日本思想



1.古代思想
●仏教以前の日本思想
 仏教・儒教が伝来する以前の日本思想は,自然に神的な存在を認めるアニミズム的な側面が強かった。古代の神話的世界観については『古事記』『日本書紀』にみることができる。古墳時代の後期にあたる6世紀には,百済の五経博士によって儒教が,聖明王によって仏教が伝えられた。
●八百万神
 仏教以前の古代日本の宗教は,自然や自然現象に神秘的な力があり,それを神とあがめる自然宗教としての側面が強かった。八百万神とは,多種多様な神が自然に存在している事態(アニミズム)を意味し,古代日本の多神数的性格をあらわしている。邪馬台国の卑弥呼は,神々や死者の霊と交流することによって呪術を駆使するシャーマニズムに立脚した祭政一致の指導者であった。
●清明心
 古代人が理想とした心。清らかで偽りのない神に対して偽りのない心情。
 
2.中世思想
 封建制度が定着する以前の日本の古代・中世の思想は,仏教がその主流をしめた。聖徳太子によって政治的に導入された仏教文化は,奈良時代に鎮護国家思想として完成。平安時代にはいると,鎮護国家の仏教にかわり私的な現世利益を呪術的に実現しようとする密教がさかんになる。しかし貴族政権の末期,末法思想が流行すると現世での生活に絶望し,来世への強い憧れに支えられた浄土信仰が広まった。武士が政権を握る鎌倉時代にはいると,新興階級にふさわしい活気に満ちた新仏教が登場する。
●中世までの仏教史
 仏教受容→鎮護国家→密教→浄土信仰→鎌倉新宗教

3.仏教思想
●仏教受容
 日本の古代の仏教受容は,中央集権国家の構築と密接にかかわっている。日本の古代宗教(神道)の司であった物部氏との争いに打ち勝った聖徳太子・蘇我氏は,律令制度と仏教思想に基づいた国家統治を構想した。
(1)聖徳太子(574年〜622年)
 推古天皇の摂政であった聖徳太子は,蘇我氏と協力しつつ中央集権体制の確立をめざす一方で,外来思想であった仏教に深い理解を示し(『三経義疏』),仏教精神をもって国家の政治を安定させようとした。憲法十七条には「篤く三宝を敬え」とあるが,三宝とは仏(仏陀)・法(真理・仏陀の数)・憎(修行者)をさす。
(2)鎮護国家思想
 仏教の力をもって国家の安泰を得ようとする思想を鎮護国家思想という。奈良時代,とくに聖武天皇(在位724年〜749年)の時代に全国に国分寺・国分尼寺が,奈良に東大寺大仏が建立された。この時代唐の鑑真が戒壇(僧としての資格を与える場所)を東大寺にもたらすことによって,国家による仏教政策は頂点に達した。
(3)行基(668年〜749年)
 奈良時代の私度憎(国家の許可なく僧を名乗る者)で,多くの社会事業を手がけた。仏教を国家が独占した時代に民衆の間に入り込み奉仕活動を続け,人々の尊敬を集めた。
 
●密教
 奈良時代の仏教受容は国家の統治政策(鎮護国家)という側面が強かったのに対し,平安時代には国家の安泰だけでなく,私的個人の現世利益の求めに応じる新しい仏教がもたらされた。これらの仏教は奈良南都六宗を顕教とよぶのに対し,山岳での厳しい修行や加持祈祷を頻繁におこなうことから密教とよばれている。空海の真言宗(東密),最澄の天台宗(台密)がその代表。
(1)空海(774年〜835年)
 中国の真言密教を学び,日本の真言宗の開祖となった。高野山金剛峰寺を建立。大日如来への信仰に基づき,生きたまま仏となる即身成仏をめざした。書道に優れ,橘逸勢,嵯峨天皇とならんで三筆とよばれた。
(2)最澄(767年〜882年)
 中国の天台宗を学び,法華経の精神こそ仏教の中核であるとした比叡山延暦寺を開いた。その教えは源信の浄土教,法然の浄土宗,日蓮の法華教(日蓮宗)にも大きな影響を与えている。
 
