日本のキリスト教

大浦天主堂

1.戦国時代から安土桃山時代
 キリスト教の日本への最初の伝来とされているのは、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによる布教です。戦国時代のさなか、1549年のことで、当初はほぼザビエル達イエズス会の宣教師のみで布教が開始された、とされています。

 宣教師たちは、日本人と衝突を起こしながらも布教を続け、時の権力者織田信長の庇護を受けることにも成功し、順調に信者を増やしました。しかし、豊臣秀吉の時代には勢力を拡大したキリスト教徒が、仏教徒や神道徒を迫害する事例が増え、さらにポルトガル商人によって日本人の奴隷が奴隷貿易の商品となって海外に売られている事が発覚しました。これを憂慮した秀吉は、バテレン追放令を発布し、宣教を禁止しました。

 (なお秀吉自身が明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した折には、日本人が多くの朝鮮人を連れ帰りポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もありました)
 しかし、この時は南蛮貿易の利益が優先され、また下手に弾圧すると九州征伐で平定したばかりの九州(当時の日本では、特に宣教開始の地である九州でキリシタン大名やキリシタンが多数いました)での反乱が考えられたため、本格的な追放は行われず、宣教活動は半ば黙認されていました。
 だが、サン・フェリペ号事件が起きたころ、秀吉は、キリスト教の本格的な弾圧を開始しました。
 
2.江戸時代
 やがて時代が移り、関ヶ原の戦いで勝利を収め、豊臣に代わって天下統一を成し遂げた徳川家康の時代には、一時的に布教は認められました。しかし、その後は江戸幕府が鎖国政策を採ったため、宣教師はもちろん、普通の外国人も許可無しでは日本に入国できなくなりました。その間、江戸時代の末まで、日本では隠れキリシタンと呼ばれる人々が、密かにキリスト教の信仰を伝えていくこととなりました。
 
3.明治時代以降
 やがて明治維新となり、欧米列強と不平等条約を結ばされ、諸外国と対等になろうと必死であった明治政府は、政治・法律・経済・軍事など、あらゆる分野の改革を断行しました。その中には、キリスト教の布教許可も含まれており、完全ではなかったものの信教の自由が法的にも保障されました。

 以後、キリスト教は再度日本での布教を開始していきました。戦国時代ではカトリックが主でしたが、明治以降はプロテスタントや正教会など、各派が布教を行いました。この時、クリスマスなどのいくつかの行事が日本に持ち込まれ、日本の文化の一つとして定着していきました。
 第二次世界大戦が始まると、キリスト教も他の宗教と同じく戦争協力を命じられ、断った団体は弾圧されることとなりました。第二次世界大戦が終わると、日本ではほぼ完全な形での信教の自由が法的に認められ、不自由のないキリスト教の布教が開始されました。
 
4.現在
 キリスト教の信者そのものは、カトリック・プロテスタント・正教会の全てを合わせても、日本人全体の1%を超えていないと言われています。この割合は欧米を中心とする先進諸国と比較して当然ながら低い。またアジア全体と比較しても異例の低比率です。
 日本では、キリスト教の、文化的・社会的な活動を通じて、実際はキリスト教にかなり深く接近し、影響を受けていながら、洗礼は受けていない人々が多いといわれています。日本における婦人解放運動や社会福祉活動は初期はいずれもクリスチャンが深いかかわりをもっていました。

 また、近代日本文学にあたえた影響も大きく、聖書や賛美歌が持つ思想や文体、理想を追求する理想主義、ひとりひとりの人間を重んじるヒューマニズム、あるいはロマンチシズムなど、様々な面で日本文学に色彩を加えました。明治や大正の文学者の中には若いころキリスト教の教会に通ったり、洗礼を受けた人々が多くいました。また、現代でも、一線で活躍する文学者にはかなりの数のクリスチャンが含まれています。
 


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