日本のカトリック

  (キリシタン)

フランシスコ・ザビエル


1.キリスト教の伝来
◆1549年、ザビエル上陸にはじまるカトリック布教の歴史
 日本へのキリスト教伝来は、戦国時代(室町後期)の天文18(1549)年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したことにはじまります。ザビエルは1506年、スペインの貴族の家に生まれ、1534年、宗教改革によって混乱していたカトリック教界のよき伝統を再建し発展を図るため結成された「イエズス会」の創立者の一人となりました。

 イエズス会の「清貧・貞潔・従順」の純粋な信仰を携えて、ザビエルは鹿児島に上陸します。約一年後、京に上り、朝廷・将軍・有力仏僧に会って日本伝道の足がかりを築こうとしました。しかし、戦乱に阻まれて志を果たせなかったため、当時文化的にも高く、政情も安定していた中国地方や九州方面における宣教に従事しました。その後ザビエルは、日本宣教を確固たるものにするには、日本文化の源泉の地・中国の宣教に着手すべきであるとの判断を下し、日本滞在2年3ヵ月で中国に向かい、旅の途上で昇天(1552年)しました。

 その後、永禄3(1560)年、カスパル・ヴィレラ神父が将軍・足利義輝に謁見して京での宣教の允可(いんか)を受けました。また、ザビエルが試みた中国地方や九州方面での宣教はトルレス神父が継承。日本文化を高く評価して西欧に紹介したフロイス神父は永禄8(1565)年、最初の京都入りを果たしています。このように、カトリックの渡来時とそれを受け入れた足利将軍時代、それに続く織田信長時代は、カトリック宣教にとって「よき時代」であり、ローマに向けて派遣された天正10(1582)年の少年使節の旅立ちまで、この傾向は続きました。

 天正10年、信長が没し秀吉が天下人になると、カトリックに対する態度が不確実なものとなりました。当初カトリックに好意的で信長以上の保護を与えていた秀吉が、天正15(1587)年には九州の島津との戦いに勝利を収めて天下統一を達成し、帰途長崎などでカトリック居留地の要塞化を目撃して危倶を抱き、突如禁教令を発したのです。

 ところが天正18(1590)年、ヴァリニャーノが少年使節を引率して8年ぶりに再来した時には、秀吉は聚楽第(じゅらくだい 京都の居宅)で親しく謁見しています。このヴァリニャーノによって、我が国に近代教育と活字印刷、カトリック宣教の組織化がもたらされたのです。時を同じくして、スペインからフランシスコ会が参入。国内事情をわきまえぬまま宣教を開始したため、摩擦を生じるようになります。慶長元(1597)年には、長崎で26人(日本26聖人)が殉教するという事件が起きました。

 徳川時代に入ると、初期10年間こそ小康状態が保たれましたが、やがて鎖国体制の妨げとなるということで窒息状態を余儀なくされ、一説には4万人を超える殉教者があったと伝えられます。我が国でカトリックの信仰の自由が保証されたのは、明治22年に発布された「大日本帝国憲法」によってでした。

2.キリシタン時代の宣教
◆二百数十年にわたる迫害を乗り越えるまで
 「此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している」
 これはフランシスコ・ザビエルが日本人の印象について述べた言葉です。このように日本の国民性を高く評価したザビエルは、自分に続いて日本へ派遣する宣教師を十分に吟味するよう、本国の「イエズス会」に指示しました。会の有力者.ザビエルの命令は重視され、人格・学識・健康などすべてにすぐれた宣教者が多く来日します。その後の活動によって、大村純忠、大友義鎮(のちの宗麟)、高山飛騨守友照・右近父子、小西隆佐.行長父子、池田丹後守など、大名からも信者が多く出ました。

 16世紀に我が国へ伝来したカトリックは、当初仏教に模して南蛮宗や伴大連(ポルトガル語で「神父」の意味〕宗などと呼ばれていましたが、のちにキリスト教信者を指すポルトガル語「キリシタン」がそのまま用いられるようになりました。これに漢字の音写として、吉利支丹、貴理志端の字が当てられ、五代将軍・綱吉時代以降は、切支丹の文字が広く使われるようになりました。キリシタン迫害時代にはキリシタンを排撃する書類などで、鬼利至端、鬼利死炭などの当て字が時代を反映して用いられています。

 天正15(1587)年に発布された秀吉の禁教令以前の我が国の信者数は、天正7(1579)年に10万人、天正15年には20万人に至りました。さらに慶長5(1600)年には75万人を数えたと伝えられています。その後、元和9(1623)年、三代将軍・家光の時代にキリジタンヘの弾圧が激しさを増し、はりつけ、火あぶり、斬首、水責め、地獄責め、逆吊り、など残酷な刑罰が用いられました。それ以後、幕府は地縁・血縁などの連帯関係を通じてがんじがらめにしながらキリシタン信仰の根絶を図り、キリスト教は幕府の諸種の方策を凌ぐ隠れキリシタンの時代を二百数十年間維持しなければなりませんでした。