●浄土教
 末法思想の流行とともに,極楽浄土への救済をもとめる浄土信仰(浄土教)が広まった。
(1)末法思想と浄土信仰
 末法思想とは,仏滅後千年の正法,次の千年の像法,一万年を末法とし,末法の時代には仏の力が及ばず,世界が乱れるという思想。およそ平安末期(11世紀中頃)が末法にあたる。末法では現世における救済の可能性が否定されるので,死後の極楽浄土への生まれ変わり(往生)を求める風潮が高まった。浄土信仰では,阿弥陀仏に帰依することによって往生が果たされるとされた。
(2)空也(903年〜972年)
 諸国を遊行し,阿弥陀仏への帰依を説き,社会事業にも従事した。市聖とよばれる。空也の他に浄土教を説くものとして,「往生要集』(985年)を著した源信(942年〜1017年)が有名。

●鎌倉新仏教
 鎌倉時代には,平安末の浄土信仰の流れをくむ浄土宗・浄土真宗・時宗と,中国の宋・明代に発達した禅宗を基礎にした臨済宗・曹洞宗,さらに独自の戦闘的な教えを生み出した日蓮宗が誕生する。これら新しい仏教教派は鎌倉新仏教とよばれている。

【浄土信仰の系譜】
 平安末の浄上教の影響を受けた宗派。阿弥陀仏の本願に頼り,その力によって救済されようとする他力を唱える。法然・親鸞・一遍らが有名。
(1)法然(1133年〜1212年)
 浄土宗の開祖。他の修行をいっさい放棄し,阿弥陀仏を信じて(他力本願),ひたすら念仏する(南無阿弥陀仏と唱える)ことによってのみ極楽浄土に入ることができると教えた(専修念仏)。
(2)親鸞(1173年〜1262年)
 法然の弟子で浄土真宗の開祖。他力本願・専修念仏の教えを徹底し、絶対他力の教えを説いた。また,自分が煩悩に支配された悪人であるという自覚をもつ者こそが,阿弥陀仏の救済の対象になるとした(悪人正機説)。
(3)一遍(1239年−89年)
 念仏を唱えながら踊る踊り念仏をはじめ,時宗の開祖となった。

【禅宗】
 他力の立場に立つ浄土信仰の流れに対し,坐禅によって自力で悟りを得ようとする。また仏法の目的は悟りを開くことであり,浄土信仰が教える来世を否定した。日本の禅宗は栄西と道元によって開かれた。
(1)栄西(1141年〜1215年)
 宋で禅(臨済禅)を学び,日本で臨済宗を開いた。公案とよばれる難問を弟子に与え,その間題を解くことによって悟りを開くことができるとした。また栄西は茶をもたらした人物でもある。臨済宗は鎌倉の上層武士階級に広く受け入れられた。
(2)道元(1200年〜1253年)
 宋で曹洞宗を学び,ひたすら坐禅をくむ(只管打坐)ことによって,身心の執着を脱し,自力で悟りを開くべきだと教えた(身心脱落)。臨済宗とは異なり公案を用いつつも,坐禅そのものが悟りであるとした(修証一等)。また地方武士に信者を集めた。

【戦闘的宗派・日蓮宗】
 日蓮宗は日蓮(1222年−82年)によって開かれた宗派で,さまざまな仏典のなかで,法華経こそが正しい教えであるとし,その題目「南無妙法蓮華経」を唱えることで,即身成仏と立正安国がかなうとした。法華宗ともよばれる。他宗派に対する厳しい攻撃をおこなったことから迫害・攻撃の対象となった。

