日本カトリックの歴史



1.戦国時代から安土桃山時代
「背 景」
 16世紀、ドイツ(当時の神聖ローマ帝国)でマルティン・ルターが起こした宗教改革が各国に波及しており、カトリックのお膝元のイタリアでさえ教皇の権威に陰りが見えていた。このようなヨーロッパの宗教事情が、イエズス会やフランシスコ会の宣教師が、日本にやってくる下地となっていった。

 宣教師は、アジアへ活発に派遣されていった。まず、植民地化が進んでいたインドや東南アジアに大量に送り込まれた。宣教師達はさらに東にも目を向け、やがて極東にまで進出してくるようになった。

「ザビエルによる宣教活動」
 イエズス会(カトリック教会の修道会)の創設メンバーの一人で、西インドで宣教活動に従事していたバスク人司祭フランシスコ・ザビエルがマラッカで知り合った「ヤジロウ」(アンジロウとも)という日本人によって日本のことを知り興味を抱いたことが、日本における宣教活動のきっかけとなった。

 このザビエルによる宣教活動が日本へのキリスト教の最初の伝来とされており、広く知られている。戦国時代のさなか、1549年のことであった。

「フランシスコ・ザビエル」
 ザビエルは8月15日に鹿児島に上陸し、2年3か月にわたって宣教活動を行った。ザビエルは「日本国王」(天皇)の宣教許可を得ようと鹿児島から平戸、山口をへて京にたどりついたが、当時の京都は戦乱で寂れきっていた。天皇の権威も失墜しており、将軍も不在であったため、ザビエルは目的を果たせなかった。

 その後、言語や文化の違いなど多大な困難を乗り越えながら徐々に日本人協力者を得ることが出来、700名ほどに洗礼を授けた。各地を旅する中で、ザビエルは日本文化に中国が大きな影響を与えていると見抜き、中国宣教を志して広東の上川島に上陸したが、中国本土を目前にして病没した。

 日本人を「もっとも優秀で理性的な国民」であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を依頼。それに応えて優秀な人材が積極的に日本に送られた。
 ザビエル以降、コスメ・デ・トルレス、ルイス・デ・アルメイダ(豊後に日本最初の病院を開設)、ガスパル・ヴィレラ、ルイス・フロイス(織田信長や豊臣秀吉と会見し、『日本史』を記す)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノなどのイエズス会員が日本に来航し、布教活動にあたった。
 
「日本での布教活動」

 日本では、他の植民地化されたアジア地域と違ってヨーロッパの影響が及ばず、本国の軍事的・経済的な支援が無かった。そのため、宣教師達はまずその土地の大名などの有力武将と会見し、南蛮貿易の利益などを訴えながら布教の許可を得ると共に、安全の確保を図った。

 これ以前、1543年にはポルトガルの船が種子島に難破しており、火縄銃などが伝来していた。大名は、独自に南蛮人との交易の道を模索している真っ最中であり、ザビエル達は来日当初、大名達から基本的に歓迎された。

 この過程の中でキリスト教に触れた大名たちの中にも、洗礼を受けるものがあらわれた。彼らがキリスト教を信仰した理由は、キリスト教の理念に真剣に惹かれた者の他、単に南蛮との貿易をより円滑かつ大規模に行いたいため、または南蛮の文化や科学技術を習得する目的から信仰するようになった者もいた。彼らはキリシタン大名と呼ばれており、特に有名なものとして大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、結城忠正、高山友照および高山右近親子、小西行長、蒲生氏郷などがいる。

 なお布教当初は、言葉の問題や、ヤジロウが聖書のデウス(神)を大日と訳した事、ザビエルらが仏教発祥の地であるインドから来た事、日本人の間で外来の宗教と言えば仏教という考えが強かった事など、複数の要因からキリスト教は「天竺教」などと呼ばれ、仏教の一派と誤解される事も多かった。布教当初、知らずに仏教用語を使っていたことがキリスト教の正確な理解を妨げていると認識したザビエルらは、仏教用語を出来るだけ廃した「原語主義」を採用していくこととなる。

 イエズス会の宣教方針に則り、日本における宣教方針は、日本の伝統文化と生活様式を尊重すること、日本人司祭や司教を養成して日本の教会を司牧させることにおかれた。これは同時代のヨーロッパ人の、非ヨーロッパ文化に対する態度としては他に例をみないものであり、イエズス会の先進性と日本人の資質の高さがあいまって生み出されたものだった。適応主義と呼ばれたこの指針によって日本での宣教は順調に進んだ。

