時 宗

     一遍


1.概略
 時宗(じしゅう)は、鎌倉時代の中期に一遍(いっぺん)が開宗した浄土教の一派です。各地を遊行(行脚)して「念仏」の札を配って歩く独自の布教方法と「踊り念仏」によって知られています。

2.教祖・重要人物
「一遍」(1239〜1289)
 一遍は延応元年(1239)、伊予国(いよこく、現・愛媛県)道後の豪族・河野道広(こうのみちひろ)の次男として生まれました。幼名は松寿丸。
 10才のとき母が死ぬと父の勧めで出家し、13才で九州大宰府(福岡県)の浄土宗西山派の聖達(しょうたつ)上人の下で10年以上にわたり浄土教を学びました。この時の法名は智真(ちしん)。

 25才の時に父の死をきっかけに還俗しましたが、一族の所領争いなどが原因で32才で再び出家しました。信濃の善光寺に参籠して、二河白道(にがびゃくどう)の図(浄土に往生を願う凡夫が信心を志してから往生するまでのプロセスを比喩によって示した図)に感銘し、伊予国の窪寺においてこの図を掲げて称名念仏の修行を続けました。その後、念仏を伝えるため一切を捨てて諸国を遊行し、六字名号を記した念仏札を配り始めました。このため「捨聖」(すてひじり)、「遊行上人」と呼ばれるようになりました。

 文永11年(1274)、熊野権現(紀伊・熊野神社)に百日間参籠した時、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受けます。この時から一遍と称するようになりました。
 その後、六字の名号(南無阿弥陀仏)に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した名号札を配るという独自の布教方法を編み出しました。各地で人々はこの名号札を受け、法悦に浸る「踊り念仏」の輪を広げていきました。一遍は51才で他界しました。

 ※「六十万人」とは・・・熊野権現の神託「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上上妙好華」の四句の頭文字をつづったもの。
 
3.教典
 「浄土三部経」(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)

4.本尊
 六字の名号(南無阿弥陀仏)
 (唱名)南無阿弥陀仏

5.教義
 法然も親鸞も救済される者の信心を問題にしましたが、一遍は単純明快に「ただ一心不乱に念仏すればよい」と説きました。善人も悪人も「臨命終時」、つまり毎日を臨終とこころえて、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば往生できると説きました。
 明日の命もわからない武士や生活に追われる農民にとっては、信心や仏教のいう浄・不浄など煩わしいことでしたから、多くの共感を得ました。
 
6.歴史
 門弟には、『一遍聖絵』を遺した異母弟ともいう聖戒や2歳年上の他阿(真教)らがいる。
 現在の時宗教団は一遍を宗祖とするが、宗として正式に成立したのは江戸幕府の政策による。一遍には開宗の意図はなかったし、八宗体制下でそれが認められるはずもなかった。近世期には、本来は別系統であったと考えられる一向俊聖や国阿らの法系が吸収されており、空也を仰ぐ寺院が時宗とみなされていた例もある。制度的な面からみれば、時宗の実質的開祖は他阿真教ということもできる。一遍の死後、自然解散した時衆を他阿が再編成したのが起源である。
 
7.宗派
 
8.主要寺院
 総本山・清浄光寺(藤沢市)・・・遊行寺ともいう
  
9.その他
「浄土教の変遷」
 浄土教では「阿弥陀仏」への信仰がその教説の中心である。「融通念仏」は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、「浄土宗」では信心の表われとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。
 「浄土真宗」では信心のみを重視し、信じるだけで往生は約束される、念仏は仏恩報謝の行である、と説いた。「時宗」の場合には、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。

「神仏協調」
 浄土教は神々への信仰を排除したために、弾圧されることが多かったのですが、一遍は神仏をうまく協調させました。


TOP



inserted by FC2 system