4.近世思想
 古代・中世の思想が仏教の受容と密接に結びついていたのに対して,武家支配が完成した近世にはいると,幕府の官学となった朱子学を中心に儒教が思想界を支配するようになる。また江戸時代中期以降,儒学が生みだした合理的思考に媒介され国学・蘭学や在野思想もさかんになった。
●儒学
 幕府の公認学問であった儒学は,幕府の保護のもとにあった朱子学を中心として,陽明学・古学などさまざまな学問諸派がさかんに活躍した。
●国学と洋学
 江戸時代の中期になると,仏教や儒教などの外来思想に対抗して国文学・国学の研究がさかんになった。幕府の鎖国政策によって江戸時代には積極的な西洋文明との接触はなく,蘭学が唯一の欧米への窓口となった。また奈良・平安文学を対象とする国文学・国学もさかんとなった。
●民衆思想
 江戸時代には,武士や町人,学者の手によって私塾が開かれ,さまざまな民衆思想家が活躍した。彼らの思想のなかには,支配的な封建的秩序に対する批判精神が色濃く反映されているものも存在する。
(1)石田梅岩(1685年〜1744年)
 町人の出身であった石田梅岩は,儒学・仏教・神道を総合し,石門派心学とよばれる庶民のための実践哲学を打ち立てた。梅岩は「商人の売利は士の禄に同じ」と唱えて,正直と倹約を旨として商業に励むことを推奨した。商業資本を軽視する封建的な儒教道徳に対して,商人の存在意義と理想の生活哲学を積極的に主張した。
(2)安藤昌益(?〜1762年)
 自然主義的・農本主義的な立場から,封建的身分秩序とそれを支える儒教・仏教を厳しく攻撃した。あらゆる人為性・作為性を退け,すべての人間が農耕に従事し(万人直耕),自給自足の生活を送る理想社会を自然世とよび,封建的な階級差別や貧富の差が存在する社会,法世を批判した。近世のわが国の学問的水準からみて,その唯物論的ユートピア思想は,きわめて画期的なものであった。
(3)二宮尊徳(1787年〜1856年)
 実践的な農業指導家で,幕府や諸藩の農村復興に尽力した。自分の存在を支えている天地・君・親の徳に対して,自らの徳をもって報いなければならないという報徳思想を展開した。自らの経済力に応じた合理的な生活計画(分度)を実行し,社会全体の生産力を向上させるため,経済的余力を他者や将来に譲渡(推譲)することによって実現される。

5.近現代思想
 近代以前の日本の思想は,儒教・仏教を主流として発展してきたが,明治維新直後は急速な西洋思想の影響をうけ,イギリス流の啓蒙思想・フランス流の民権思想が流行した。資本主義が高度に発達する日清・日露戦争前後からは,キリスト教や社会主義のような実践的な思想が展開しはじめ,さまざまな社会改革運動と結びついた。また,これらの輸入学問に対抗しつつ国粋・国家主義思想や日本独自の学問も形成される。

●啓蒙思想と民権思想
 文明開化期に,イギリスやフランスの市民社会論が紹介された。イギリスからは功利主義や社会進化論(明六社・官民調和論)フランスからはルソーをはじめとする人民主権論(自由民権運動)。

【啓蒙思想】
 明治初期の思想家は,西洋市民社会を生み出したイギリス啓蒙思想に支えられ,日本の伝統的権威や封建的慣習に対する批判を試みたが,ラディカルさに欠け最終的には上からの近代化を容認する官民調和論を唱えるようになる。
(1)明六社
 後に初代文部大臣に就任する森有礼によって設立された日本初の学術団体で,西洋の啓蒙思想の紹介・定着を試みた。機関誌『明六雑誌』を刊行した。福沢諭吉・中村正直・西周・津田真道・加藤弘之らが活躍。
(2)福沢諭吉(1834年〜1901年)
 イギリス自由主義・功利主義の思想にもとづいて,日本の西洋化と封建思想の打破をめざした(脱亜入欧)。人権思想にいちはやく注目し,「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」と述べ,天賦人権論を唱えた思想家としても知られている。市民的な自主独立の精神(独立自尊)を尊び,個人の独立と近代国家の形成とが不可分の関係にあることを主張した(「一身独立して一国独立す」)。学問の領域でも生活に役に立つ功利主義的な実学を重視し,慶應義塾を設立。

