日本人の宗教

初詣

1.概観
 日本における宗教の信者数は、文部科学省の宗教統計調査によると、神道系が約1億700万人、仏教系が約9,800万人、キリスト教系が約300万人、その他約1,000万人、合計2億900万人となり、日本の総人口の2倍弱の信者数になる。神道系と仏教系だけで2億人にせまる。

2.神仏習合、シンクレティズム
 日本では神道、仏教の信徒が大多数を占めている。ただし、日本では長く神仏習合(シンクレティズムの一種)が行われたため、神道と仏教の間には明確な境界線が存在しない。例えば、神棚を祀っている家庭には仏壇があることが多く、2つの宗教に同時に入信している家庭が多い。これが、神道と仏教で信者を合わせると2億人を超えると言われる所以である。

 考え方を変えると、神道と仏教という2つの宗教が日本に存在したと捉えるのではなく、渾然一体となった宗教が一つあったと捉える方が自然であるともいえる。歴史的に見ても現在においても、神道と仏教はその機能を分担して担っており、両者を合わせて一つの宗教観を構成しているともいえる。

3.神道
 神道は明確な教義が存在しない(注:教派神道系のセクト宗教(新宗教)には明確な教義が存在する)。その為、厳密な入信規定などは神道に存在しないが、神棚の設置、神社への寄付、祭事への参加などをもって信者と見る向きが多い。また生後の氏神参りを他宗教でいう洗礼とみなし、これをもって神道の一員になるという解釈も出来る。

4.仏教
 日本の仏教は大部分が大乗仏教である。鎌倉時代に普及した仏教(鎌倉仏教)が今日のものの礎となっており、日本の歴史に深く影響を与え、現在に至るまで信者数も多く、日本の仏教徒の大部分を占める。

 歴史を遡れば、仏教は6世紀に日本に伝来したとされている。奈良時代には「南都六宗」と呼ばれた三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗などが広まった。
 平安時代には遣唐使とともに唐の国(中国)に渡り仏教を学ぶ僧がおり、最澄は帰国後天台宗を、空海は密教を学び帰国後に真言宗を開いた。
 すでに末法に入ったとされていた鎌倉時代、実際に世は戦乱等々で乱れ、人々は苦しんでいた。絶望した人々の間ではやはり「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ける事で来世で救われるとする浄土宗が広がっていった。

 日蓮は、末法に入ったからこそ「南無妙法蓮華経」(法華経に帰依します、の意)と日々唱え、法華経に基づいて人々の幸福のために行動してゆくべきであり、そうすればあの世などではなくこの世で自身が仏となることができ安寧を得ることができる、と説き、日蓮宗を開いた。
 これら方向性の異なる二つの思潮はそれぞれ現代の日本にまでつづく大きな潮流をかたちづくり、今もなお脈打ち、大きな影響力を持っている。
 またこの時代、臨済宗と曹洞宗という二つの禅宗の流れも生まれた。

5.儒教
 神道、仏教に加えて、宗教として意識されることは少ないが、葬儀、死生観を中心に儒教も大きな影響を残している。先祖霊などの観念は現在では仏教に組み込まれているが、本来は仏教哲学と矛盾するものであり、古来の民間信仰と儒教に由来する。位牌、法事など、先祖供養に関わる重要な習慣が儒教起源である。思想、道徳としての儒学は支配階級を中心に学ばれ、明治以降は一般庶民にも直接、間接に影響を与えた。
 
6.民間信仰
 民間信仰的要素は歴史的経緯もあり複雑な様相を成している。これらは主にアニミズムを基盤としており社殿以前の磐座や山岳信仰などに顕著であるが、神仏習合の影響も受け形を変えて受け継がれているものも多い(道祖神と地蔵菩薩、えびす信仰など)。密教などの影響を受け仏教や神道の枠に収まりがたい発展を遂げた宗教には修験道、陰陽道などがあり、真言陀羅尼や功徳を積んだ法力への期待から御霊会など怨霊の鎮魂を担っていた。現代でも地鎮祭などにはこの考えが残っている。