 例外的に日本人には司祭になる能力も適性もないと考えて軽視したフランシスコ・カブラルが布教長であった時代、ポルトガル人と日本人たちの間で溝が深まって宣教活動が停滞した。
 
「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」
 イエズス会本部からの巡察師として日本を訪れたヴァリニャーノは各地をまわって実情を視察した上で、カブラルを解任してその方針を否定、従来行われていた適応主義の復活を命じた。ヴァリニャーノは日本人司祭の養成を急務とし、各地にセミナリオ(小神学校)とノビシャド(修練院)、コレジオ(大神学校)を設置した。

 これらの学校では当時の学術語であったラテン語、日本語および哲学・神学、自然科学、音楽、美術、演劇、体育と日本の古典を必修科目として学習させていた。これは人文主義的素養を重視したイエズス会の教育方針によるもので、イエズス会による教育は日本の明治以降の学校教育の先取りともいえるものであった。

 さらにヴァリニャーノは将来の日本を担う少年たちに直接ヨーロッパを見せ、同時にヨーロッパに日本の存在をアピールしようと天正遣欧使節(1582年〜1590年)を企画。イエズス会員に伴われた四人の少年たち(伊東マンショ、原マルチノ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン)はヨーロッパ各地で熱狂的な歓迎を受け、使節の企画は大成功を収めた。

「秀吉とキリスト教」
 織田信長は宣教師たちに対して好意的であった。信長の後を継いだ豊臣秀吉も基本的に信長の政策を継承し、宣教師に対して寛大であった。

 しかし、秀吉の天下統一目前の1587年、九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって無数の神社や寺が焼かれ、仏教徒が迫害を受けているとの報告を聞き、激怒した。また秀吉は日本人が奴隷となって海外に売られている実態も知り、九州征伐完了直後、博多にて当時の布教責任者であるガスパール・コエリョを召喚して、当時ポルトガル商人によって行われていた日本人奴隷の貿易をやめ、海外の日本人を帰国させるよう命令する。

 しかしコエリョは、奴隷をポルトガル商人に売る日本人が悪いと開き直り、日本人に対して行われた奴隷貿易を黙認した。宣教師達がポルトガル奴隷商人に対して「奴隷購買者破門令」を発布したのは、日本二十六聖人が殉教してから10年後の事であった。
 この態度に激怒した秀吉は、懲罰的な意味から伴天連追放令を発した。コエリョは有馬晴信などキリシタン大名に秀吉と敵対するよう要請、さらに武器・弾薬の支援を約束した。有馬晴信は、既に天下人の座をほぼ手中に収めていた秀吉と敵対する気はなく、この要請は実現されなかった。以後、イエズス会は秀吉を刺激するのを恐れ、公の宣教活動をしばらく控えるようになる。

 一方、秀吉は追放令を発布こそしたが、以後も実質上キリシタンは黙認したため迫害などはほぼ行われなかった。なぜなら秀吉はポルトガルを通じての南蛮貿易に積極的であったため、追放令の徹底を図らなかったと考えられている。そのため、宣教師達は立場こそ不安定だったものの、この時点ではまだかなり自由な宣教活動を続けていた。

 しかし、豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会やドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化する。彼らは日本宣教において(社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教していくという)当時のイエズス会のやり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入っての直接宣教を試みた。けれども、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらずに秀吉を刺激した(たとえば日本では服装によって判断されると考えたイエズス会員の方針と異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服にこだわった)ことや、イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化した事で、日本での宣教師の立場は徐々に悪化していく。

 サン・フェリペ号事件(1596年)でスペイン人航海士が「キリスト教布教はスペインによる領土拡大の手段である」と発言したこと、秀吉自身が九州で日本人の奴隷貿易・人身売買を大々的に行っていたスペイン人やポルトガル人の貿易商と宣教師との関係を現地で目の当たりにしてから、宣教師とキリシタンの命運は決定的となった。秀吉は当時のキリスト教宣教の危険性を認識し、1597年には京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じた。フランシスコ会は当時スペインの庇護によって活動していた。これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑された(日本二十六聖人の殉教)。
 