【自由民権思想とその系譜】
 明六社のイギリス流啓蒙思想家が,最終的には官民調和論を唱えたのに対して,西南戦争以後,藩閥政府に言論をもって対抗した民権思想家は,よりラディカルなフランスの人権思想を吸収し,国民の抵抗権・革命権を擁護した。中江兆民や植木枝盛が有名。また自由民権運動の沈滞後も,民権思想の系譜は大正デモクラシーや女性解放運動へと受け継がれ,吉野作造・平塚らいてうらが活躍した。
(1)中江兆民(1847年〜1901年)
 『社会契約論』の翻訳『民約訳解』を出版するなど,フランス啓蒙主義とくにルソーの影響を受け,東洋のルソーとよばれた。回復的民権の確立に努めた。回復的民権とは,天賦人権を回復する革命運動のなかで手にすることができた人権で,西洋の人権概念にあたる。それに対して為政者より与えられた日本的な人権は恩賜的民権とよばれる。中江は,日本の実状に即して日本的恩賜的民権を発展させ,西洋流の回復的民権にまで高めていかねばならないとした。
(2)吉野作造
 第一次世界大戦後の平和的ムードのなかで,日本では大正デモクラシー運動が展開した。吉野作造は日本の立憲主義に即した形で西洋民主主義の理念を導入し,それを民本主義と名づけた。
(3)平塚らいてう
 大正デモクラシー運動は,直接的には憲政擁護・閥族打破をスローガンとして展開されるが,その影響で婦人解放運動・労働運動・農民運動・部落解放運動が活発化した。日本の先駆的なフェミニズム運動家であった平塚らいてうは,青踏社という文学団体を設立し,機関誌『青踏』を拠点に女性解放の論陣をはった。
(4)美濃部達吉
 国家の統治権(主権)は法人としての国家にあり,天皇は憲法に定めるところに従い,その執行機関として統治権を行使するとする憲法学説(天皇機関説)を展開し,国家主義的な天皇主権説と対決した。軍部・ファシズムの台頭にともなって,天皇機関説は否定された(国体明徴声明)。

●キリスト教と社会主義思想
 日本の近代化が生み出した社会矛盾に取り組んだのは,キリスト教思想家と社会主義思想家であった。
 日清・日露戦争以降,資本主義的矛盾が激化するなか,キリスト教に立脚した社会改良運動や社会主義的な変革運動が活発化した。また,日本の社会主義思想家の多くが,キリスト教的ヒューマニズムを経由していたという点で,両者の間には深い結びつきがある。

【キリスト教的ヒューマニズム】
 江戸時代に禁止されていたキリスト教は,明治以降多くの知識人に影響を与えた。「少年よ大志を抱け」と演説した札幌農学校(現・北海道大学)クラーク博士のもと,内村鑑三・新渡戸稲造が入信した。また同志社を設立した新島襄や日本の神学の基礎を築いた植村正久らの活躍も有名である。彼らは教育者として,現実の社会問題を,理想主義的な人格教育の力によって解決しようとした。
(1)内村鑑三
 伝統的な武士道とキリスト教の精神を融合しようとし,二つのJの思想を展開した。二つのJとは日本(Japan)とイエス(Jesus)をさし,二つのJに仕えることを自らの使命とした。また無教会主義を主張し,教会からの影響を排除した自主独立の信仰をまっとうした。教育勅語に対する敬礼を拒否する不敬事件をおこしただけでなく,日露戦争期には平和主義の立場から非戦論を唱えた。また田中正造と共に日本の公害第一号といわれた足尾銅山鉱毒事件にも携わった。
(2)新渡戸稲造
 プロテスタンティズムの一つであるクエーカー教徒となり,日本文化とキリスト教の融合をはかろうとした。日本文化の海外紹介にあたり,国際連盟事務総長にも就任する。
(3)新島 襄(1843年〜90年)
 アメリカで神学を学び,帰国後キリスト教人格教育に従事した。京都に同志社を設立する。

【社会主義思想】
 日清・日露戦争の頃,日本は産業革命を経て資本主義化に成功したが,それと時期を同じくして,資本主義批判の思想である社会主義思想が広がりはじめた。しかし1900年に制定された治安警察法によって政府の厳しい弾圧をうけた。1910年の大逆事件を最後に,日本の社会主義運動はロシア革命のころ一時期復活するが,間もなく軍部・ファシズムによって再度沈黙が強いられた。
(1)キリスト教的社会主義
 片山潜・安部磯雄・木下尚江のように,日本の多くの社会主義者は,キリスト教的ヒューマニズムに基づく社会改良運動から社会主義運動に加わった。
(2)幸徳秋水
 中江兆民の弟子で,社会主義思想を日本に積極的に紹介した。平民社を設立し,機関誌『平民新聞』上で,堺利彦とともに日露反戦論と帝国主義批判を展開したが,大逆事件で処刑された。

