陽師であったと言われている。有世は足利義満から信頼され、その推挙で陰陽師では初めて公卿となった。有世の子孫は室町時代後期頃から土御門家を名乗り陰陽道のみならず神道や暦などの分野にも大きな影響力を持つ事になる。
 
3.教典

4.本尊

5.教義
  日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違え、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げた。

 かつては専門の研究者によっても、陰陽家の思想が日本に伝わったものが陰陽道である、と説明されてきた。しかし、近年では、陰陽五行説が、自然界の万物は陰と陽の二気から生ずるとする陰陽思想と、万物は木・火・土・金・水の五行からなるとする五行思想を組み合わせ、自然界の陰陽と五行の変化を観察して瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う実用的技術として日本で受容され、神道、道教、仏教などからも様々な影響を受け取って日本特異の発展を遂げた結果誕生したものと考えられている。

6.歴史
 5世紀から6世紀頃、陰陽五行説が朝鮮半島を経由して仏教や儒教とともに日本に伝わったとき、陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられた。このような技術は、当初はおもに漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から俗人が行うことが必要となり、7世紀後半頃から陰陽師があらわれ始めた。

 7世紀後半から8世紀はじめに律令制がひかれると、陰陽の技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化された。陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられた。

 平安時代以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化が進んだ宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える迷信となった。これにともなって陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めていった。8世紀末からは密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受ける。

 10世紀には陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。忠行・保憲は晴明に天文道、保憲の子光栄に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は天文道・暦道を完全に取り込むとともに、天文道の安倍氏と暦道の賀茂氏が二大宗家として独占的に支配するようになった。

 平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、下級貴族だった安倍氏は公卿に列することのできる家柄へと昇格していった。中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏の宗家土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。

 幕藩体制が確立すると、江戸幕府は陰陽師の活動を統制するため、土御門家と賀茂氏の分家幸徳井家を再興させて諸国陰陽師を支配させようとした。やがて土御門家が幸徳井家を圧し、17世紀末に土御門家は民間の陰陽師に免状を与える権利を獲得して全国の陰陽道の支配権を確立した。江戸時代には、陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなったが、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着していった。

 明治維新後の1872年に至り、新政府は陰陽道を迷信として廃止させた。現代には土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県物部村(現 香美市)に伝わるいざなぎ流を除けば、ほとんど暦などに残滓を残すのみであるが、神道や新宗教などに取り入れられた陰陽道の影響は宗教として存続している。

7.宗派

8.主要寺院
  
9.その他
「陰陽五行思想」
 陰陽五行思想(いんよう<おんみょう>ごぎょうしそう)とは、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽思想と五行思想が結び付いて生まれた思想のこと。陰陽五行説(陰陽五行論)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。
 日本における陰陽五行思想は、仏教儒教と同じ5世紀から6世紀に日本には暦法などともに伝わり、律令により陰陽寮という役所が設置された。その後、道教の道術を取り入れて、陰陽道へと日本独自の発展をした。

「陰陽」
 陰陽(いんよう)とは、古代中国の思想に端を発し、森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物をさまざまな観点から陰(いん)と陽(よう)の二つに分類する範疇。陰と陽とは互いに対立する属性をもった二つの気であり、万物の生成消滅といった変化はこの二気によって起こるとされる。
 このような陰陽にもとづいた思想や学説を陰陽思想・陰陽論・陰陽説などといい、五行思想とともに陰陽五行説を構成した。

(概要)
 宇宙の最初は混沌(カオス)の状態であると考え、この混沌の中から光に満ちた明るい澄んだ気、すなわち陽の気が上昇して天となり、重く濁った暗黒の気、すなわち陰の気が下降して地となった。この二気の働きによって万物の事象を理解し、また将来までも予測しようというのが陰陽思想である。
 受動的な性質を「陰」、能動的な性質を「陽」に分類する。具体的には、影・暗・柔・水・冬・夜・植物・女などが「陰」であり、光・明・剛・火・夏・昼・動物・男などが「陽」である。これらは相反しつつも、一方がなければもう一方も存在し得ない。森羅万象、宇宙のありとあらゆる物は、相反する陰と陽の二気によって消長盛衰し、陰と陽の二気が調和して始めて自然の秩序が保たれる。

 重要な事は、陰陽二元論が善悪二元論とは異なると言う事である。 陽は善ではなく、陰は悪ではない。あくまでこの世界を構成する要素に過ぎず、両要素は対等、同等である。戦国時代末期に五行思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった。

