日本のプロテスタント

内村鑑三

1.プロテスタントの歴史
◆幕末に伝来、以後教育分野で大きな貢献を果たす
 プロテスタント(新教)の伝来は、公には安政2(1855)年の日米和親条約、その3年後の日米通商条約にもとづく日本開国後のことでした。「公には」というのは、それ以前にも渡辺華山らが聖書研究をするなど、秘かになされた先覚者の業績があるからです。

 さて、ペリー率いる東インド艦隊に乗船していたアメリカ外国伝道局の関係者の要請によって翌安政6(1859)年、アメリカの聖公会・長老教会・改革教会から聖職者が派遣され、長崎と横浜で日本宣教が開始されました。しかし、当時はまだキリスト教が禁教令下にあったため、語学教師や医師を表看板にして、秘密裏に宣教活動が展開されていたのです。

 キリシタン禁制の高札が撤去される一年前の明治5(1872)年3月、改革教会のバラ牧師の指導のもと、横浜で日本最初のプロテスタント教会日本基督公会が設立されました。これは、プロテスタント各派の公同教会として発足した世界的に先駆性を有する教会でした。

 禁制が解かれた明治6年以降、プロテスタント各派は活発な活動を起こします。アメリカ婦人伝道会、長老教会、アメリカ・メソジスト教会、カナダ・メソジスト教会、アメリカ・バプテスト教会、イギリス・バプテスト教会、アメリカ聖公会、イギリス聖公会、福音伝道会(ルーテル教会)、基督友会(フレンド教会)、ディサイプル教会などの各派でした。これら各派分立の状況に対して、連帯を促進し福音伝道の高揚を図るための働きが求められ、その顕著な動向として「日本基督教徒福音同盟会」の結成(明治17年)、東京基督教青年会(YMCA)の設立(明治13年)、キリスト教綜合誌『六合雑誌』の発刊(明治13年)、共同訳聖書の刊行(明治9年から順次、分冊刊行)などがあげられます。

 キリスト教が我が国で果たした最大の貢献は、教育分野におけるものでした。プロテスタント各派が設立した主な私立学校だけでも、聖パウロ学校(明治7年。東京。のちの立教大学。聖公会)、同志社(明治8年。京都。組合〈会衆派〉教会)、神戸女学院(明治8年)、東京一致神学校(明治10年。長老教会。のちの明治学院大学〕、梅花女学校(明治11年。大阪。のちの梅花女子大学〕、横浜バプテスト神学校(明治17年。のちの関東学院大学)、東北学院(明治19年。仙台)、宮城女学校(明治19年。仙台。のちの宮城学院女子大学)、関西学院(明治22年。西宮)などがあります。プロテスタント教界は、これらの学校教育を通して人道主義を培い、全人教育をめざしました。同時に、我が国の女性の社会的地位向上と覚醒を促す役割を果たしています。

 学校教育と共にめざましい成果を収めたのが、救療事業・教誨(きょうかい)保護事業・禁酒同盟など、社会事業の開拓でした。しかし、戦時下では敵性宗教として白眼視され、圧迫や制約の中で信仰を守る生活が続けられました。そして、32教派を合同した日本基督教団が成立し、現在は自主的公同教会として一体性を確立しています。

2.プロテスタントの諸派
◆終戦後に民主主義の象徴として大きく発展
 日本のキリスト教諸派は、戦時中、敵性宗教として白眼視されました。信徒に対する直接間接の迫害が加えられ発展が大きく阻害されましたが、それだけに戦後はアメリカを中心とする物心両面からの援助を受けて、大きく飛躍する素地が形成されました。

 加えて、敗戦によって精神的支柱を失った人々に、キリスト教は民主主義の象徴として魅力を発揮しましたが、昭和26年の朝鮮戦争以降、社会の風潮が変化し、同時にプロテスタントの中心的教団・日本基督教団が内部に多くの問題を抱えて、教勢拡張に大きな力を発揮することができませんでした。
 2001年時点での、キリスト教人口の大まかな内訳はカトリック教会50万人、プロテスタント諸教派総計50万人、日本ハリストス正教会1万人などです。

3.その他
「内村 鑑三」
 内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月26日(万延2年2月13日)〜1930年(昭和5年)3月28日)は、日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。

 キリスト教の歴史を通して教会にいろいろ付随して来た余計な権威・権力を克服しよう、という理念に立った運動であり、理論的にはマルティン・ルターの宗教改革の二大原理(聖書のみ・万人祭司)を極端に現実化したものである。按手礼を受けた聖職者(牧師・正教師)を持たないので、無教会の集会または礼拝は儀礼(サクラメント)や説教を中心としたキリスト教の伝統的礼典から離れ、結果的に聖書の研究・講義が中心となった。

「杉原 千畝」
 杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日〜1986年(昭和61年)7月31日)は日本の官僚、外交官。第二次世界大戦の際、リトアニアの在カウナス領事館に赴任していた杉原は、ユダヤ人難民が亡命できるよう大量のビザ(通過査証、通過ビザとも)を発給。外務省の命令に反するこの行為により、ナチス政権下のドイツによる迫害を受けていたおよそ6,000人にのぼるユダヤ人を救ったことで知られる。

 海外では、センポ・スギハラ、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる。「ちうね」という名の発音のしにくさから、杉原自身がユダヤ人に音読みで「センポ」と呼ばせたとされている。杉原は語学に堪能であり、母語である日本語をはじめ、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語など6つの言語を話していた。なお、千畝も幸子も正教会で洗礼を受けていた。
(正教会(せいきょうかい)は、キリスト教の教派のひとつ。ギリシャ正教もしくは東方正教会とも呼ばれる) 

(日本プロテスタント史の詳しい説明)


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