2.江戸時代
 秀吉没後、実権を掌握した徳川家康は当初キリスト教宣教を黙認していた。たとえば1598年にはスペイン人宣教師ヘロニモ・デ・ヘスース(Castro Jeronimo de Jesus)にスペイン船来航の斡旋を依頼し、江戸における教会の建設と布教許可を与えている。しかし、1600年にオランダ船リーフデ号が漂着し、イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(William Adams)やヤン・ヨーステンが家康に仕えるようになる。

 家康は、彼らイギリス人から、最新の欧州事情の情報を得た。かつての強国スペイン・ポルトガルに対して、新興のイギリスやオランダがアルマダの海戦や八十年戦争(オランダ独立戦争)などで勝利して追い上げている当時のヨーロッパ情勢を理解し、両陣営を競わせながら貿易の実利を得ることを狙った(ウィリアム・アダムスは、実際にアルマダの海戦に参戦していた)。
 家康は、将軍職を徳川秀忠に譲り、大御所として駿府に引退した後の1607年にもイエズス会員フランシスコ・パジオ(Francisco Pasio)を引見し、外国人宣教師の滞在と布教の許可を与えている。

 家康は貿易の実利を求めながらもキリスト教そのものには一貫して無関心であった。これは、三河一向一揆で宗教に苦しめられた記憶があったからとの説がある。また、プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由は無くなった。

 1612年に岡本大八事件(有馬晴信がからんだ疑獄事件)が起こると、関係者がどちらもキリシタンであったことから、家康は諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、原主水などキリシタンであった旗本が改易された。翌年になると側近崇伝の手による「排吉支丹文」によってキリスト教信仰の禁止が明文化され、全国で迫害が行われるようになった。

 1619年に京都で52名が殉教し、1622年に長崎で55名が殉教(元和の大殉教)、1623年江戸でも55名が殉教した。以後禁教令の解除まで250年程度の間キリスト教徒は幕府と幕府の庇護する仏教徒、神道信者などにより迫害されることになる。
 
「島原の乱」
 1637年に肥前島原と天草で百姓身分の者たち(農民やかつてキリシタン大名の家臣であった元武士たちなどから構成)3万人が蜂起した事件は幕府に衝撃を与えた。これが島原の乱である。

 蜂起の直接的原因は島原藩と唐津藩(天草を支配)による残酷な収税制度にあったが、同地にキリシタン大名であった有馬家、小西家統治時代に入信したキリシタンが多く、一揆の盟約結成の求心力としてキリスト教信仰を基盤においた内部統制も行われたこと、そのことが一向宗、法華宗などのような求心性の強い宗教勢力が排他的な一揆的結合の核となって強大な政治勢力を築いた事態が再来する危機を感じさせたこと、さらには幕藩体制のゆがみが明るみにでることを幕府が恐れたことから「キリシタンによる反乱」と単純化され、原城陥落後に1名の内通者を除く参加者全員が殺害された。

(幕府が反乱の原因として藩による圧政を認識していた証左として、農民の生活が成り立たないほどの収奪を行ったかどで当時の島原藩主松倉勝家は斬首、唐津藩主寺沢堅高は領地没収の上、自害させられている。江戸期を通じて一藩の藩主が自害でなく斬首となったのはこの一例のみである)

 この事件を重く見た幕府は1639年に寛永の鎖国令を発してポルトガル船の来航を禁止、九州沿岸の防備体制を整えると共に、キリスト教徒の根絶に乗り出した。やがてキリスト教布教と直接の関係がないオランダの商館も出島に移転され、商船の入港が制限されるようになった。各地で宗門改制度が整備されると、キリスト教の禁止は幕藩体制の根幹に組み込まれていく。
 
「鎖 国」
 壊滅したかに見えたキリスト教徒たちであったが、九州の一部では信徒たちが宣教師たちの教えを口伝えに伝え、水方や帳方といった信徒組織を形成することで、親から子へ、子から孫へと密かに信仰を伝えていった。これが隠れキリシタンである。彼らは仏教徒を装いながらも信仰をひたすら守り、キリスト教を自由に信仰できる日が来るのを待ち続けた。

 ヨーロッパのカトリック教会はキリスト教徒が完全追放された日本に興味を持ち続けた。日本における教会の発展と受難の物語はヨーロッパで語り継がれ、多くの人々がこの東洋の国への再宣教の日が来ることを待ち続けた。鎖国令以降、江戸期の日本に渡航した数少ない宣教師の1人にイタリア人教区司祭ジョバンニ・シドッチ(Giovannni Sidotti)がいる。