(展開)
 陰と陽とはもともと天候と関係する言葉であり、陰は曇りや日影、陽は日差しや日向の意味として『詩経』などの古書に表れる。『春秋左氏伝』昭公元年に天の六気として陰・陽・風・雨・晦・明とあり、ここで陰陽は寒暑の要因と考えられ、また昭公四年には陰・陽・風・雨が季節を特徴づける気候の要因として扱われている。さらに『管子』幼官では明確に春の燥気・夏の陽気・秋の湿気・冬の陰気として寒暑の原因とされるとともに四季(四時)の気候が変化する要因として扱われている。これがやがて四時の気を統轄する上位概念となり、さらには万物の生成消滅といった変化全般をつかさどる概念、万物の性質を二元に分類する概念へと昇華されたと考えられる。

「五行思想」
 五行思想(ごぎょうしそう)は、古代中国に端を発する自然哲学の思想で、万物は木・火・土・金・水の 5 種類の元素から成るという説である。又、5種類の元素は、互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する、という考えが根底に存在する。西洋の四元素説(四大元素説)と比較される思想である。

(起源)
 五行思想は、戦国時代の陰陽家?衍(すうえん。?は{馬芻}。鄒衍と表記する場合もある,305年頃-240年頃)が理論づけたとされる。一説によると、元素を5つとしたのは、当時中国では5つの惑星が観測されていたためだという。春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった。

(五行)
 木(木行)・・・木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。「春」の象徴。
 火(火行)・・・光り?く炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。「夏」の象徴。
 土(土行)・・・植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。
 金(金行)・・・土中に光り?く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。収獲の季節「秋」の象徴。
 水(水行)・・・泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。「冬」の象徴。
 四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。

「暦注」
 暦注(れきちゅう)とは、暦に記載される日時・方位などの吉凶、その日の運勢などの事項のことである。暦注の大半は、陰陽五行説、十干十二支(干支)に基づいたものである。一般に、暦の上段には日付・曜日・二十四節気などの科学的・天文学的な事項や年中行事が書かれ、中段には十二直、下段には選日・二十八宿・九星・暦注下段などの非科学的・迷信的な事項が書かれる。また、六曜は日付の下に書かれることが多いが、これも暦注に入れる。暦注の日取りを決める方法を撰日法という。

「六曜」
 六曜(ろくよう)は、暦注の一つで、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の6種をいう。
 日本では、暦の中でも有名な暦注の一つで、運勢暦でなくても、普通のカレンダーや手帳にも記載されている。今日の日本においては定着しており、結婚式は大安に、葬式は友引を避けるなど、主に冠婚葬祭などの儀式と結びついて使用されている。六輝(ろっき)ともいうが、これは七曜との混同を避けるために、明治以後に作られた名称である。

 元々は、1箇月(≒30日)を5等分して6日を一定の周期とし(30÷5 = 6)、それぞれの日を星毎に区別する為の単位として使われた。即ち、七曜や旬のような使い方がされていたと考えられている。14世紀の鎌倉時代末期から室町時代にかけて中国から日本に伝来した。その名称や解釈・順序も少しずつ変えられ、現在では赤口以外は全て名称が変わっている。19世紀初頭の文化年間に現在の形になった。

 幕末頃から、民間の暦にひっそりと記載され始めた。それが、明治時代に入って、吉凶付きの暦注は迷信であるとして政府に禁止された事が、逆に六曜の人気に拍車をかけることとなり、第二次世界大戦後の爆発的流行に至った。
 六曜は孔明六曜星とも呼ばれ、諸葛亮が発案し、六曜を用いて軍略を立てていたとの俗説がある。しかし、三国時代から六曜があったということは疑わしく、後世のこじつけであるとするのが定説となっている。

 各六曜には、その日の吉凶・運勢が定められている。その内容は勝負事に関する内容が多く、元々は賭場の遊び人や勝負師などの間で用いられ出したものではないかと考えられている。
 一般的なカレンダーなどには広く用いられているが、公的機関が作成するカレンダーでは記載することを敬遠されることがある。これは民間信仰の宗教色が強いという事から、時折、キリスト教、仏教などでも六曜を使用しない宗教団体からの抗議があるため、無用な混乱を避ける為に採用しないものである。

 仏滅や友引という、仏事とか関わり合いそうな言葉であるが、仏教とは一切関係ない。仏教では、釈迦は占いを禁じているというのがその理由である。浄土真宗では仏法は阿弥陀一仏をあて頼りとして迷信、俗信に惑わされないという教えがあるため、特にタブーとされている。では、なぜ友引に葬儀が行われないのかというのは、葬儀をする側(仏教関係者以外)の都合で出来ないためなのが、逆に仏教の側の都合に替わってしまったためである。