 その間にもさまざまな出来事が起こりました。宝永5(1708〕年、宣教師シドッチが単身入国(潜入)して、新井白石から取り調べを受けたこと。文久2(1862〕年、パリ外国宣教会日本教区長に任じられたジラールが、外国人に与えられた信教の自由を駆使して横浜に天主堂を建立したこと。慶応元(1865)年、長崎にフランス寺(大浦天主堂)が建堂されたことなどです。そして明治22(1889〕年、大日本帝国憲法の発布によってようやく信仰の自由が保証されるようになりました。

 なお、歴史的な用語の用い方として、16世紀以後明治までの我が国におけるカトリックをキリシタン、明治以降はカトリック、または広くキリスト教と称しています。明治期には一時、中国での呼称をそのまま用いて、天主教会、天主公教会と呼ばれたこともあります。そして昭和に入って、宣教指導体制も外国人主導から日本人責任体制に移行し、一つの指導系統(諸派はない)のもと今日に至り、現在約43万人の信徒を擁しています。

3.その他
「ランシスコ・デ・ザビエル」
 フランシスコ・デ・ザビエル(1506年頃4月7日〜1552年12月3日)は、スペイン・ナバーラ生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。
 ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。

 ザビエルは日本人の資質を高く評価し、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であるとみた。特に名誉心、貧困を恥としないことを褒め、優れたキリスト教徒になりうる資質が十分ある人々であるとみていた。これは当時のヨーロッパ人の日本観から考えると驚くべき高評価である。同時にザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた男色(同性愛)が日本において公然と行われていたことであった。

 布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「大日」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになった。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになる。

「アジアへの宣教師派遣」
 16世紀、ドイツ(当時の神聖ローマ帝国)でマルティン・ルターが起こした宗教改革が各国に波及しており、カトリックのお膝元のイタリアでさえ教皇の権威に陰りが見えていた。

 カトリックは、権威を取り戻すために遠くアジアでの布教活動も視野に入れ始めていた。信者数が増えればプロテスタント勢力への牽制にもなる。また、金銭的な問題からも、アジア布教は急務と教会上層部は考えていた。当時は贖宥状(免罪符)への風当たりが強くなったため、売り上げが急減しており、カトリックの財政事情に影響を及ぼしていた。アジアの有力者を信者にすれば、カトリック教会への莫大な献金が期待できた。なお、贖宥状の金銭での売買は、トリエント公会議の決議によって1563年に禁止されている。

 このようなヨーロッパの宗教事情が、イエズス会やフランシスコ会の宣教師が、日本にやってくる下地となっていった。
 宣教師は、アジアへ活発に派遣されていった。まず、植民地化が進んでいたインドや東南アジアに大量に送り込まれた。宣教師達はさらに東にも目を向け、やがて極東にまで進出してくるようになった。
 
「キリシタン大名」
 キリシタン大名は、戦国時代から江戸時代初期にかけてキリスト教に入信、洗礼を受けた大名のことである。主なキリシタン大名には高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷などがいる。
 江戸時代に入り、1613年(慶長18年)には禁教令も出されたため、最後まで棄教を拒んだ高山右近はマニラに追放され、有馬晴信は刑死し、以後キリシタン大名は存在しない。彼らの領内にいた多数のキリシタンは、仏教に改宗するか、隠れキリシタンとなるか、劇的な例では旧有馬晴信領で起こった島原の乱という大規模な一揆の際に殺害され、表から消えていった。
 
「隠れキリシタン」(潜伏キリシタン)
 禁教の時代において潜伏したカトリックの信徒達は、観音像を聖母マリアに見立てたり(今日、それらの観音像は「マリア観音」と呼ばれる)、キリシタン灯篭を建立したり、「納戸神」を祀るなどして、表向きは仏教徒として振舞いながら、ひそかに祈祷文「オラショ」を唱えていた。また、メダイやロザリオ、聖像聖画、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵し、生まれた子に洗礼を授けるなどして信仰を守った(これらの信仰の形式は地方によって異なる)。

 幕末の開国後の1864年(元治元年)、長崎の大浦天主堂を浦上(現・長崎市浦上)在住の信者が訪ねてきたこと(「信徒発見」と呼ばれる)から、海外でその存在が知られるようになった。しかしキリスト教はいまだ禁教であったため、存在を再認識された信者は投獄や拷問によって棄教を迫られ、あるいは全国に配流されるなどの大規模な弾圧にあった(浦上四番崩れ・五島崩れ)。