 シドッチは鎖国下の日本への渡航を願い、教皇庁に許しを求めていた。教皇庁は殉教することが明白な地に司祭を送ることはできないと拒絶したが、シドッチの再三の願い出に教皇クレメンス11世は特別な許可を与えた。1708年、シドッチは苦労のすえ屋久島に上陸したが、すぐに捕えられ、長崎を経て江戸に送られ、死ぬまで切支丹屋敷にいた。江戸では儒学者新井白石が取り調べにあたったが、シドッチの人格の高潔さと学識に感銘を受け、尋問というよりは対話という形で多くの新知識を学び取った。その成果が『西洋紀聞』『采覧異言』である。
 
3.幕末から明治時代
 アメリカ合衆国からの要求をきっかけに日本は西洋諸国に門戸を開くようになった。1858年には日米修好通商条約や日仏修好通商条約などが結ばれたことで、外交使節や貿易商と共に多くの宣教師たちが来日した。
 
「カトリック教会の復興」
 鎖国期を通じて教皇庁は日本への再宣教の方策を模索していたが、19世紀半ばには日本に開国の兆しありと見てフランスに本部を置くパリ外国宣教会に日本への宣教師派遣を依頼した。こうして1844年にテオドール・フォルカード(Theodor Forcade)神父が那覇に派遣され、二年滞在して日本への渡航許可を再三求めたが、果たせず1846年に帰国した。

 その後1855年から司祭メルメ・ド・カション(Merumet de Cachon)、セラフィン・ジラール(Prudence Seraphin-Barthelemy Girard)、ルイ・テオドル・フューレ(Louis Theodore Furet)の三人が那覇に赴任して日本語を学んでいたが、1858年に日仏修好通商条約が結ばれたことで、日本入国が可能になった。メルメは函館に赴き、ジラールは江戸を経て横浜に拠点を構えた。ジラールは1862年に横浜に開国以来最初のカトリック教会(聖心教会)を建てた。このころ、ヨーロッパのカトリック教会の強い関心が日本に寄せられていた証左として「二十六聖人の列聖」(1862年)が行われたことがあげられる。
 
「大浦天主堂」
 1864年になってフューレは長崎に土地を購入、後から加わったベルナール・プティジャン(Bernard Petitjean)神父(後に司教)と共に1865年に教会堂を建てた。これが大浦天主堂である。一か月後、教会を訪れた婦人たちが自分たちは禁教下で信仰を守り続けた潜伏信徒であることを告白、神父は驚愕した。これを長崎の信徒発見という。

 しかし、信仰を表明して司祭の指導を受けるようになった信徒たちは幕府の指示でとらえられた。彼らの身柄を受けついだ明治政府はキリスト教禁止の踏襲を表明、信徒たちを各地へ流罪とした。これが浦上四番崩れである。なお、明治政府が刑事罰を与えたキリスト教徒は、カトリックに留まらず、他教派の宣教師によって改宗した日本人信者も含んでいる。

 明治政府の予想に反して、キリスト教禁止と信徒への弾圧は諸外国の激しい抗議と反発を引き起こした。後に岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の禁止が条約改正の最大のネックになっていることに気づいたため、1873年にキリスト教禁止令は解かれたが、弾圧への補償はとくにしなかった。

 カトリック教会は復興当初から宣教のみならず、教育と社会福祉事業に力を注いでいた。早くも1872年にはプティジャン司教の招きによってフランスから幼きイエス会(サン・モール会)が招かれている。最初の5人の修道女たちは横浜に修道院と孤児院を建てた。1888年には彼らの手で築地に高等仏和女学校が開かれた。これが後の雙葉学園の前身である。プティジャン司教は同じくフランスの女子修道会であるショファイュの幼きイエズス修道会にも修道女の派遣を依頼、これにこたえて1877年に来日した四名は神戸で孤児院と学校(後の信愛女学院)を開いた。1878年には同じくフランスからシャルトル聖パウロ修道女会が来日、函館に仏蘭西女学校を開設した。同学校は白百合学園へと発展していく。

 キリシタン時代の日本において活躍したイエズス会は、「日本にカトリック高等教育機関を」という教皇庁の求めによって明治期の終わりになって来日し、1913年に上智大学を開いている。
 
「琉球王国」
 1846年4月30日にバーナード・ジャン・ベッテルハイム医療宣教師が琉球王国に到着し、8年間迫害の中で宣教活動を行い、琉球語に聖書を翻訳した。



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