7.創価学会
 創価学会の会員数は、教団の公式発表で827万世帯(2007年時点)とされている。なお世帯数ではなく人数については、あくまで外部の人間の推計にすぎないが、米本和広は1200万人、桃山学院大学の沼田健哉が1721万人、宗教学者の島田裕巳が2000万人と推計している。他に実勢力の推計もあり、沼田健哉が500万人前後、宗教学者の村上重良が250万人と推計している。
 
8.キリスト教
 キリスト教の信徒数は現在は、(洗礼を基準とした)公式数としては、全人口の0.8%とされる。この割合は欧米を中心とする先進諸国と比較して当然ながら低い。またアジア全体と比較しても異例の低比率である。日本のキリスト教団体の多くは、ヨーロッパ・アメリカ・韓国に比して小規模である(特にプロテスタント教会)。

 キリスト教の内訳、各教派を見てゆくと、信徒数の多い教派の第一位はカトリックである。カトリックの総数は45万人程度であり、日本の総人口の0.3%とされる。プロテスタントの最大教派は日本基督教団である。なお、プロテスタントの中で福音派と呼ばれるグループは、欧米圏のキリスト教に比べても聖書信仰を強調するという特徴が指摘されている。 日本には、特定の教会には属さず、自宅で聖書とのみ対峙する、「無教会運動」(指導者として内村鑑三や南原繁などが有名)がある。ギリシャ正教(日本正教会)の信徒数は、日本では1万人前後とみられる。

 なお、日本には「エホバの証人」が約20万人ほど存在していると言われている。エホバの証人をキリスト教の一派と考えた場合、カトリックに次ぐ第2位と言う事になり、最も普及しているキリスト教団体のひとつとも言える。しかしエホバの証人は正統派とされる諸教会からはキリスト教の一員とはみなされていない。

 しかし、キリスト教が日本の文化、社会に占めている位置は、その見かけの公式数をはるかに凌ぐものがある。日本に海外からもたらされた宗教としては、仏教につぎ第二位の宗教であり、「これを除いて日本の宗教を語ることはできない存在」だという。
 日本では、キリスト教の、文化的・社会的な活動を通じて、実際はキリスト教にかなり深く接近し、影響を受けていながら、洗礼は受けていない人々が多い。日本における婦人解放運動や社会福祉活動は初期はいずれもクリスチャンが深いかかわりをもっていたという。

 また、近代日本文学にあたえた影響もそれなりのものがある。聖書や賛美歌が持つ思想や文体、理想を追求する理想主義、ひとりひとりの人間を重んじるヒューマニズム、あるいはロマンチシズムなど、様々な面で日本文学に色彩を加えた。明治や大正の文学者の中には若いころキリスト教の教会に通ったり、洗礼を受けた人々が多かった。また、現代でも、一線で活躍する文学者にはかなりの数のクリスチャンが含まれている。
 
9.イスラム教
 イスラム教の信徒が約7万人いるといわれる。1990年代後半から徐々に増加傾向にあるといわれる。これは中東、南アジア、東南アジアなどの出身者との結婚で改宗した人々と、その二世の誕生が影響していると思われるという。結婚に拠らない、日本人の改宗者も存在するが、現時点では大きな流れにはなっていない。

 日本は、韓国同様、アジアでは最もイスラム教が普及していない国のひとつであり、現地人が主体になって運営されているイスラム教組織や、宗教施設はほとんど存在しない。タイ南部やフィリピン南部のようなイスラム教を信仰する少数民族が住む地域も無く、中国の回民やインドのムスリムのような現地の文化や言語、民族に同化したイスラム教徒の集団も存在しない。