 明治政府によるキリスト教弾圧は諸外国の非難・批判を招くことになり、いわゆる『外圧』によって、江戸幕府以来の『キリシタン禁教令』が解かれることとなる。それ以降はキリスト教信者ということだけで重罪に処されることが無くなり、一部を除く潜伏キリシタンが堂々とキリスト教信仰を表明し、再宣教のために来日したパリ外国宣教会などによって、祖先の信じたカトリック教会の信仰に復帰することとなった。

 また、一部の地域では「隠れキリシタン」という独自に進化した民間信仰として伝わっている。現在では日本国憲法により『信仰の自由』が保証されているため、定義上潜伏キリシタンは現存しない

「島原の乱」
 島原の乱は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。

 『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着した。

 しかし実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「鍬と竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。

 ちなみに、上述のように宗教弾圧以外の側面が存在することから、反乱軍に参戦したキリシタンは現在に至るまで殉教者としては認められていない。
 島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった。江戸時代に大名が切腹ではなく斬首とされるのは、この1件のみである。同様に天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となった。

「天草 四郎」
 天草 四郎(あまくさ しろう)、元和7年(1621年)?〜寛永15年2月28日(1638年4月12日)は、江戸時代初期のキリシタン。島原の乱の指導者とされている人物で、幕府の攻撃による原城陥落により自害したとされる。本名は益田四郎(ますだ しろう)。諱は時貞(ときさだ)。洗礼名は「ジェロニモ」もしくは「フランシスコ」。一般には天草四郎時貞という名で知られる。本名については愛知時貞(えち ときさだ)という説もある。

 その生涯については不明の点が多いが、生まれながらにしてカリスマ性があり、大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗で女が見たら一目惚れするとまで言われたほどだった。また、経済的に恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったようである。小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物であると考えられており、さまざまな奇跡(盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いたなど)を起こした伝説や、四郎が豊臣秀頼の落胤、豊臣秀綱であるとする風説も広められた。
 
「大浦天主堂」
 大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)とは、長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂で、日本最古の現存するキリスト教建築物。正式名は日本二十六聖殉教者堂。その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂である。教会堂は殉教地である西坂に向けられている。観光客の増加に伴い、1975年に、天主堂に登る石段横の隣接地にカトリック大浦教会が建てられ、毎日のミサは大浦教会で行われている。

 建立当時、天主堂は「フランス寺」と呼ばれ、美しさとものめずらしさで付近の住民たちが多数見物に訪れていた。プティジャン神父には今でも何処かでカトリック教徒が密かに信仰を伝えているのではないかというわずかな期待があった。

 1865年3月17日金曜日、浦上(長崎)の住民十数名が天主堂を訪れた。そのうちの四、五十歳くらいの女性がひとり、祈っていたプティジャンに近づき、「私共は神父様と同じ心であります」(宗旨が同じです) とささやき、自分たちがカトリック教徒であることを告白した(この女性の名はイザベリナ杉本百合だったと言われている)。彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる隠れキリシタンである事実を話し、プティジャン神父を喜ばせた。

 やがて、浦上だけでなく長崎周辺の各地で多くのカトリック教徒が秘密裏に信仰を守り続けていたことがわかり、この「信徒発見」のニュースはやがて当時の教皇ピウス9世のもとにもたらされた。教皇は感激して、これを「東洋の奇蹟」と呼んだという。この日は現在カトリック教会では任意の記念日(祝日)となっている。
 その後も大浦天主堂は、1958年まで長崎司教区の司教座聖堂(カテドラル)であった。(現在の司教座聖堂は浦上教会)
 
「浦上四番崩れ」
 浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)は、長崎県で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模なキリスト教信徒への弾圧事件のことであり、浦上地区で起こった隠れキリシタンへの4度目の弾圧という意味である。

 1867年(慶応3年)、隠れキリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けた。江戸幕府のキリスト教禁止政策をひきついだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされたが、このことは諸外国の激しい非難を受けた。欧米へ赴いた遣欧使節団一行がキリシタン弾圧が条約改正の障害となっていることに驚き、本国に打電したことから、1873年(明治6年)にキリシタン禁制は廃止され、1614年(慶長19年)以来259年ぶりに日本でキリスト教信仰が公認されることになった。

 ちなみに、「浦上一番崩れ」は1790年(寛政2年)から起こった信徒の取調べ事件、「浦上二番崩れ」は1839年(天保10年)にキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件、「浦上三番崩れ」は1856年(安政3年)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、拷問を受けた事件のことである。これより前にも「天草崩れ」「大村崩れ」など、江戸時代中期には各地でキリシタンが発見され、処刑される事件が起こっている。
    (日本カトリック史の詳しい説明)

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