●純粋日本思想の展開
 明治の文明開化以降,英仏の啓蒙思想・キリスト教・社会主義思想など,さまざまな思潮が独自の発展をとげたが,それらはすべて外来思想であった。それに対して,鹿鳴館時代をきっかけに,明治中期以降になると日本の伝統的特殊性を重視する国家主義の諸思想が国民の支持を集めた。また明治末期から大正時代には,日本独自の学問・思想も姿をみせはじめた。

【国家主義の系譜】
 極端な欧化主義・西洋崇拝に対する反動として,日本の政治文化・民族的伝統を重んじる思潮が生まれてきた。これらの思想はやがて,帝国主義的侵略や軍部・ファシズム支配を正統化するイデオロギーとしての側面をもち始める(超国家主義)。
(1)徳富蘇峰
 鹿鳴館時代に代表される政府の極端な欧化政策(井上馨外務卿・外務大臣)に反発し,大衆の視点に立った下からの近代化を推し進めるべきだとする平民主義を唱えた。しかし日清戦争後から日露戦争に到る帝国主義的な社会風潮のなかで,国家主義へと転向した。
(2)国粋主義
 極端な欧化政策(鹿鳴館)に対して,日本独自の政治文化や民族的伝統を重んじる思想を国粋主義とよぶ。三宅雪嶺や陸羯南らが有名。
(3)国家神道の成立
 明治維新後,政府は神道を特別な宗教とせず,国家神道として積極的に優遇・保護した。天皇の神聖不可侵性と結びつけ,国家支配の道具とした。宗教として認定される民間の神道を教派神道とよび,国家神道と明確に区別。国家神道の形成と教育勅語の発布は,国家によるイデオロギー支配の典型例とみることができる。
(4)国家主義の完成と北一輝
 国家としての主権を回復しようとした明治期の国家主義は,日清・日露を経て帝国主義的な植民地政策という形をとった。しかし軍国主義・対外膨張の動きは,国家そのものの枠組みを乗り越えようとする超園家主義へと発展していった。北一輝は超国家主義に基づいて,財閥・元老・政党を排除することによって天皇と民衆を直結させる政府を樹立することを主張した。二・二六事件(1936年)は彼の『日本改造法案大綱』(1919年)を理論的根拠としていた。

【民俗学の誕生】
 民俗学とは,民間伝承や民間信仰の収集を通して失われた伝統文化を発揮しようとする学問で,柳田国男によって確立された。柳田は政治的指導者や知識人ではない一般庶民を常民とよび,彼らによって口承されてきた民話の収集をおこなった。柳田の他にも,南方熊楠・柳宗悦・折口信夫らが日本の文芸・芸能の発掘をおこなった。

【哲学・倫理学】
 戦前の日本ではドイツ哲学の活発な紹介・研究がおこなわれたが,明治末期から大正時代にはいると,西田幾多郎・和辻哲郎・田辺元のように西洋思想に学びつつも,禅仏教などの東洋思想との融合をはかろうとする試みがおこなわれるようになった。またマルクス主義の系譜からは,河上肇や三木清らが出た。
(1)西田幾多郎
 禅体験と西洋思想との融合によって独自の思想を確立した。その思想体系は西田哲学とよばれている。主観・客観の分裂を前提とする西洋哲学に対して,人間の根源的な体験は(禅体験のように)主客未分であるとし,主著『善の研究』(1911年)で純粋経験の概念を確立した。またあらゆる存在を生み出すものは無であると考え,存在の根本原理としての絶対無に到達した。
(2)和辻哲郎
 人間とは相互に孤立した存在ではなく,人と人との間柄に成立する間柄的存在であるという倫理学(人間の学)を打ち立て,行き過ぎた西洋の利己主義的な個人主義を批判した(『人間の学としての倫理学』(1934年))。個人的でもあり,同時に社会的でもある人間は,個人としての自覚と社会の成員であるという自覚を同時にもたねばならない。また自然環境とそこに生活する人々の生活様式の関係を考察した『風土』(1935年)も有名。

(WEB:独学ノート)



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