 日本国内に存在する、イスラム教組織や宗教施設の信者の大半はパキスタン人、バングラデシュ人、トルコ人、インドネシア人、スリランカ人、イラン人などの在日外国人とその日本人配偶者である。大半がスンニー派であるが、その中でもハナフィー学派とシャーフィー学派が日本には多い。パキスタン、バングラデシュ、トルコなどの出身者にはハナフィー学派の信者が多く、インドネシア人、スリランカ・ムーア人などにシャーフィー学派の信者が多い。

 ハナフィー派は比較的、自由な解釈を行う学派であり、シャーフィーはそれよりもクルアーンなどイスラム法に解釈に重きを置く。両者は対立することは無く、互いに尊重しあい一緒に礼拝しているが、礼拝の方法や戒律に小さな違いが見られる。
 宗派や学派の違いとは別に、トルコ出身者は日本国内においても、トルコ共和国内で採用された暦を採用する者が多く、他国出身のイスラム教徒と、行事の日程などがずれることがある。イラン人にはシーア派の信者が多く、スンニー派とは別に礼拝所や宗教団体を運営しているケースが多いが、スンニー派の宗教施設を利用したり、行事に参加するシーア派の信者も少なくない。

 日本で比較的、熱心に布教活動をしているイスラム教系グループにアフマディーヤ教団がある。主にパキスタン出身者により、街頭で布教活動などがなされている。アフマディーヤ教団は正統派のイスラム教からは、イスラム教とはみなされないことが多い。

10.ユダヤ教、ヒンドゥー教、シク教
 ユダヤ教やヒンドゥー教、シク教などの信徒はまれである。しかしそれらの宗教も日本国内に外国人主体の宗教施設を持ち、やはりそれらの宗教を信じる人たちとの結婚で改宗した人たちも存在する。

11.日本人の宗教観
 もともと日本においては、平安時代から明治維新以前は神仏習合が一般的で、神道と仏教が分けられない場合が一般的だった。寺院内に鳥居があったり、「八幡大菩薩」と神社の神を仏の呼び方で呼ぶ事例などに名残を見る事ができる。鎌倉仏教が普及したとは言え、一般庶民にとっては、現世での辛さを紛らす一種の「神」として信仰していたと言える(無論、どの時代にも熱心な信者がいることを忘れてはいけない)。

 江戸時代に戸籍管理を目的として、仏教宗派のいずれかの寺院か、神社への帰属が義務付けられた事によって様々な習慣が生まれたが、今は希薄となっている。また、七五三や結婚式が神社で行われるようになったのは明治以後のことで、宗門改めが起因ではない。
 
 二宮尊徳の話をまとめた『二宮翁夜話』という書物には、宗教多元主義を示す次のような譬え話も含まれている。
 「世の中に本当の真理はただ一つしかないが、その真理に近づく入り口はいくつもある。神道、仏教、あるいは仏教でも天台宗、浄土宗、真言宗などいろいろあるが、これらは何れも、いくつもある真理への入り口に付いている小道の名前に過ぎない。例えば富士山に登るのに、吉田から、須走りから、須山から、それぞれ登れるが、最終的に頂上に至れば同じ所である。これを、違う目的に到達できる別々の道がある、と考えるのは誤りである。入り口が幾つもあっても、最終的に到達する場所は、一つである。それは、誠である。ところが世の中では、これらを別々な道であると言い、真理が幾つもあるように言っている。」
 
 作家の芥川龍之介は、日本にいくら宗教を根付かせようとしても無理なのは、日本が古来から「八百万の神」を崇める、神道などに見られる独特の宗教観を持つからで、釈迦もイエス・キリストも日本にくれば神々の一人という扱いになる、といった主旨のことをある短編作品の登場人物に語らせている。また同時に、日本人が海外の思想に変化を加えて自分のものにする様子を「造りかへる力」とも表現している。
 
 作家の井沢元彦は、日本には無意識の強烈な「怨霊」信仰と、怨霊を発生させない「和」への信仰があり、神道はその上に成立し、仏教も結局は怨霊を鎮魂する為の道具として活用されたと解説している。来日した外国人や、熱心な宗教信者となった日本人は、多くの日本人が無意識の内に「和」を至上のものとする思想を持つことを見い出すことができるという。また井沢は日本人の持つ「言霊」への特異な信仰を見出している。
 