 一部の人権団体が「六曜のような迷信を信じる事は差別につながる」として、積極的な廃止を求めている。大津市役所が作成した2005年版職員手帳が六曜を載せていたために、人権団体の抗議を受けて回収され、全て廃棄処分されるという事件も発生した。
(先勝)
 「先んずれば即ち勝つ」の意味。かつては「速喜」「即吉」とも書かれた。万事に急ぐことが良いとされ、また午前中は吉、午後は凶とも言われる。「せんしょう」「せんかち」「さきがち」「さきかち」などと読まれる。

(友引)
 「凶事に友を引く」の意味。かつては「勝負なき日と知るべし」と書かれていて、勝負事で何事も引分けになる日とされており、現在のような意味はなかった。陰陽道で、ある日ある方向に事を行うと災いが友に及ぶとする「友引日」というものがあり、これが六曜の友引と混同されたものと考えられている。葬式・法事を行うと、友が暝土に引き寄せられる(すなわち死ぬ)との迷信があり、友引の日は火葬場を休業とする地域もある。しかし、六曜は仏教とは関係がないため、友引でも葬儀をする宗派がある。「ともびき」という読みが一般的となっているが、中国語の「ゆういん」と読むことがルーツとなっており、訓読みとなって「ともびき」と当てはめたため、「友を引く」こととは関係がなかった。

(先負)
 「先んずれば即ち負ける」の意味。かつては「小吉」「周吉」と書かれ吉日とされていたが、字面に連られて現在のような解釈がされるようになった。万事に平静であることが良いとされ、勝負事や急用は避けるべきとされる。また、午前中は凶、午後は吉ともいう。「せんぶ」「せんぷ」「せんまけ」「さきまけ」などと読まれる。

(仏滅)
 「仏も滅するような大凶日」の意味。元は「空亡」「虚亡」と言っていたが、これを全てが虚しいと解釈して「物滅」と呼ぶようになり、これに近年になって「佛(仏)」の字が当てられたものである。この日は六曜の中で最も凶の日とされ、婚礼などの祝儀を忌む習慣がある。この日に結婚式を挙げる人は少ない。そのため仏滅には料金の割引を行う結婚式場もある。他の六曜は読みが複数あるが、仏滅は「ぶつめつ」としか読まれない。字面から仏陀(釈迦)が入滅した(亡くなった)日と解釈されることが多いが、上述のように本来は無関係である。釈迦の死んだ日とされる2月15日が旧暦では必ず仏滅になるのは、偶然そうなっただけである。

(大安)
 「大いに安し」の意味。六曜の中で最も吉の日とされる。何事においても吉、成功しないことはない日とされ、特に婚礼は大安の日に行われることが多い。また、内閣組閣も大安の日を選んで行われるという。しかし、本来はこの日に何も行うべきではないとする説もある。「たいあん」が一般的な読みだが、「だいあん」とも読む。かつては「泰安」と書いていたので、「たいあん」の方が本来の読みということになる。

(赤口)
 陰陽道の「赤目日」という凶日に由来する。六曜の中では唯一名称が変わっていない。午の刻(午前11時ごろから午後1時ごろまで)のみ吉で、それ以外は凶とされる。この日は「赤」という字が付くため、火の元、刃物に気をつける「しゃっこう」「しゃっく」「じゃっく」「じゃっこう」「せきぐち」などと読まれる。


「七曜」
 七曜(しちよう)とは、肉眼で見える惑星の火星・水星・木星・金星・土星と、太陽・月を合わせた7つの天体のことである。七曜星とも言う。近代天文学が発達する以前は、恒星よりもはるかに明るく、天球から独立して動くという点で、惑星と太陽と月は同種のものと考えられ、また世界各地で神々とも同一視され、特別の扱いを受けていた。また、七曜は順番に一日ずつを守護するともされ、ある七曜が守護する日をその七曜の曜日と呼んだ。これが現在の週のもととなっている。

 また、占星術では黄道と白道の交点(2つ存在する)を天体と同一視するが、インド占星術・インド古典天文学では、この2点を七曜に加えて九曜(九執)と呼ぶ。2点はそれぞれをラーフ(羅府、羅?)、ケートゥ(計都)と呼ぶ。日食と月食に関係がある。


※陰陽道は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 を参考にしました。


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