 日本人の死後の世界観としては、神道的な観点から人間も自然の一部と考えるため「生前の行いの善悪にかかわらず無に(自然に)還る。」という考えや、仏教的な観点から死後釈迦の下で修行をし「仏に成る(成仏)」という考えがある。また、「この世は天国、あの世は地獄」という言葉もある。日本人の「死んだ人を悪く言うもんではない」という考え方はこのような宗教的観点から来ている。
 しかし、善人は天国へ行き、悪人は地獄へ落ちるという考え方も一般的なので、どんな悪行を働いても死んだら無罪(無罰)という訳ではない。ただ一方では現世に留まる霊魂の観念もあり伝統教義ではあまり説かれないが、幽霊・亡霊などの怪談はしばしば民衆の口に上り、現代でも都市伝説として流布することがある。

 現代の日本人の大多数は、実際にはいわゆる宗教儀礼に参加してはいるものの、特定の宗教組織に対する帰属意識は薄く、自分のことを「無宗教」と考える日本人も多い。これはキリスト教徒が毎週日曜に教会に行ったり、イスラム教徒が日に5回メッカの方角にお祈りするなどと比較して、日本人が神社・仏閣に赴く機会が極端に少ないからである。
 これは日本人が神や仏を否定しているわけではなく、何かしらそれなりに信じている。例えば日常で何か良いことが起こると「日ごろの行いが良いからだ」と口にする人がいるように、日本人の宗教観では、わざわざ神社・仏閣にお参りしなくても日ごろの行いが良ければ良いことが起こるという因果応報の考えを持っているからである。
 
 読売新聞が2005年8月6日、7日に行った宗教に関する世論調査では、宗教を信じないと答えた人が75%に上り、信じていると答えた人は23%と、1979年の調査の34%と比べて11%減っている。
 日本における宗教団体は、神道系88,788団体、仏教系85,994団体、キリスト教系9,330団体、諸教39,858団体が存在している(2006年)。


【コラム】 日本人的宗教観 塚本 青史(作家)

 日本人の宗教観が俯瞰できるのは、年末年始である。クリスマスでキリスト教、除夜の鐘で仏教、初詣で神道、お屠蘇で道教、お年玉で儒教といった具合だ。これは日本人の一生についても言える。

 生まれて一月目のお宮参りや、七五三及び十三参りは神道。チャペルでの結婚式はキリスト教。生活規範や道徳は儒教。医食同源の食生活で道教。葬式は仏教といった具合だ。
 また、葬儀に付随する香典や服喪は、仏教の習慣のように思われているが、これは本来的に儒教の考え方である。

 このような宗旨のいい加減さが、日本人の精神構造を形作っているといえよう。私がこのように書くのは、決して非難しているからではない。いや、むしろ礼讃していると言った方がよかろう。一つの考え方に拘らず、いわゆる良いとこ取りをしているわけだ。
 徹底的な原理主義に基づく逃げ道のない思想に凝り固まると、グループ内の結束は堅くなるものの、激しく排他的で反社会的になっていく。挙句、最終的には流血事件へ落ち込んでいくことが多い。

 教義に合わない者を吊し上げて殺害する魔女裁判が日常的になり、自分たちを受け入れない社会に対しては、終末大戦争(ハルマゲドン)を言い立てて自作自演のテロを敢行する。日本におけるオウム真理教などは、そのいい見本であるが、似たようなカルト教団は、世界中に掃いて捨てるほどあろう。

 かつて、人民寺院の集団自殺が、センセーショナルに世界を騒がせたことがあった。それは、反社会性が内側に向いたものである。昨年の、ノルウェー・ウトヤ島・連続射殺事件などは「思想の違い」を「教義の違い」に置き換えれば、カルトと何ら変わらない。一世代前の連合赤軍事件も全く同じである。 宗教教義を政治思想に置き換え、正義と錯覚して猪突猛進すれば、旧日本軍の呪文と同じ「愛国心」を隠れ蓑にする羽目になってしまう。
 
(大法輪 2012-11)


【コラム】 なぜお寺には墓地があるのか?

◆神道では、死体は汚れたもの
 日本では古くから死体は汚れたもので、生きているものに崇ると考えられていた。だから、人が死ぬと、その死体を村から離れた山中などに遺棄したのである。
 しかし、4、5世紀ごろから近畿地方を中心に有力な豪族があらわれると、その族長の死体を無闇に捨てるわけにもいかなくなり、古墳を作って丁重に葬るようになった。古墳は中国の皇帝の陵墓の様式が伝えられたもので、一族の権威の象徴として作られたのである。

 いっぽう、一般庶民の死体は近世に至るまで遺棄されていた。屈強な若者が死体を担いで、村から遠く離れたところで捨てると、後ろを振り返ることなく、一目散に逃げ帰ってきた。なぜそんなことをするかといえば、死者の霊が追いかけてくることを恐れたからである。
 このような風習は長く続き、地方によっては近世にいたるまで死体を遺棄していたのである。そして、日本古来の風習や思想を重んじる神道では、今も死体は汚れたものと見なす。神社にはお墓がなく、また、喪服で神社を参拝することが禁じられているのも、そのためである。

 しかし、仏教が伝来すると、このような死に対する考え方が一変した。仏教には人間は死んでもまた生まれ変わるという輪廻転生の思想がある。そして、人間の肉体は地・水・火・風・空の五輪、つまり五つの元素からできており、死ぬと人間の肉体は五元素に分解されて自然に還るが、時が経つと縁を得て再び五輪が集まって肉体を形成する、と考えるのである。

◆仏教が死者の弔いをしてくれた
 このような思想に立つ仏教の僧侶たちにとって、死体は汚れたものでも、崇るものでもなかった。僧侶たちは死体を恐れることなく、淡々と供養した。もともと仏教は葬儀を専門にする宗教ではなかったが、実質的に僧侶が葬送に関わるようになったのである。
 釈迦が亡くなったときに、その遺体を茶毘にふし(火葬にして)、丁重に葬った。つまり、仏教には葬送儀礼の手本があったのだが、神道にはそれがなかったのである。

 そして、文武天皇の4年(700)には、日本ではじめて火葬が行なわれた。奈良の元興寺(がんごうじ)の道昭(どうしょう)という僧侶が遺言によって火葬にされたのである。はじめて火葬の光景を見た人々は、大きなショックを受けたことだろう。しかし、疫病などが流行ったときには、合理的な葬送法で、しだいにこれが受け入れられ、火葬が仏式の葬送法として定着するようになった。ただし、火葬が普及するのはずっと後になってからのことで、一般には土葬が主流だった。

 このように、仏教は伝来当初から積極的に死者の供養を行い、ねんごろに菩提を弔った。これは当時の日本人にとっては朗報だった。それまで恐れていた死体を僧侶が滞りなく葬ってくれる。もう汚れた死体に触れることなく、供養することができるのだ。死体を捨てることに言いようのない恐怖と、後ろめたさを感じていた人々は肩の荷が下りた気分だったに違いない。

 以降、人が死んだら僧侶を呼ぶ、という図式ができあがった。そして、寺院の近くに墓地を作って、僧侶がつねに読経をして死者を供養するようになった。仏教が葬儀と深く関わり、寺院に墓地が付き物なのはこのためである。

 ただし、庶民の間に墓地が普及しはじめたのは室町時代ごろからのことで、裕福な商人などが墓石を建てるようになった。そして、江戸時代の前半に檀家制度が確立すると、すべての日本人は仏教徒となり、どこかの菩提寺に属することになった。このころから原則としてすべての日本人が寺の墓地に葬られることになったのである。

(大法輪 2013−1)


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